第12回
やくらいのうばさま(2)
[ 更新 ] 2018.02.01
遠藤さんの車でおばあちゃんの家に向かう。車を降りると「やくらい寝装」という看板が見えた。おばあちゃんは、水色のエプロンをして、縁側のようなところで掃除機のフィルターを交換しようとしているところだった。今日の約束を忘れていたようで、いくらか慌てていたが、無事お話を伺えることになった。近くの温泉宿にでもありそうな座布団がいくつも、おばあちゃんの背後のテーブルの上に積まれている。
昭和11年生まれの81歳、猪股圭子さんがおんばさまを信仰し始めたのは30代のことだったという。圭子さんの実家は加美郡色麻町南大村という場所で、布団の打ち返しをしていた。ご主人は東北電力でダム造りに携わり、山形の鶴岡で暮らしていたが、次は北海道といわれたため、二人で宮城に戻り大村の実家で布団打ち返しの仕事を始めた。しかし、他の兄弟も同居しており長く住むことはできなかったので、購入した打ち直しの機械も置いて、全くゼロからご主人の実家で仕事を始めることになった。
「二人子連れで裸一貫でこっち来たけど、家の中で色々うまくいかなくて。娘が3、4歳くらいのとき、山さお参りに行ったの。何に面白いことねえから。嫁だから揉めたり、舅さんへの務め足りなくて従ってきた。色々苦労した。それが神様さ頼ったきっかけ。あそこの神様な、女の神様で思い叶んだぞって。三回続けて登ると叶うと。お参りすっと願い叶うと。何を願ったかというと、ここさ落ち着いてうまぐいくように。子供たちも健康で。商売のしょの字も知らないで始まったからね。欲をつけっと、ここの薬莱から見えっとこにお客さんができるようにとお願いした。あめっこでもポンと置いてきてね。帰りに何か取ってくっかな、ときのこ見ながら来た」
布団の打ち返しの仕事というのは、決して体裁のいい仕事ではなかったようだ。「ゴミ飛ぶし、防塵マスクっつうの、そうして動かなきゃならないし、ガラクタ集めみたいな仕事に見えたんじゃないか」と圭子さんは言った。けれど、母親に「自分で選んだんだったら、あんだががんばんなさい、布団やさんて呼ばれるようになんだから」と励まされたという。今では近所の「やくらい薬師の湯」という施設から毎月リースがあり、生活も安定した。圭子さんはこれも「やくらいの神様」のおかげだと思っている。着物を着せてあげたのも、この間遠藤さんに託したのが最初ではなかった。
「何回か着せたよ。裸で苔なんぞ生えてさ、ひどかったから。布団屋になったの後悔しないで、娘もこの仕事で順調にいってんのね。やっぱり見ててくれたんだなあと。同じ商売始まった人が5人くらいいて、残ったのは神様のおかげかなと。他はみんなやめてしまった」
不思議な話だ。神様のおかげ、が本当か。信じきれない人もいるだろう。けれど、自分以外の何かを頼り、祈るというのは、心に謙虚さと清新なエネルギーを取り戻す行為なのかもしれないと思う。いわば自浄の循環を作り出すような行為であり、それがすべてを好転させていくという側面もあるのかもしれない。
圭子さんはおんばさまの、もうひとつの霊験も教えてくれた。
「おっぱい出る神様だからと。順調に出たから子育ては楽だった。弟に『圭子姉ちゃん拝んでけろ』と義妹のために拝みにいったこともあった。あとできいたら順調に母乳で育てたと」
あれだけ豊かな胸をしているので、やはりお乳の信仰が生まれ、子育ての神様にもなっていた。しかしはさみは一体なんだろうか。
「一番さきに行ったとき、はさみっこ、刃物があったのよ。鉄ごとする人あげてんじゃねえかと思ったけど、裁ちばさみ、つかわなくなったのあげて。いいはさみをおいてきたりしたの。そのうち『圭子さんがお参りする』と広まって、トタンばさみとか、色々おかれるようになって。職種によってね」
面白いのは、すでにその由来自体を分かる人がいなくなっても、圭子さんを始め「この神様にははさみを供えるといいらしい」という理由で、はさみを供える習俗が続いていることだ。おそらく、このおんばさまに初めてはさみを供えた人は橋姫の信仰を持っており、そこには縁切りの願いが込められていただろうとも思うのだが、やがてその詳細は忘れられ、圭子さんが聞いたとおり「お参りすっと願い叶うと」という万能の神に近いものになっていったのだろう。仕事の中ではさみを使う人々は、商売繁盛を願って供えただろうし、裁ちばさみを供えた圭子さんもまたそうだっただろう。民間宗教の神様の信仰はその時々、祈る人の願いやインスピレーションを映しながら如実に変容していく。
姑との関係に悩み、子供を抱え、仕事もゼロからの駆け出しだった30代、生き抜くために必死だった圭子さんは「やくらいさんの神様」にすがった。もう登って会いにいくことはできないけれど、新しい着物を縫うことはできる。それを今年隣家の獣医さんに託した、というわけだった。
