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第8回

立山のおんばさま(3)

[ 更新 ] 2016.09.29
 それにしても、と思う。女人禁制を犯して罰せられるという女性にとっては不名誉な伝説と、巨岩そのものが生命の繁栄を寿ぐような女性器の姿をさらしている事実とがどうにも結びつかない。この両者は全く別系統の物語、という感じがするのだ。柳田国男は大正12年『史学』に発表した「比丘尼石の話」で立山の姥石について触れ「老女の化石として評判するが、果してそれ程精密に似て居るかどうか」とコメントしており、実物を見ていなかったようだが、広瀬誠は次のように述べている。

 女性そのものの露骨な姿であることは生産豊穣の古き地母神を思わせるものがある。山麓の芦峅の姥堂は、万物の母神にして、しかも寂滅後冥府の主宰神となったという姥尊を祀り、女人信仰の中心であった。山上の姥石・姥の小便穴などと、山下の姥堂とは対応するものであったろう。
 立山は雄山であって男神の山というのが通念になっているが、古くはイザナギ・イザナミ男女両神の山といわれた。その母神にして冥府神たるイザナミの面影が立山に濃く漂っていることは、立山信仰と熊野信仰の関係からも検討すべきであろう。(広瀬誠「立山と黒部奥山の信仰伝承」、五来重編『修験道の伝承文化』名著出版所収)

 イザナギ・イザナミの山とされたのは江戸期という指摘もあるので何とも言えないが、広瀬もやはり、立山の姥石に女人結界が設定される以前のもっと古い母神の存在を見ている。柳田が「比丘尼石の話」の中で姥石の話をしているのは、姥石の「姥」が、単なる女性ではなく、比丘尼や巫女などの放浪する宗教者のような存在だったと考えていたからだ。美女杉のように老若の2人がセットで犠牲になる話も、各地の姥ヶ池に老若2人の女の死霊にまつわる話に連なるものととらえている。池や泉に巫女にまつわる話は多いのである。山の火性を鎮めるものとしての水を治めた古代の巫女たちの影がそうした話に投影されている。
 広瀬が指摘する熊野信仰との関連について言えば、そもそも、立山と熊野とは開山の物語からして、熊の出現と阿弥陀信仰や十二所権現信仰などが共通している。熊野三山がもともとは女性の血穢(けつえ)を忌避せず、母性本能を第一義とした女人信仰を持っていたことも重要である。しかし、吉野修験が8世紀に登場すると女人禁制が打ち出され、貴族社会では9世紀から、それに遅れて村落でも社会的場からの女性の排除が始まった。それまで古代から長いこと宗教的優位性を示していた巫女たちの地位が落ちてゆき、男性宗教者にとってかわられてゆくのである。つまり、本来地母神的な姥石の上に、登攀を目指す女たちが女人禁制の禁を犯して神の怒りを買うという話がかぶせられていくさまは、そうした主導権をめぐる抗争が下敷きにされているようにも思える。巫女や比丘尼はその神を畏れぬ不遜ゆえに、まさに伝説の中に石化されなければならない存在になっていったのだ。
 もはや地母神たる姥石は人々に忘れられて久しく、麓のおんばさまにしても廃仏毀釈のあおりを受けて、現存するものは減ってしまった。明治が残した爪痕は、言うまでもないが、姥神や姥石の上にかぶせられた女人禁制の物語もまた、無理のあるものに思える。修験道はその根本が母なる胎内である山へと還り再び生まれ変わるという思想であり、母性を否定するものではもちろんない。しかし、女人禁制の物語によって、古来の地母神はその本来の力をそがれている。修験道と母性、修験道と女性性の問題は、時代を経ながら少し歪みを生じたのではないか。俗と聖、あの世とこの世のはざまの「結界」を意味するためにおかれた女神はいつのまにか、そこから締め出される存在に成り下がってしまった。古代の「結界」と近世の「禁制」には大きな質的差異があることを鈴木正崇も言及している(『山岳信仰』中公新書)。

