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第20回

ウォークマンを装備してNHKへ通った。
昭和54年(1979年)

[ 更新 ] 2022.05.16
 手元に三田キャンパスの図書館のイラストとペンのマークを入れた慶応義塾のノートが2冊あるのだが、これは卒業間際に生協で記念に買ってきたものだろう。ページをめくるとここにはTVガイド編集部で働き始めた頃のことが記録されている。1冊は「出番です」という自ら執筆した新人俳優や歌手を紹介する短いコラムのスクラップ帳になっているが、もう1冊には担当テレビ局として日々通うことになったNHKの局内地図や番組広報室(番広)の人々の名前と席の配置、ちょっとした取材メモ……などが記されている。こういうノートは確か、NHK担当の前任者に促されて作ったのだ。フクダさんというその人は度の強いメガネをかけた細身の男だったが、昔気質の新聞記者みたいな感じの人で、「番広行って宣材もらってくるだけじゃダメやぞ。現場に張りついてなくちゃ。NHKはすぐ番組差しかわるからな。外信部のコイツとコイツも押さえとけ」なんて、若干関西弁がかった声色で脅し気味に取材のノウハウを説明した。たかがTV情報誌で大袈裟な……とも思ったが、この人は実際優秀な編集者で、この3年後くらいに角川が競合誌「ザテレビジョン」を出すときに引きぬかれて、あちらでもかなり偉くなったはずだ。
 僕らメディア側の窓口・番広は渋谷(神南)のNHKビルの本館12階にあった。これよりさらに高い所に事業関係や役員の部屋などが入っていたが、仕事で関係する部署の1番上が番広のある12階なので、エレベーターでまずここまで行って、基本的な資料(少し先の番組解説集や番宣写真)を入手した後、階段を下って「青少年幼児番組」「科学産業番組」「演芸」「ドラマ」……といった各班(当時のNHKは制作部署を班で呼んでいた)を順に回っていく。
 制作の人たちはチーフプロデューサーを除いてラフな格好をしている人が多かったが、最初になじんだ番広の人々は“ややくだけた公務員”のような、独特のファッションをしていた。当時、アルバイトの女性を除くとすべて中年以上の男性ばかりだったと思う。とくに印象に残っているのは夏場のスタイル。8割方の人が白シャツの首に七宝焼のペンダントみたいなのを付けたループタイをしていた。
 大学の広研時代に知り合った民放バラエティー番組のスタッフなどと比べて遥かにマジメそうなオジサンたちなのだが、そういうループタイの中年男がハタチ過ぎの新人記者の僕をチャン付けで呼ぶ。
「アサイ(本名)チャン、毎日がんばってるねぇ」
 おもえば“チャン付け”をする制作現場の人はあまりいなかったから、あれはNHK番広特有の風土だったのかもしれない。ちなみに番広には、一時期制作班でプロデューサーなどを務めた後、ここに流れてきた、というような人が多かった。
 この番広の部屋の隅っこにカーテンに仕切られた暗室があった。主だった番組の宣材写真はすでに何枚も紙焼きされて番広の担当者の手元に揃っていたが、用意されていない番組を写真入りで取りあげることもある。そういうときに制作班まで行って、掲載写真に使えそうなネガやポジをもらってきて、この暗室の現像機にかけてプリントアウトするのだ。
「アサイチャン、うまくできたらこっちにも何枚か分けてよ」
 なんて感じで番広の担当者に現像を頼まれることもあった。暗室に充満する現像液の酸っぱい臭気が鼻の記憶にこびりついている。
 ちなみにNHKの当時の主だった番組は、朝ドラ(連続テレビ小説)が「マー姉ちゃん」、大河ドラマが「草燃える」、定例ドラマは他に銀河テレビ小説、ドラマ人間模様、土曜ドラマなどの枠があり、バラエティーは「お笑いオンステージ」「連想ゲーム」「脱線問答」「レッツゴーヤング」「のど自慢」「テレビファソラシド」、科学バラエティーみたいなポジションの「ウルトラアイ」、歴史バラエティーの「歴史への招待」、社会派ドキュメンタリーの「ルポルタージュにっぽん」「新日本紀行」……人形劇や教育テレビの番組まで書いていたらきりがないが、雑誌が発売される水曜日は大型のズダ袋のなかに、ヒモでくくられた30冊くらいのTVガイドをぶちこんで、各番組のデスクのもとを配本して回る。
 どれほどていねいに配っていたのか……細かい記憶は薄れているが、エレベーターを待つのはめんどうなので、階段を何度も上ったり駈けおりたりした場面の記憶が残る。何よりNHK館内は通路がややこしい。高層の本館に西館、東館が隣接した3館仕立てだったが、方向感覚がわからなくなるような屈曲した通路区間がいくつかある。テロ対策のために敢えて難解に作った……と聞いたことがあったが、とくに5階の裏町めいた場所にあるスタジオに行くときなど、よく道に迷った。ラジオ番組を収録するスタジオが並んだ筋だったが、所々に置かれた手動装置のお茶が渋くてウマい(NHKマークの陶器茶わんで飲む)。ここでお茶を飲んで、隅っこの空いたソファーでよく昼寝した。
 スタジオで思い出深いのは、1階奥にある100番台のスタジオ街だ。本館の方から歩いてくると、入ってすぐの105か106スタジオで毎日のように朝ドラの収録が行われていた。あたり一帯に漂うドーランのムワッとしたニオイに新人社員の僕のテンションは上がった。
 NHKの朝ドラは、それ専用の紹介ページが設けられていたので、局担当の僕が解説原稿を書く必要はなかったが、そのページの一隅にあった「弓子のスタジオある記」というコラムは僕の受け持ちだった。弓子とは「マー姉ちゃん」で三姉妹の母親を演じる藤田弓子のこと。彼女が物語やスタジオの裏話を語る、というていのもので、執筆した原稿を受け取ったこともあったが、収録の合い間に楽屋を訪ねて聞き書きすることも多かった。つまり、藤田弓子さんはTVガイドに入社して最初に接触した芸能人ということになる。
 先のノートに、エピソード(失敗談、くせ、方言苦労話)、磯野邸のこと、弓子の家庭観……などと、ネタ出しに使おうと思っていたような事項が書き出されたページがあるが、磯野邸──とあるように「マー姉ちゃん」は「サザエさん」の長谷川町子の家族を描いた物語で、主人公の長女(マリ子)を熊谷真実、次女(マチ子)を田中裕子が演じていた。田中もこの番組でブレイクしたが、僕は1年前につかこうへいの稽古場で熊谷を見ていた(第13回)ので、彼女に会えないか……ちょっとそわそわしながらスタジオのあたりをうろついていた。
 この100番台のスタジオ街は1番奥に101という客入れ公開番組用の大きなのがある。日曜夜の人気バラエティー「お笑いオンステージ」はここで収録されていたが、司会の三波伸介が「減点パパ」という人気コーナーで、子供との質疑応答をもとにこれから登場するゲスト(パパ)の似顔絵を描く。その原画をもらいにいって、誌面にクイズ形式で掲載(目の部分を隠して)していたのだが、僕が収録日に三波さんの楽屋に出向いていた。
 ほとんど会話を交す余裕はなかったが、狭い楽屋に巨体の三波さんが窮屈そうに収まっていた光景が目に残る。
 101スタジオのそばに「丸コア」というヘンテコな名前の喫茶室があって、もう1つのノートに貼り付けられている「出番です」というコラムの取材でよく使った。
 これは各局の番組に出演する駈け出しのタレントを紹介する短冊型の小コラムで、文字数は200字足らずだったが、データ中心の番組解説記事とは違って、多少自分なりの文章を書ける唯一の場所だった。事務所が発行するプロフィール資料だけで充分まとめられるスペースではあったが、ミーハーな僕はわざわざコンタクトを取って、タレントの取材を試みることが多かった。
 スクラップの横に54・5・18(昭和54年5月18日号)と号数が記された、佐藤恵利というコの記事は印象深い。彼女は「レッツゴーヤング」のレギュラー“サンデーズ”の新メンバーの1人で、夏にレコードデビューが決まっていた。もう1冊のノートの方に取材時のメモ書きが残されている。それをもとに僕がまとめた文章は「十月生まれの天びん座。」と、いきなり星座の紹介から入って、こんな時事ネタを織りまぜた一節で締めくくられている。
「夏のデビューに備えて、連日特訓の彼女も、チーズケーキとインベーダーゲームが好きな普通の女の子。十七歳。」
 佐藤恵利は惜しくもアイドルとして大成しなかったが、次の正月に直筆の年賀状がきたときは舞い上がった。
 ソニーのウォークマンが発売されたのもこの夏(7月)のことだった。TVガイドの編集部にヨシさんというオシャレで新しモノ好きの人がいて、いち早くウォークマンを入手して「いいぜ、コレ」と僕も勧められた。


