第9回
正受院のわたのおばば(1)
[ 更新 ] 2017.12.01
新宿駅から伊勢丹へ向かう。伊勢丹の角を左に折れて靖国通りへ出たら右に進む。そうして5分も歩けば、新宿の山姥に会える。山姥というよりは奪衣婆というほうが正確かもしれない。三途の川のたもとで死者の衣をはぐ老婆は、それを懸衣翁(けんえおう)という翁と共に衣領樹(えりょうじゅ)という木の枝にかけて罪の軽重を測っては、地獄行きの死者を選んだと言われる。その奪衣婆の像は、新宿では2つのお寺に現存している。一人は太宗寺、もう一人はすぐそばの正受院にいる。太宗寺には閻魔もいるが、どちらも明治に作られた新しい像である。閻魔と奪衣婆は、地獄に十人の審判がいるという十王信仰が日本に入ってきてから信仰が始まり、江戸時代にはセットで祀られることが多かった。
今回とりあげるのは正受院の奪衣婆だ。祀られてから300年は経っている。昔は隣に閻魔がいたそうだが、今彼女は独りぼっちだ。正受院の門を入ってすぐ右にある祠には「奪衣婆尊」と、木の板に金字で彫られている。ガラス越しに中を覗くと、頭の上にふかふかの真綿をかぶせられたくすんだ色の姥像が見える。左ひざを立て、右手には手ぬぐいを持って、口元には笑みを浮かべている。像の両側には「子育老婆尊」と書かれたちょうちんが下がっている。おそらくは、この奪衣婆が日本で最もたくさんの人に信仰された「うばさま」なのだ。2017年現在、この寺の門をくぐる人はほとんどなく、その祠の中を覗く人もまれにしかいないが、この姥像は江戸期に大流行し、その霊験が多くの人によってささやかれ、親しまれた存在だった。
ごりやくでおふくろがびやうきもすくになをりました。誠にたつしやになりましてこごとばかりいつてこまり升。どうぞまたすこうしあんばいのわるい様にねがい升。
(歌川国芳画の錦絵「ひょうばんのばばや」嘉永2〔1849〕年)
私ハおやぶんがほうこうでもしろと申升が、どこぞによい日、うまいものをくひ、さけものみ、その上きう金をたんとだします所がござい升なら、どふぞお知らせ下さいまし、そういふところなら何ねんでもしんぼうをいたしますから、おねがひ申升、おねがひ申升。イヤモウたいさうなぐん志ふだ、なんでも御利やくがあるにちげへねへ、あのひとハむじんがあたつたお礼まいりとミへてたいそうなほうのうものだ、トキニこんばん私もむじんがござい升から、どうぞどうぞ、当り升よふに御利やくをおねがい申升て
(歌川国芳画の錦絵「三途川老婆」嘉永2〔1849〕年)
最後の「むじん」は、無尽講、頼母子(たのもし)などと呼ばれた。その始まりは鎌倉時代にさかのぼる相互扶助の金融組織だ。江戸期には大衆的な金融手段となり、競りや抽選で現金給付もあったので、宝くじのような感覚で庶民に親しまれていた。「当り升よふに」という、金欲まるだしの願い事はどこまでも無邪気だが、幕末の流行神はこのように人々の欲望を全て託されたらしい。それまでの神様のように特定の病を治してくれるのではなく、願い事は全て叶えてくれるという特徴があり、江戸や大坂の群衆の現世利益を追求する心理が読み取れるとされる(南和男『幕末江戸の文化──浮世絵と風刺画』)。ちなみに江戸の嘉永期に大流行した三つの神のひとつがこの正受院の奪衣婆のほかにお竹如来、翁稲荷といわれ、錦絵にもこの三神が一緒に描かれたものがある。
歌川国芳は正受院の奪衣婆についての錦絵を多く遺しており、そこにも当時の人々のさまざまな願いが書き込まれている。中には耳を押さえて青い顔の奪衣婆が、「みんなにぐハん、ぐハんといつて願をかけ(られ)るから、みミがぐハんぐハんといつてたまらねへ」と押し寄せる参拝客の願いに閉口している絵もある(「日本人の他界観を探る──三途の川」平成11年度第2回特別展展示図録 さいたま川の博物館)。この奪衣婆人気に乗じて寺側は金儲けに走ったようで「売僧ども種々奇怪の妄説を云ひふらし、香花を募ること甚だしかりければ程なく露顕し、官府の御所置に依りておのづから群集のこと衰へたり」(『増訂 武江年表2』平凡社 東洋文庫118)という嘉永2年の記述もみえ、「御所置」によって参拝が規制されたことがわかる。
あらためてお堂の中の木造の奪衣婆をみつめる。なめらかな、すっぽりと頭にかぶせられた白い綿が印象的だ。傍らの看板には「綿のおばば」と呼ばれ、咳止めに霊験があること、嘉永2年の大流行などに触れている。咳止めについては、柳田国男が「咳のおば様」という文章の中で、「関の姥神であったのを、せきというところから人が咳の病ばかりに、祈るようになった」という江戸末の学者行智の説を紹介しており、奪衣婆が三途川の婆といわれたり、葬頭河(そうずか)の婆といわれたりするが、「そうずかは日本語でただ界(さかい)ということであったのを、後に誰かがこんなむつかしい字をあてはめた」と指摘している。柳田は、この境界にいた姥神は塞(さえ)の神とも近しいものだろうと述べているが、たしかに、取材で訪れた猪苗代の金曲でもおんばさまと共に塞の神たる道祖神が祀られていたことを思い出す。