 念願の姥石に到達できた達成感を感じながら、私とNさんは魚瀬さんにお礼を言って別れ、ホテルで昼食をとったあと、ケーブルカーで立山駅に向かっていた。車内は中国からの観光客のおしゃべりと、母親と隣り合わせて座っている少年の退屈を紛らわそうと隣席の男性が鳥の鳴きまねをして、和やかな雰囲気が流れている。時間的にはまだ余裕があった。Nさんの車に乗り込むとドイツ人ピア二ストHenning Schmiedtのインスト曲が、富山の里と田んぼの風景に溶け込んで、時折、波のように感動が押し寄せた。
 Nさんは、もうすぐ市内でとあるスペースを始める話をした。そこは昔の郵便局が入っていた歴史的な建物で、取り壊す相談がNさんのお父さんのところにきたが、お父さんが壊すのでなく使ってみたらどうかとNさんに持ちかけたのだ。Nさんは、そのスペースで上映会や展示会、ライブなどができる空間にしようと準備中だという。所有者によって壊してよいと手放されたものも、きちんとわたるべき人にわたるものなのだなと何か見えない力がはたらいているようで心が震える。
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 ふと、前回(第6回)おんばさまを見た博物館近くを通ったとき、車窓を赤いものがすっと横切った。初夏の緑の中に映える真っ赤な美しい布橋だった。毎年10月にはここで布橋大灌頂が行われ、女性たちが集まるのだ。車道を降りて、橋の方に近づくよう土の道を下っていくと、墓地があった。開山者の末裔なのだろう、佐伯姓が多い。昭和45年に復元されたという布橋は、ゆるくカーブして形も美しい。その後も塗りなおされているのだろう、擬宝珠(ぎぼし)の上部が黒く塗られているのと、歩く部分に木の色をそのままいかしている他は鮮やかな朱色だ。橋を渡り終えて道なりに進むと、右手には美しく苔むした横長の祠に、いくつもの石仏が安置されている。相当古いものらしく、顔がよく判別できないものも多いが、その一つ一つに野の花などが供えられていて、胸うたれる。やがて右手に見えてきたのは閻魔堂だった。ここから布橋まで、大灌頂の時には白布が敷かれ、目隠しをした女たちが橋を渡ったのだ。悪行をしている女性は橋から落ちるとも言われた。男性のように山に入って修行することのできない女性たちは、目隠しを解いたときに得られる生まれ変わったような感動、これで地獄にはもう落ちないという安心を得るためにこの行事に集まったのだ。不思議な気がする。
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 閻魔堂には姥堂にあった5体のおんばさまがいた。博物館に展示されていたおんばさまと共に明治の艱難(かんなん)を潜り抜けた像たちだ。中央はもちろん閻魔様だが、その左に2体、右に3体の姥尊が安置されていた。おしろいを塗ったように顔が白っぽいもの、炭でつくったように真っ黒のもの、目の部分にガラスがはめられてちょっとオリエンタルな異国情緒のするもの、他の4体の5分の1ほどの大きさしかない小さなものもある。「よう来たな」と笑いかけてくれている姥尊もいて、このおばあさんに一番親近感を持った。格好は博物館の姥尊たちとおなじく、白い着物に白っぽい帽子をかぶり、赤いたすきを両肩にかけてたらしている。
 壁の額縁をみていると「選定賞 芦峅寺のおんば様のお召し替え 首記の年中行事を『とやまの年中行事百選』に選定したことを証します 平成20年3月10日」という県教育委員会による賞状も飾られている。おばあさん世代が死んだらすたれてしまいそうな伝統行事もこのように表彰されれば、存続の可能性が増すだろうし、よい制度だなと思う。長野県大町市大出姥堂のおんばさまの写真も飾られていた。このおんばさまは芦峅寺から運ばれたと伝えられているので、「親戚」のように写真が展示されているのだろう。ふと壁の1カ所に「寺尾」という千社札が目に入った。寺尾さんという信者がいたのだろうが、どきっとする。呼ばれてますね、とNさんがニコニコ言う。
 思いがけず残りのおんばさまも見ることができて、大満足でライブ会場に戻ると、主催のYさんが「姥石見れた?」と待っていた。もう無理かと思ったが不思議な流れでたどり着くことができたこと、残りのおんばさまにも会えたことを伝えると、もうたぶんおんばさまの間で「会いに来てくれる」って噂になっているんだよ、と笑われた。
 空腹の中、見つかるかわからない姥石探索に付き合ってくれた魚瀬さんの行動も、おんばさまの「一押し」があったのだろうか。調査したかった猪苗代湖の音楽イベント出演が急に決まったときもそんな力が働いていたのだろうか。だとしたら恐るべしおんばさま、である。とりあえずは、Nさんと魚瀬さんとおんばさまとに感謝して、次なる山姥さまとの邂逅がどんな形で訪れるのか、楽しみに待つことにしよう。





絵・文字 松井一平
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