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第267回

永遠に数学の先生。

[ 更新 ] 2023.07.10
五月某日 雨
 年若い友だちと、近所のお店で夕飯。
 三回ほど行ったことのあるお店で、たいへんにおいしく、とても感じのいいお店なのだが、ただ、量がわたしには少し多い。
 でも、若い人ならばきっとこの量でも大丈夫だろうと思い、一緒に行ったのである。
 ところが、今日は量がちょうどいい。
 途中で、「どのくらい食べますか? 一切れ? 二切れ? 三切れ? パスタの量は? 大もり? ふつう? 少なめ?」と、ていねいに聞いてくれるからである。
 若い友だちは、たくさん食べ、わたしはそれよりは少なく食べ、二人で満足する。
 けれど、カウンターの中で料理をおこなっている店主は、ほんの少しさみしそうに、
「すべてのお客さまに、ドカドカたくさん出していたやんちゃな時代は、終わってしまったのです……」
 と、つぶやいている。
 店がここに開店してからおそらく二年と少し、いったい店主の「やんちゃ」を終えさせる、どのようなできごとがあったのだろう。
 帰りぎわ、
「わたしのやんちゃは終わりましたが、お客さんの酒量は、今までで一番多かったです!」
 と、喜ばしげに店主に言われる。
 わたしも一瞬喜ばしい気持ちになるが、店を出てから、え、それはいいことなのだろうか? と、ひどく不安定な気分に。

五月某日 曇
 新聞を読む。
「魂が体に追いつくのを待っている日」(ミヒャエル・エンデの紹介によるアメリカ先住民の言葉)という文字の並びをぼんやり眺め、
(今日の自分は、まさに、魂が追いつくのを待っているのだ)
 と感じる。
 新聞には、
「現代の、あわただしく、ものを深く考える暇もない日々に、この言葉をかみしめよう」
 という趣旨の文章が書いてある。
 なんと立派な状態なのだ、「魂が体に追いつくのを待っている」という状態は。
 と、自画自賛しそうになるが、昨夜、やんちゃをやめた店主の店で、お腹いっぱいになりすぎないですんだため、つい大酒を飲み、ひどい二日酔いになっている今日の自分の状態が、「魂がまだ体に追いついていない」だけだということをすぐに思いだし、自画自賛をやめる。
 自画自賛を始めるのにも、やめるのにも、いつもよりずっと時間がかかり、やはりこれは正真正銘の「魂が追いついていない」状態なのだなあと、ゆっくり認識しつつ、水をたくさん飲みつつ、横たわりつつ、だらりと新聞を読みつづける。

五月某日 曇
 高校三年生の時の担任の先生の家を、同級生三人で訪ねる。
 当時、先生は数学を教えてくれていて、受験数学の成績があまりよくなかったわたしに、たいへんに薄い問題集を勧めてくれ(厚くてたくさん問題の載っている問題集だと、途中でわたしが飽きたりくじけたりしてしまうことをよく知っていたので、薄いのを勧めてくれた)、志望校合格の後押しを大いにしてくれた恩師なのである。
 先生は現在九十七歳、ストレッチを欠かさず、小魚を常に食べ、毎日数独をおこなっているという。
「あら、ヤマダさん(わたしの旧姓)も数独が好きなの? 解けない数独はある?」
 と、先生。
「はい。超難問の中には、解けないものもあります」
 と答えると、
「どうしても解けないものは、わたしに言ってきて。必ず解いてみせるから。わたしに解けない数独は、ないの」
 とのこと。
 数学の先生は、永遠に数学の先生なのだ……と、感に堪えないまま、お宅を辞去。

五月某日 晴
 八月刊行予定の、久しぶりの単行本の題が、数日前に決まる。
『恋ははかない、あるいは、プールの底のステーキ』
 という、今までで一番長い題の本である。
 そうでなくても、自分の小説に長い題をつけては、人々に覚えてもらえず、微妙に違う題名を口にされてきた人生なのに、このたびは、作者であるわたし自身も、きちんと題を覚えていられる自信がまったくない。
 と、不安に思っていたところ、担当編集者から、
「長い題なので、わたしたちスタッフは『恋ステ』と呼んでいます」
 というメールがくる。
『恋ステ』。
 これならば、わたしでも覚えられる! と、喜ぶ。
 いちにち、喜んで、寝入る前にもう一度『恋ステ』と小さくつぶやく。
 そののち、正式な題名を思いだそうとしてみるが、あんのじょう、まったく思いだせない。
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