「綿のおばば」の案内板にはまた、次のように書かれている。
本像は小野篁の作であるとの伝承があり、また田安家所蔵のものを同家と縁のある正受院に奉納したとも伝えられる。像底のはめ込み板には「元禄十四辛己年奉為当山第七世念蓮社順誉選廓代再興者也七月十日」と墨書されており、元禄年間から正受院に安置されていたことがわかる。
小野篁というのは小野小町のおじいさんだ。平安前期の人で、「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟」を詠んだ人でもある。遣唐副使に命じられたが、不備のあった大使の船と換えられたことから、病気を称して乗船を拒否、隠岐へ流された。この歌は、島根から隠岐へ向かう船の風待ちのときに詠んだもので、自由に行き来できる釣舟に対して、流されて行く自分のことを、「すでに発った」と人々に伝えてくれ、と詠んだものだという。さすがに、今目の前にある「綿のおばば」が、それほど古い人物が作った像といわれてもリアリティがわかないのだが、草部和子は嘉永5年の写本『近世百物語』の、小野篁の孫の道風作という人もいる、という記述をあげて、この「おばば」と小野家のつながりについて述べている。それによれば、小野篁の六世小野隆泰が都を追われ、武蔵の多摩に横山氏として住んだため、町田、府中、多摩などにある小野神社というのはこの小野家ゆかりのものらしい。こうした小野残党に代々受け継がれた像が、徳川田安家に献上された可能性を推測している(「新宿正受院の姥神伝説」『歴史と旅』1984年)。
小野篁と「おばば」がどこまで関係が深かったものか、もはや確かめようがないが、一点指摘できるとすれば、篁と奪衣婆の両者をつなぐのが地獄、ということだ。何しろ篁は、昼間は朝廷で官吏をしながら夜は閻魔大王の補佐をして、この世とあの世をいったりきたりしていたという伝説のある人なのだ。地獄との往還には井戸が使われた。京都の珍皇寺には今も「黄泉がえりの井戸」があり、篁作といわれる閻魔と篁の木像も保存されているという。閻魔や地獄と縁の深い篁が奪衣婆の像を彫った、といわれても、篁の生きた時代が平安初期であることを考えると、やはり疑問符がつくが、人々の連想の上では、両者が強く結びついただろう。むしろ奪衣婆像の由緒と霊性を喧伝するには、篁はぴったりの「作者」といえる。
奪衣婆が最初に登場する文献は、平安末期の「地蔵菩薩発心因縁十王経」だ。中国から入ったとされるが、日本で作られた偽経とも言われ、地獄の様子が描かれている。
牛頭は鉄棒をもって二人(著者注:死者)の肩をはさみ、追って早瀬を渡し、ことごとく樹下に集める。婆鬼は衣を脱がせ、翁鬼は枝に懸ける。罪を王庁に送る(『望月仏教大辞典』)
金沢篤によると「樹木と二人組の異形者」、「樹木と衣服」等の種々のモチーフはインドで古来しばしば見られるもの(『仏教植物散策』)らしいが正受院は内藤新宿の遊女たちが、「衣を奪う」という名をもつ奪衣婆に、花街に生きる自らの境遇を重ねて信仰したとも言われる。ちなみに正受院隣の成覚寺はかつては病死した遊女たちの死体が捨てられ、「投げ込み寺」と呼ばれていた場所だ。地方出身の遊女たちの遺体の多くは引き取り手なく、俵に詰められ、この寺に送り込まれた。その孤独な死をとむらう碑や、情死を慰めるための地蔵などが今も成覚寺境内にある。
結局、誰がこの奪衣婆を作ったのか。真相はなぞに満ちている。田安徳川家から出土したが、田安家領地となる前に、間部家や久世家の所有地時代に土中に埋められたものとも言われる。高力という男が知らずに山賊の宿に泊まってしまい、その家の女の機転で逃げて後に結婚、恩人である女の像を作ったところ、意に反し恐ろしい顔になってしまったので正受院に託した、という新宿に伝わる伝説と融合した話もあって、「綿のおばば」大流行のころに四谷に生まれた牧師・民俗学者の山中共古が父親から聞いた話として「四谷旧事談」に書き残してもいる(有末賢ほか編『伝統のなかの都市』所収)。いずれにせよ、この寺では、奪衣婆像が本尊の阿弥陀如来に勝るとも劣らぬ重要な存在として祀られてきており、1945年の空襲のときも防空壕に運ばれて布団をかけられて、無事であったという。寺院は全焼し、閻魔像も焼けたが、本尊と姥像だけが残った。すごいことだ。
(次回につづきます)
絵・文字 松井一平