第7回
立山のおんばさま(2)
[ 更新 ] 2016.09.14
二度目の富山再訪は、6月のライブ。松井一平さんとの「おきば」というイベントで、一平さんはドローイングを行い、私はライブをするというコラボ企画だった。これまで福井や福岡、岐阜などあちこちで行ってきた「おきば」、今回は総曲輪(そうがわ)での開催なので「そうがわのおきば」だ。会場の映画館フォルツァ総曲輪は秋に閉館を控えているので、おそらくフォルツァでライブをするのは最後の機会だろう。二度目の富山行き、ライブ前の時間は立山に行きたかったので、この日も始発で最寄駅を出て、最初の新幹線に乗る。富山駅で落ち合ったのは、今回も小さな旅の道連れとなってくれるデザイナーNさん。立山の姥石を見たい、という私のリクエストを受け、事前にいろいろと下調べをしてくれていた。立山の姥石は、立山曼荼羅やそれを図解している論文などに示されていたので、現在も観光ポイントの一つになっているのだろうと思い込んでいたが、調べてみるとどうやら2014年に発見されたものらしい。
「あんまりネットにも情報が載ってないんですよね。とりあえず行った人のブログによると、場所は近くのホテルで聞いたみたいだから行ってみましょう」
とNさん。道中、Nさんが以前からフィールドワークを行い、郷土料理や文化などを調べてはワークショップを開いている群馬の話を聞く。その中で滝の話が出た。Nさんによれば、神様がいるとされていた滝の前に近々道路が通るらしく、Nさんはそのことをどう納得すればいいのか戸惑っていた。
「アクセスが良くなれば、その滝と出会う人々も増えるわけですけど、どう考えればいいのかなあと」
確かに、木がはらわれ、土が埋められ、静寂が破られる場所になることでそこは「神様がいた場所」になってしまうのかもしれない。人と神の間には超えてはならない境界があった。それが一方的に壊されていけば、神もまたそこを離れるしかなくなるのだろう。現代においては非科学的、と一蹴され得る感覚を、どうやったら共有していけるのか。それは神さまを感じることのできる人々が、知恵を絞って考えなければならないことのように思える。
ケーブルカーの立山駅に着き、用意周到なNさんに靴やらウィンドブレーカーやら貸してもらって、観光案内所のような窓口で姥石について尋ねてみる。窓口の女性は知らないようで、奥から壮年の男性が出てくる。
「姥石ねえ、あの道は今の季節は入れないと思うんだよね。許可とらないと」
「そうですか......」
その場は引き下がるが、こんなところで諦めるわけにはいかない。少しでも姥石に近づくべく、ケーブルカー乗り場に向かう。
「とりあえず上のホテルで聞いてみましょう」
「ですね!」
Nさんも同じ気持ちのようで嬉しい。
ケーブルカーにのって材木坂上を急傾斜で上る。材木坂は材木のような柱状の奇岩が続くと言われ、女人禁制を破って材木をまたいだ女性が石になった場所とも伝えられている。ほどなく「美女平」駅に着く。この駅を降りたすぐの場所に美女杉2本が立つ。杉の前には「美女杉伝説」と書かれた説明書きがある。立山を開山した佐伯有頼の許嫁(いいなずけ)が、有頼を頼って登ってきたところすげなく追い返され、帰り道、杉に恋の成就を祈願し、めでたく結ばれた、というものだ。このロマンチックな伝説ゆえに、美女杉は恋のパワースポットのような宣伝のされ方をしているが、おそらくこの恋物語は、有頼と許嫁ではなく、息子会いたさに山に登ってきた老母と有頼の話が下敷きになっている。柳田国男は高野の空海、白山の泰澄(たいちょう)などの例をあげ、開山者とその母の逸話に基づく石の伝説を紹介している(「比丘尼石の話」)。材木坂と同じく、美女杉も女人禁制を破った女が杉になったという話である。2本はそれぞれ、止宇呂(とうろ)という名の尼の従者の女たちだった。1本は壮女の杉、もう1本は少女禿(かむろ)の杉とされる。まず、壮女が杉になり、これに怖気づいた禿を尼が小便をしながら叱った。その跡は深い穴となり叱尿(しかりばり)とよばれたという。「とうろ」の尼と似たような話は白山にもあり、こちらは「とうろ」でなく融、「とおる」である。トウロ、トオル、トラ、といった言葉は巫女を意味し、吉野の金峰山の仙女も都藍尼(とらんに)と言って、これが修験道の祖、役行者(えんのぎょうじゃ)の母と同一視される場合もある。美女杉、美女平という魅惑的な名前に引きずられて、母と開山者の物語も時を経てロマンチックに改変されたということなのだろう。
美女平からバスで30分ほどで弥陀ヶ原へ着く。弥陀ヶ原は、阿弥陀さまが地獄で苦しむ餓鬼たちに、こちらで田んぼをやったらよいと慈悲の言葉をかけ、餓鬼たちが田んぼを作ったと言われる伝説が残る。さわやかな草原に水たまりのような浅い池がいくつも残り、稲のような草が生えるさまは確かに、小さな田んぼのように見えて不思議だった。餓鬼の田というのだそうだ。私たちはとにもかくにも、姥石の場所を聞くべく、バス停からすぐのホテルのフロントに向かった。
