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第11回

やくらいのうばさま(1)

[ 更新 ] 2018.01.22
 昔、坂上田村麻呂が蝦夷征伐に来た時、湧谷箆嶽山から薬莱山に向かって、長さ一丈五尺の弓で七尺五寸の矢を放った。将軍は部下を遣わして三日三晩その矢を探させたが、とうとう見つけることが出来なかった。そこでこの山が矢を喰ってしまったのであろうと矢喰山と名づけた。
(『小野田町史』)

 宮城県の加美で初めてライブをしたのは、2016年7月だった。東北新幹線の古川駅から一時間弱の加美町にコンツェルトハウスというホールがあるのでぜひライブにいらしてください、と所有者の遠藤貴平さんから招いてもらった。到着して歌ってみて響きがいいのに驚いた。加美には中新田バッハホールという定評のあるクラシックホールがあり、作るときに、そこの設計者に関わってもらったのだという。そのあたり一帯ののどかな雰囲気もすがすがしかった。コンツェルトハウスの少し離れたところには小さな森が広がり、その中にGenjiroという喫茶店があり、ここは遠藤さんの叔母さまが営んでいた。Genjiroは土地の名で、源氏の城があって「源城」とも、民話に登場する男の名で、戦から帰りこの地を長く守った「源次郎」とも言われる。使う原料のほとんどを自らや地元の人々が作ったものを使い、コーヒーシフォンに使うコーヒーリキュールも自家製という徹底ぶり、レモンケーキも大変おいしく、東欧から来たお客さんにレシピを尋ね、ハーブを育てるところから作ったという、エルダーフラワージュースも初めて飲ませてもらって、感激した。
 とにかくこの加美との出会いは最初から驚きに満ちていたのだが、遠藤さんから冒頭の加美の薬莱山の伝説を聞いて、奈良、平安時代の話が伝わっている土地の古さに感心していたところ、その薬莱山の山頂に「うばさま」がいるという。またしても、「姥神」との偶然の出会いだった。まさか「うばさま」が矢を喰ったわけではないだろうが、不思議な伝説だ。田村麻呂が矢を放ったという湧谷箆岳山(ののだけやま)には箆峯寺(こんぽうじ)がある。807年田村麻呂の創建で、1月の行事には「御弓神事」も残っている。山号は無夷山。その山から薬莱山に放った矢が見つからない。普通の矢なら見つけるのも大変そうだが、2メートルを越す長い矢だから確かに見つかってもいい。「矢喰」というのは田村麻呂側にとっては、いまだ帰順しない「夷」への不安がにじむような名前だし、あとからその土地の人々がつくりだした伝説なのだとしたら、「夷」側に肩入れするような気持ちがこめられているようにも感じられる話だ。薬莱山には、石の鳥居を立てても翌日には崩れているという伝説も伝わるなど、「容易におとせぬ山」のイメージもあるのだが、実際にはこの時期、薬莱山も帰順している。箆峯寺の建立と同年、田村麻呂によって薬莱山上に日吉二十一社のなかから薬莱三所権現(山王、八幡、白山)が祀られた。その後天台修験が支配して薬莱山大宮寺と改めた(『小野田町史』、『薬莱山』創刊号〔2016年〕)。
 コンツェルトハウスに向かう車中、田んぼの中に小さな森が細長く続いているところがあって気になったので立ち寄ってもらう。近づいてみると、墓石のようなものがいくつも林立している。「大宮古墳群」と看板があり「7世紀以降の方墳として造営され大宮家先祖代々を重葬している 現在は当主大宮信氏が所有管理にあたっている」とあった。この古墳のそばには大宮神社があるが、この神社は薬莱山は里宮と岳宮の関係にあたるのだという。本尊は山そのもの、という信仰は日本に多く残るが、里宮と岳宮の関係も本殿は山上、という信仰スタイルだ。今も、例祭の5月8日には大宮神社の宮司さんや地元の人が薬莱山頂まで上るのだという。
 遠藤さんからびっくりするようなメールが来たのは今年の6月だった。5月8日の例大祭に薬莱山に登ってきたという報告だった。
  
 昨年、紗穂さんも興味津々だった古墳のある大宮神社がありましたが、ここの神主さんが前日から山頂で祈祷しておりまして(「おこもり」というのだそうです)、参拝者がぱらぱらと登山してきては奉納していきます。
 この日は、僕は、隣のおウチの布団屋さんのおばあちゃんから託された着物を姥神さまに着せてきました。
 はからずも、紗穂さんの(筆者註:猪苗代のおんばさまの)ブログを読んで、「はー、姥神様のお着替えねぇー、お母さんたち、大変だー」とのん気に思っていた自分が、山頂までお着物を運んできせることになるとは。。。(笑)

