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第274回

はかり知れない世界。

[ 更新 ] 2024.02.13
十二月某日  晴
 大学時代の友だちと電話。
 彼女の飼っている犬の話となる。
 いわく。ふだんあまり犬の散歩をしない夫が、その日は散歩に行くという。
年をとり、前庭疾患となって平衡感覚のおぼつかない犬なので、くれぐれも気をつけるよう、ことに、川のそばは歩かないよう、と、彼女が注意したにもかかわらず、夫は犬を連れて川沿いの道を散歩した。
案の定、犬はよろよろと川のほうに向かってゆき、水に落ちた。あわてた夫は、自分も川に入り、犬を抱きあげた。それから、川の土手に上がろうとした。ところが、土手が高くて、犬をかかえたままでは、どうしても上がれない。どう試みてもだめなので、最後に夫は携帯電話で彼女に助けを求めた。
彼女はいそいで川まで走り、さほど深くはないが、腿のあたりまで水につかっている夫と彼に抱かれた犬のところまで到着した。夫は、身長180センチほどで、恰幅がいい。けれど、彼女も若いころからスポーツに親しみ、筋肉質であるので、夫の一人や二人、簡単に引き上げられると思った。まず犬を受け取り、近くの木につないだ。それから、夫に手をのばし、引き上げようとした。けれど引き上げることはできず、かわりに、彼女も水に落ちた。
しばらく二人でいろいろ試みたが、土手に上がることはできず、最後は119番に電話をした。見物人は集まるわ、救急隊員には叱られるわ、水は冷たいわで、さんざんだった。
教訓。自分の腕の力を過信してはいけない。
 とのこと。
え、それが教訓? と思うが、筋肉質ではない自分にははかり知れない世界が、きっと筋肉質でスポーツが得意な人たちの中には広がっているのだろうと思いなおし、すなおに、
「なるほど」
 と答えておく。

十二月某日 晴
 携帯電話の調子が悪くなったので、買い替えて、機種変更の手続きに行く。
 広い店内には、お客が数名おり、静かに手続きなどをおこなっている。
 と、そこに一人の男性が入ってきて、係の人としばらくやりとりをしたのち、突然怒鳴りはじめる。
「なぜ俺はそこで金を取られなきゃならないんだ」
「口のききかたがなっとらん」
「おまえじゃ話にならん、上司を出せ上司を」
 というような内容を、少しずつ言葉をかえ、十分以上も怒鳴りつづけ、あげくのはてには、机を殴りつけたり、足を踏み鳴らしたりしはじめ、大変に恐ろしい。
 ちょうどわたしのまうしろのカウンターでのやりとりなので、ますます恐ろしい。
 わたしの係の人に、
「大丈夫でしょうか」
 と聞くと、
「こちらに向かってきたときには、どうぞカウンターの内側に逃げこんでください」
 と言うので、
「背中を向けているので、いつこちらに向かってくるかが、わかりません……」
 と、さらに恐れると、
「大丈夫でございます、必ず、合図をします」
 と、請け合ってくれる。
 恐ろしさは去らなかったが、請け合ってくれたので、少しほっとする。
 二十分ほどすると、警察官が二人、やってくる。それまで怒鳴り散らしていた男性は、とたんに静かになり、すぐに去っていった。
「このようなことは、よくあることなのでしょうか」
 と、こっそり係の人に聞くと、
「かなり、珍しいことでございます。とても、大きな声を出すことのできるお客様でございましたね」
 と、神妙な顔で、言う。
「大きな声を出すことのできるお客様」
 という表現はどうなのだろうか、そこまでお客を尊重しなければならないのだろうか、と疑問に思うが、接客業ではない自分にははかり知れない暗黙の了解が、係の人たちにはあるのだろうと思いなおし、すなおに、
「なるほど」
 と答えておく。

十二月某日 雨
 風邪をひく。たいした症状ではないのだが、だるい。
 十六年間作りつづけてきた、辰巳芳子式の手のこんだおせち用の煮しめを作る気力がなく、今回はふつうの筑前煮を作ることにする。
 二日間かけて作る辰巳芳子式にくらべ、ほんの一時間ほどで完成する筑前煮を作っているうちに、
「もう辰巳芳子の煮しめは卒業しよう」
 と、突然決意する。
 決意したとたんに、だるさが去り、明るい気分に。
 辰巳芳子を卒業したので、黒豆とゴマメも作らないことにし、かわりに、明日の買い物では、蛸をいつもよりたくさん買うことも、決意。
 風邪は、すっかり回復した心地に。
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