「姥石を、ですか......。そのようなお客様はあまりいらっしゃらないもので......。その、研究者の方ですとか、ほんの一部の方しかまだ行ったことがない場所でして......」
とどうやらその人も詳しい場所を知らないようだったが、一緒になってあてを考えてくれた。
「13:15には午後のネイチャーガイドの方がいらっしゃるので、その方なら知っているかと......」
あいにくこちらは14時のバスでこちらを発って市内でライブをしなければならない。いよいよ今回は姥石にはたどり着けないのかな、と寂しい気持ちが押し寄せる。
「バスの年配の運転手さんならもしかしたら知っているかもしれません」
と最後のアドバイスをもらい、Nさんとバスの待合室兼窓口の小屋に向かう。中に入ると6月下旬なのにストーブがついている。確かに少し肌寒い。窓口の奥に数人いる運転手さんたちに声をかけてみると、3人ほど出てきてくれた。
「へえ、姥石? 初めて聞いた」
「いやあ、すばらしいね。こんなところまで、感心だね」
褒められても、姥石に到達できなければ何の意味もない。しかし、さらなる手がかりをここでもらえた。
「あと10分くらいしたら午前のネイチャーガイドの人が戻って来るからさ、その人は知ってるかも。ちょっと待ってたらいいよ」
姥石という目的地まで、まるで綱渡りするようなここまでの流れにNさんと目を合わせて苦笑いしたが、そうこうするうち午前のガイドさんが戻って来た。
「あの人だよ、訊いてみな」
と言われたおじさんめがけて、姥石のことを尋ねると
「ああ、俺も行ったことはないんだけども...」
と歯切れの悪い返事。しかし私もNさんもそのまま引き下がらないでいると
「見つかるかわかんないけど、行ってみるか」
とお昼の休憩前だったにもかかわらず、連れて行ってもらえることになった。空腹には耐えられないので私がガイドだったら100%断る。なんといい人に出会えたのだろう。
「光が見えてきたのかな」
「よくわからないけど、近づいている感じでしょうか」
期待していいのか、半分諦めていたほうがいいのか、緩い感じでドキドキしている。おじさんの帽子にガイドの名札がついていて「魚瀬」という名前が見えた。魚瀬さんに幅の広いバス道の道端に咲く花の名をいちいち教えてもらいながら、眼下に見える弥陀ヶ原をながめつつ私たちは進んだ。グレーの雲が浮かび、弥陀ヶ原の緑もどこか茶色く暗かったが、時たま雲の合間から光が差し、無数の餓鬼の田を照らした。一瞬草原の緑がぱっと映え、水面が金に光って美しい。Nさんが調べてくれた広域地図で、およその姥石の所在地はわかっていた。しかし、広域すぎてどこからバス道を外れてガードレール下の茂みに分け入っていけばいいのかわからない。そのとき、Nさんが静かに叫んだ。
「ロープが!」
ガードレールの足元に結わえつけられたロープが、下の方へ垂れていた。
「これかもしれないな」
と魚瀬さんが言う。
「ちょっと、先回りして見てくるからここで待ってて」
と言われ、待つこと10分ほど。木々の間から魚瀬さんの姿が見えてきた。手招きする顔が笑っている。Nさんと笑い合う。道は細い小川に沿っていた。大きな岩の下に抱え込まれるようにある洞を横目に進む。美しい7枚の緑の葉の真ん中にまぶしいほどの純白の花を咲かせているキヌガサソウが時折咲いている。湿った枯葉や岩の上を足場を探しながら下ってゆく。5分も歩くと、小川にまたがるかのように、道の真ん中にどっかりと姥石はあった。苔むした岩肌はてっぺんあたりから溝が始まっており、後ろ側まで割れ目が続いていた。割れ目からは木の枝が生えている。姥石という名は明らかに、この女陰と臀部が刻まれたような石の形に由来している。もともとの形自体これに近いものだったのだろうが、溝がくっきりと人工的に彫られたように見える部分もある。割れ目のてっぺん前方には石で彫られた観音様が乗せられている。その穏やかな微笑みを見ていると、このような小さな愛らしい神様が作られていながら、姥石が2014年に「発見」されたことのさみしさを思った。かつて確かに信仰されていたものが長いこと打ち捨てられ、忘れられていた。
「バス道が通ってからこっちの道は使われなくなったんですよ」
魚瀬さんがぽつりと言った。私は来る途中にNさんと話した道路と瀧の話を思いだした。便利さと引き換えに、失われるもの。人間より大きなもの、目に見えぬものを信じる心、畏れ敬う心。そうしたものを捨てて、忘れて、久しい日本に生まれて育った。Nさんも私も、信仰の途絶えた空白の時間を前に、一歩を踏み出せるか、どう踏み出せばいいのか、まだ考えあぐねているとも言える。
(次回につづきます)
絵・文字 松井一平