 不思議なこともあるものだと思う。おんばさまや姥神さまのような古い信仰を、リアルタイムで維持している人はすでに少ない。そういう人に出会って話をちゃんと聞く、というのはよそから来てとんぼ返りで帰っていく者にとっては簡単なことではない。それが、こうやって不思議な糸で繋がって行くように、自分のコンサートを開催してくれる人が、突然信仰の流れの中に巻き込まれて行く。取材者としては願ってもない展開で、私は早速夏の加美ライブの計画を立てた。結果的に、そのライブ時は取材のタイミングが合わず、その後も台風があったりで、結果的に10月31日に再訪し、早朝薬莱山に登ったあと、布団屋のおばあちゃんの話を伺うことになった。

 東京駅を前日の夜に出て、朝6時半には道の駅三本木に着いた。ここまで遠藤さんが車で来てくれていて、おむすびまで作ってきてくれていたので、近くの川を眺めながらおむすび二つとわかめスープをいただく。川岸に沢山黒い鵜が見える。
「今年は鵜が増えたのか鮎を食べつくしてしまって、猟友会に依頼が来たんですよ。それでもみんなで呼ばれて川の近くにいくと全然現れなくてね」
という。遠藤さんの本業は獣医だが、地元の猟友会にも参加していのししなどを撃つという。登山のこの日も猟友会スタイルなのだろう、登山口で、ライフジャケットにトランシーバーを持って「近寄っちゃいけない人間てアピールしないと」と、熊も出るという山行きに備えている。
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 山頂近くは紅葉が美しかった。白い蜘蛛のようなかげろうのような虫も見かける。土の色に合わせているのか黄土色の蛙もいる。登山道はほとんどずっと丸太をつかった階段が設けられていて、足を上げる分普通の山より少し疲れるが、50分も歩くと頂上が見えてきた。「加美富士」とも言われる薬莱山頂はほぼ同じ高さの二つの峯からなっていることに気づく。山頂かと思った場所からまだ少し尾根が続き、もうひとつの峯に続いている。その尾根の途中に姥さまはいた。赤い帽子に赤と白の格子の着物は5月に遠藤さんが着せたものだ。像の前には小銭やはさみが供えられていた。目を見開いて口をあけている。優しさよりは厳しさを感じる表情だ。遠藤さんにうばさまの着物を脱がせてもらうと、立てた右ひざにも左ひざにも、そこに添えた左手にも苔が生えている。そして今までみたどの姥さまよりも豊かな胸をもっていた。
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 さて、この姥さまは何者なのだろうか。ひとつにははさみを供えられているという点。これは他の奪衣婆や姥神像の中にもまれにみられるもので「縁切り」をしてくれる「橋姫信仰」と習合していたものだろう。おんばさまに会いに行った猪苗代湖の伯父ヶ倉も金曲も橋姫神社とされていた。橋姫神社といっても、はさみを供える信仰がすべてに残っているわけではないが、石田明夫『おんば様』(歴史春秋出版)によれば福島檜枝岐村の愛宕神社付近の「橋場のばんば」といわれる姥さまも、はさみを供えられており、切れるはさみを供えれば悪縁を絶ち、錆びたはさみを供えると良縁が切れないという信仰という。丑の刻参りのルーツとも言われる嫉妬の鬼、宇治の橋姫のイメージから、縁切りのはさみが供えられるようになったといわれ、宇治の玉姫を祀っている橋姫神社も多い。しかし遠藤さんによると、地元には別に縁切り地蔵というのがあり、そちらのように縁切りの霊験が伝わっているわけではないようだ。橋姫信仰はさかのぼると古くは水神信仰で、橋のたもとに外敵の侵入を防ぐために男女二神を祀ったことによるのだという。このあたりは塞の神信仰とも絡んでいる。ただし、橋との結びつきという意味では断然女性が強く、東北のイタコが口寄せするのは霊の習合する村境であり、あの世に近い場所でもある橋の下であったり、比丘尼たちが絵解きをしたのも橋のたもとだった。西山克は三途の川の衣領樹(えりょうじゅ)のたもとにいて一緒に奪衣婆と死者の衣を奪っていたはずの懸衣翁(けんえおう)が、結局一般化せずに消えてしまったことについて「もっぱら奪衣婆だけが樹陰で死者を待つことになったのは、この媼が『橋に棲む女』のイメージを宿したためだろう」と指摘している(『聖地の想像力──参詣曼荼羅を読む』法藏館)。薬莱山のこのおんばさまは、しかし、橋の傍にいるわけでも、川の傍にいるわけでもない。二つの山頂とも言うべき峰と峰、その狭間の尾根にぽつんといるのだ。山頂に至る直前の尾根を渡るとき、人々はここにも「三途の川」を見た、ということだろうか?
 橋姫のようにはさみが供えられているが、川は近くにはない。はさみは供えられるが、縁切りの神様ではない。なぞに包まれたこのおんばさまに着物を送ったおばあちゃんの話の中に何かヒントが隠されているだろうか。





絵・文字 松井一平
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