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第5回

大人になれば

[ 更新 ] 2022.10.01
 拙著『続・ぼくの鹿児島案内』の出版記念トークというイヴェントがあって、その時に会場から質問があった。「門を知っていますか?」。鹿児島中央駅近くにある喫茶店のことらしいのだが、正直に「知りません」と答えた。どうやら質問者は〈門〉が拙著に載っていないのが不満だったようである。だから、次は必ず行ってみますと付け加えた。
 調べてみると〈門〉はジャズ喫茶ということだった。ジャズ喫茶なら楽しみだ。期待が膨らむ。数ヶ月後に店を訪ねた。中に入るとジャズ喫茶然とした雰囲気はまるでなく、しばらくそこでコーヒーを飲みながら観察してみたものの、ジャズのジの字も出てこない。オーナーが代わってしまったのかもしれない。諦めて店を出た。ところが、それからしばらくして友人が「門って知ってますか?」と、ぼくに訊く。それで、トークイヴェントのエピソードを話した。すると彼は笑いながら「門には二階があって、そこは週に一度だけ開くんですよ。ジャズ好きの常連たちが酒を飲みながら、大音量でジャズを聴いています」と教えてくれた。それであらためて一緒に連れていってもらう約束をした。

鹿児島中央駅の近くにあった喫茶店〈門〉。いまはビルごと取り壊されてしまった。

金曜日の夜にだけ開いていたジャズ喫茶〈門〉。

 ただ、ぼくと友人が揃って金曜日の夜に鹿児島にいるという機会がなかなか巡ってこなくて、結局、ぼくらが〈門〉の二階に行けたのはさらに数ヶ月後だったかと思う。夜の部が始まってすぐの時間に二階へ上がると、そこには数千枚のレコードと巨大なスピーカーがあった。他には客はなく、ぼくらは奥のテーブル席に陣取った。やがて常連客が現れ、マスターも楽しそうに酒を飲み始めた。その夜にどんな曲が流れたかは憶えていない。もちろんジャズの名盤ばかりがかかったはずだし、その場の雰囲気にもぴったりだった。ぼくが憶えているのは、ぼくらの席の横の壁に貼られていたポスターのことだけである。それは小沢健二のニューシングル発売を告知するポスターだった。〈門〉のマスターがオザケンのファンであるとは考えにくいから、共演したピアニストの渋谷毅と、ベーシストの川端民生がマスターのお目当てというか、何かこの二人との関わりからこのポスターを貼っていたのに違いない。ただ、この夜に小沢健二の「大人になれば」がかかっても、店の雰囲気が壊れてしまうことはなかったはずだ。それまでのオザケンとは違うこの曲を、ぼくはいまでも大好きである。ちなみにぼくは、川端民生はネイティブ・サンという70~80年代に人気のあったバンドのメンバーとして知っていたが、渋谷毅については恥ずかしながら、すぐに誰なのかわからなかった。

小沢健二「大人になれば」のシングル発売告知ポスターが、壁に貼られていた。


小沢健二「大人になれば」1996年

 その後、鹿児島中央駅前の再開発があって、〈門〉は閉店することになった。マスターはそれを機に引退し、レコードもなにもすべて業者に引き取ってもらおうとしていたらしいのだが、金曜夜の〈門〉を教えてくれた友人が、クラウドファンディングで資金を集め、〈門〉のオーディオ装置と膨大な数のレコードを他の場所に移し、マスターの貴重なコレクションを、若い世代のために引き継いでいる。そこには、定期的に〈門〉の常連ジャズ・ファンたちが集っているそうだ。ぼくもいつかその会に参加したいと思う。

 中央駅前から山下町〈コーヒー・イノベート〉へ場所を移したマスターのコレクションとオーディオ装置。その後〈コーヒー・イノベート〉が移転し、いまは同じ場所で〈LUCK APARTMENT〉という店に引き継がれている。
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