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第10回

正受院のわたのおばば(2)

[ 更新 ] 2017.12.07

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 嘉永期にはあらゆる願掛けをされた奪衣婆だが、そもそもは子育ての神として、咳封じ、虫封じの霊験が強調されていた。若月紫蘭『東京年中行事 二』には「正受院脱衣婆」のご利益として「杓子に目木大名神と記したるを願掛けの時寺に納め、再びこれを受けて自宅に持ち帰り、軒先にうちつけ置けば百日咳を治す」とある。杓子はへらのことだ。シャクシやへらは、もともとは道祖神とも通ずる石神・ジャグジ信仰に繋がっており、男根の象徴とされるが、同時に「シャクシ取り」「シャクシ渡し」などのように「主婦権」の象徴とされ、女性と縁が深いものでもある。民間信仰では山ノ神を祀る神社で、子育てのお守りとして杓子を配布することが多く、妻を山の神と言う言い方にも符合する信仰だが、「多産を促し、安産を守り、病気を追い払い、霊を呼び迎えるなどといった祈願儀式や祭祀活動まで、シャクシと女性とは広くかつ強く結びついている」(王秀文「シャクシ・女・魂―日本におけるシャクシにまつわる民間信仰」『日文研フォーラム報告書 第89回』1997年)という。

 「願掛けしゃもじは今も年に一件くらいは依頼があって渡しています。今のしゃもじには目木大名神とは書いていません」
正受院に電話をしてみると、原口信英住職は法要の合間に時間を確保してくれ、正受院の一室で快くインタビューに応じてくれた。目木大名神については、事前に調べてみるも手がかりがつかめなかった。若月紫蘭の生まれた明治までは信仰されていたものだろうが、住職もわからないという。長沢利明は『西郊民俗』に寄せた論文の中でこのしゃもじの図を載せ次のように解説している。

 願文は、表側中央に咳ふうじであれば「咳御免」、虫ふうじであれば「虫御免」と大書きし、その左に子供の生年月日、右に名前を書く四方にはよく祈祷札などに用いられる四本のヒゲ状の呪印を書き、シャモジのつけ根部分には「ロ」の字を書く。口内の咳や虫をふうじるの意である。裏側には梵字「カ」の音を書くが、これは子育ての地蔵菩薩の種字をあてたものであろう。
 (「針供養と奪衣婆──東京都新宿区新宿・正受院」『西郊民俗』124号、1988年)

原口住職は梵字は「風」の字ではないか、と言う。梵字の知識はなかったが、調べてみると確かに「カ」の梵字は風を表し、さらに地蔵菩薩をあらわす文字でもあるらしい。地蔵は確かに子供の守り神だが、奪衣婆のしゃもじにも書かれている。「奪衣婆だけでなく地蔵にも頼んでおけば、まず間違いない」という感じだろうか。大雑把な感じが面白い。
「最近は本尊の阿弥陀様の御朱印を下さいといわれたり、奪衣婆のも下さいといわれることが増えました。流行っているんでしょうか」
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住職が不思議そうに言う。「しゃもじ」のことを知る人はもはや年に一名といった感じだが、奪衣婆のことを気にしている人はそこそこいるのかもしれない。気づかなければいつまでも気づかないが、気づいてしまったら気になって仕方ない。そんな不思議な存在感で「綿のおばば」は靖国通り沿いにひっそりと鎮座している。
 現住職のおじいさん(?)にあたる徳正氏は昭和18年応召され、シベリヤ抑留を経て昭和22年11月に帰国している。正門脇のバラックで1年ほど暮らし、本堂を再建してはじめたのは庶民、とりわけ女性たちの信仰を得ていた子育て老婆尊「綿のおばあさん」を囲む会だった。毎月六日の夜に集いを持つことになり(後に子育て講)、「これが人々の心の渇きをいやすてだてとはなった」と徳正氏は寺誌で回想している。
 現在の正受院がもっともにぎわうのは2月8日針供養の日だが、これは昭和32年、業界の発展を祈願したいという東京和裁組合の打診を受け正受院に針塚が建立されて、新たに始められた行事だ。針供養といえば、豆腐に使った針を刺す光景が印象的な行事だが、安産、裁縫の上達など女人にまつわる和歌山の淡島信仰に端を発するといわれる。江戸時代は淡島信仰をひろめる淡島願人によって全国に広まった。現在も針供養を行う寺社は淡島信仰を伝える場所がほとんどだが、この正受院は例外であり、前述の長沢は正受院の針供養について「奪衣婆と針供養というおよそ連関を有しえないと思われたふたつのキーワードが結びつくという現象」と驚きをもって指摘している。しかし、針供養と奪衣婆とは、戦後突如結びつけられた信仰ではなかった。
「綿を収めるのと同じように、針を納める習慣も針供養の前からあったようです。父の時代に綺麗にしようということでお百度箱を開けてみたら古い針が出てきたんです」
百度箱というのは百度石とともに、百度参りに使われるものだ。本来なら100日願をかけるべきところを、一日の参拝で門近くの百度石から百度箱まで100回詣でて祈る参り方だ。百度石から百度箱までは通常ある程度離れているが、今は移されて奪衣婆の祠横の針供養碑の手前左右に配置されている。100回の目印に小石などを百度箱に入れたというが、ここに針が入っていた。大々的な針供養の儀式はなくとも、細々と江戸時代から奪衣婆に針を納める人たちがいたのだ。面白いのは、戦後間もない時期に正受院で小さな針供養が行われていたらしいことだ。