「まず縫うべと思って。最後の一発だわなと」
夕飯を作る時間までに東京に帰りたかったので電車の時刻が迫っていたが、地元の図書館に寄っておきたかった。急ぎ足でめぼしい資料をコピーして、一日ナビしてくださった遠藤さんへの挨拶もお礼もそこそこに、新幹線にぎりぎり駆け込む、という形でドタバタの加美取材がとりあえず終わった。
後日そのときにコピーした資料のひとつ『小野田町史』を読み込んでいて驚いた。それはあのおんばさまにどうやらお姉さんがいたということが分かったからだった。郷土史をまとめた本にはよく、地元の伝説や言い伝え、方言なども収録されているが、その中に「西上野目薬師堂」と題された話が載っていた。
薬莱山が遠く美しく眺められる里に仲のよい二人の姉妹がいた。春の日差しが暖かくふりそそぐ四月、二人は語り合ってあの山に登ることにした。麓近くまで来た時、姉は何かにつまづいて倒れ、そばにあったウドのとげで目をついてしまった。急いで引き返し手当をしたが、痛みはとれずますます悪くなるばかりであった。姉は妹に向い「私は目が痛くてどうしても山には登れそうもない。お前だけ先に登っておくれ」というので、妹は心を残して山に登ったという。それで妹は山の上に祀られ、姉は西上ノ目の薬師堂に祀られることとなった。薬莱山にお参りする人は、四月八日前は、そのためウドは食べられないという。
(『小野田町史』)
びっくりした私は、急いで遠藤さんに西上ノ目の薬師堂が現存するかどうか、問い合わせたところ、早速農家さんに電話して、まだ信仰が続いていることを確認してくれた。そして自らそこを訪れて長いレポートと写真とを送ってくれたのだ。私はどんな姥像が祀られているのだろうと想像していた。だから、そこに祀られていたいくつかの像の写真を見て絶句した。そこには、みやげ物屋で売っていそうな小さな地蔵を除けば、4体の像があり、一体はまぎれもなく少女の上半身の像だった。少女はやわらかくほほえんでいた。そしてその隣は赤ちゃんを抱いたような女性の像、その隣には地蔵の頭部のようなものがおかれ、それらの背後に一回り大きい石があり、そこに、姥なのか少女なのか地蔵なのか、判然としない神様が、素朴な表情で彫られていた。像はそんなに古いものではなさそうだったが、ウドの毒がもとで早世した姉の物語を後世にも伝えたいという思いから像が作られたのかもしれない。姥でないのは当たり前だった。姉は少女で、妹は姥。姉の時は止まったのだ。そのアンバランスの悲しみと共に、少女像のやさしそうなほほえみが心に沁みた。遠藤さんもこの像たちに胸うたれ、「一体ずつが、山頂の妹に精一杯の思いやりを向けているようでした。実際にその方角は薬莱山を向いておりました」と報告してくれた。
加えて、遠藤さんの送ってくれた写真には漢字の「目」をいくつも紙に書いたものが写っていた。それには住所と名前も記してある。漢字の目でなく、目玉のイラストをいくつも書いている人もいる。どうやら年齢の数だけ漢字や絵で目をかきこんだ紙が祠の中に貼られているという。うどのトゲで目を痛めて死んだ姉は、眼病に苦しむ人たちの信仰を集める独特の薬師さまになっていた。
霊山に姉妹が登ろうとする話は実は各地にある。女人禁制に絡んだ物語である。多いものは3姉妹の話で、姉たちは先に石になり、妹だけが山頂近くまで来たが、石になってしまった、というものだ。これは尼とお付の少女のバージョンや杉になるバージョンもあり、富山立山の回でも触れた。薬莱山も1時間もかからず登れる山ではあるが、天台修験が信仰した過去もあり、女人禁制の時期があったのかもしれない。しかし、それが厳格なものだったかはわからない。姉妹の物語からもそれは感じられる。禁を犯したために石にされたという立山と比べても、ウドのとげでケガをするというのは、単なる事故のようでもあり、何より妹はほぼ山頂にいる。女人禁制にまつわる姉妹登山譚の影響を感じさせながらも、より牧歌的であり、その分より叙情がある。
薬莱山の姥さまは、橋姫の縁切り、子育てや商売繁盛の霊験、姉と生き別れた妹、と様々な物語を付与され、土地の人に愛されてきた。橋姫のようでありながら川は傍になく、山頂付近におかれた謎は残るが、思いもかけず姥さまの姉の存在も含んで、はかない物語が立ち上がった。「なんというか、生きた物語だなあ」とつぶやきながら、遠藤さんが西上野目の薬師堂に行ってくれた日は町に初雪が降った日だったという。
山上の妹の、圭子さんの着物を着たその肩にも、厳しい顔の上にかぶせられた毛糸帽の上にも、もうだいぶ雪が積もっていることだろう。
絵・文字 松井一平