著者の手元にいまも残る昭和54年当時のウォークマン

 いまも手元に残るウォークマンはTPS-L2型という初代機で、カセットテープをセットするフタの所にWALKMANのロゴがないので、ごく初期のものになるらしい。しかし、詳しい解説書によると最初期のマシンはヘッドフォンの挿入口の2つ穴(男女カップルで聴ける)の所にJACK&BETTYと記されているそうだが、僕のはGUYS&DOLLSの表記だから初回生産より少し後のタイプのようだ。この冬のスキーのときにレークプラシッド五輪のテーマ曲になったチャック・マンジョーネのインスト曲をよく聴いたおぼえがあるから、翌年の年頭あたりには入手していたのではないだろうか。
 そして、ウォークマンは会社やNHKへ向かう通勤時に欠かせない小道具となった。わが社は出版系だったが、ラフな服装は御法度で、スーツ(ジャケット)にネクタイ、というのがきっちり決まっていたから、僕はジャケットのポケットにウォークマンを入れて、ヘッドフォンを耳にあてて通勤の山手線や千代田線に乗った。BGMとともに眺めるサラリーマンの動きや車窓をかすめる景色は映画(まだMTVや環境映像は浸透していなかったが)の1コマのようで刺激的だった。
 〈ウォークマン越しの霞ケ関〉みたいなタイトルを付けた通勤用のカセットテープがあったけれど、その1曲目にれていたのはYMOの「テクノポリス」だった。
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