 盛大な針供養が正受院で行なわれるようになったのは昭和三十二年からで、それまでは  戦後の道義の頽廃人心の荒涼した世相を憂いた住職が関係有志と相談して針供養奉賛会を組織して小さな御堂でささやかに針供養法要を営んでいたが、これは針を通じて感謝報恩の念を喚起し、少しでも世道人心の向上に寄与しようとの考えからであった。
(『正受院寺誌』)

こうしたひっそりと続けられていた下地があって、昭和32年からの本格的な針供養も実現していったわけだ。その日を生きぬくために、人を欺いたり、物を奪ったりと多くの人が必死だった戦後の混乱の中で、「針に感謝する」針供養が「感謝報恩の念」を人々に思い出させるために営まれたというのは、興味深い。人は自己だけで完結できるものではない。完結しようとすれば、悩みが生まれ、欲も不満も失望も膨らんで行く。何かに感謝するという心がどれだけ、人の心を静めてくれるものか、宗教者として徳正氏は針供養を通じてそのことを人々に伝えようとしたのだろう。
 正受院の最近の針供養の写真を見せてもらうと、華やかな赤い衣装の女性たちが行列に参加している。みな和装組合の教え子たちだという。20年ほど前までは、新宿2丁目をぐるっとまわり、稚児も多く、露店もでて着物姿の参拝客も多かったというが、最近は洋装の人がほとんどで、行列も寺の周りをまわって、甘酒を振舞う程度になっているという。前述の長沢が論文を書いた30年近く前は、地元の子育て講の人たちが、針供養御詠歌を歌っていた。

一、ありがたや きょうは老婆尊の 針供養
  そろうて詣らむ 古針あつめて
二、針はこぶ 手にも誠を忘れずば
  おのづと通うみ仏のみち

針仕事なんて言葉も若い世代ではほとんど使われなくなってきた昨今、針供養も往時の勢いはないのかもしれない。30年は都会の寺の、一つの、かろうじて残っていた子育て講や、そこで歌われていた歌が消えるには十分な時間である。それでも、来年の2月8日ふらりと出かけたら一人くらい御詠歌を歌えるおばあさんに出会えないとも限らない、とも思う。
 
 江戸から平成にかけて、この「綿のおばば」は、姥神的な「咳(関)の神」としての古い信仰をひきずりつつ、奪衣婆として閻魔と共に祀られていた。やがて万能神として大流行し、針供養という納針の信仰も付与されてきたユニークな神様だ。おそらくは「おばあさん」「綿」のイメージが裁縫や針のイメージに繋がったのだろう。あるいは奪衣婆の「衣」のイメージも影響しているかもしれない。この奪衣婆にはじめて針を納めた人が、針仕事のうまそうな「おばば」と見たか、死者の衣を奪ったあと、一転夜なべでそのほころびを繕っているユーモラスな奪衣婆を連想をしたか。自由な感性で解釈され、想像されていく民間信仰の上に、私もまた、あれこれと想像の翼を広げることができるのだ。




絵・文字 松井一平
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