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第264回

大きな塩じゃけ。

[ 更新 ] 2023.04.10
二月某日 曇
 駅のベンチに座っていると、わたしと同年配の婦人が隣に座り、携帯電話をかけはじめる。
「投函しました。ポストに。泣き寝入りします。泣き寝入りします。泣き寝入りします。泣き寝入りします」
 相手は黙っているのか、あるいは、留守番電話に吹きこんでいるのか、あるいは相手などいなくて、どこにもかけていない携帯電話に向かって喋っているのか、ともかく間断なく話しつづけている。
 抑揚のないささやき声で、「泣き寝入りします」を繰り返す婦人の隣の席をそっと立ち、遠くに移動。
 横目でうかがっていると、婦人は電車がくるまで、ずっと携帯電話に向かって、何ごとかをささやいていた。

二月某日 晴
 学生時代の友だち三人で、夕飯。
 この前、ちがう友だち三人で夕飯を食べた時には、たいへんに眠くなり、二人を残して先に帰ってしまったことが、ずっと気にかかっている。
 なので、今日は昼寝をしてそなえようとも思ったが、昼食後にベッドに横たわり、いくら山羊を数えても(東京日記第263回参照)、ぜんぜん眠くならないので、しかたなく仕事に戻る。
 あまりはかどらないまま、待ち合わせの店へ。家の近所ではなく、外苑前である。
 外苑前に行くのは、五年ぶりくらいかもしれない。世のひとびとは、コロナ生活の中でも、すでにあちらこちらへと幅広い行動範囲を取り戻しているようだが、わたしはまったくそうではない。
 東京に住みながら、すでに東京のことはほとんどわからなくなっているので、グーグルマップを開き、渋谷の駅から店まで歩く。ほんとうは地下鉄で行くほうが近いらしいのだが、地下鉄に乗るのにもびくびくするようになっているので、歩く。
 渋谷の雰囲気に興奮したせいか、今日は眠くならず、食事をすませてから、友だちと三人でふたたび渋谷の駅まで歩き、興奮したまま井の頭線に乗り、家につき、興奮しているので、やはり山羊を数えてもなかなか寝つけない。

二月某日 雨
 知人から電話。
 首相の秘書官が、性的マイノリティーのひとに対して、「隣に住んでいるのもいやだ」と言ったことに対して、知人の同棲している恋人が、
「僕だって実はそうだ」
 と賛同したので、大げんかをし、まだむかむかしているので、電話したとのこと。
「隣に住んでても何の問題もないし、なんならむしろ隣に住みたい。ていうか、そういうことを言う恋人とは隣どころかもう一緒にも住みたくない」
 とたたみかける知人に、うん、うん、そうだよねえ、と答えつつ、知人の親切さに、ひそかに感じ入る。
 わたしなら、そういうことを言う恋人がいたら、けんかをするどころか、何も言わずに、書置きも残さずに、その日の夕方、出ていく気がするので……。
自分の「友だちが少ない・すなわち他者と継続的な関係がつくれない問題」の原因の一端を知る思いにひたりながら、恋人をけなす知人に、相槌をうちつづける。

二月某日 晴
 寒い日。
 干物屋に行き、大きな塩じゃけを買う。
 店のおにいさんが、
「こんな寒くなるなんて、聞いてない。ひどい」
 と、笑いながら文句を言っている。
 たしかに、だれかに文句を言いたくなるような寒さ。でも、おにいさんが文句を言ってくれたので、なんとなくわたしまで気がすむ
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