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第14回

阿賀の優婆尊(2)

[ 更新 ] 2021.02.26
 次に渡部さんが案内してくれたのは、津川町の神明神社に安置された姥さまだった。もとは近くの姥堂川ほとりに安置されていたが、1961年の国道改修の際に神明神社に移されている。姥堂川には姥堂橋がかかっていたといい、これは1489年会津領主蘆名盛高が作ったもので、橋を守るために姥堂もたてたのだという(『阿賀路 第一八集』昭和53年)。私はあっと思いだしたことがあった。


猪苗代の金曲の姥さまが「芦名姫」という別名を持っていたからだ。芦名姫もまた、長瀬川の川岸に祀られていた。蘆名家が積極的に橋をかけていくなかで、橋守として橋姫である姥さまをセットとして各地に姥堂を作っていったとしたら、旧会津藩に姥信仰が色濃く残った背景として考えることができそうだ。
 神明神社の神官小篠一朗が明治11年に記した「社系綴」によると、由緒は次のようなものだ。

黒川太守葦名修理太夫盛高アル夜ノ夢ノツケニ我ガ神体オ祈ラバ幸福オ守ラント見テ覚ム故二弥増二依テ伊勢ノ宇治橋姫之神体オ刻ミ備請スト云々延享ノ度ヨリ数度類焼ニテ其ノ実体詳ラカナラズト雖トモ言伝ノ端ヲ記スノミ

 盛高に限らず葦名氏藩主にはこの修理太夫という官位が散見される。もとは平安時代の内裏の修理造営を手掛けた役職だが、このころには受領職、名前のみのステータスとして残されており、全国的に見られた。盛高の夢に直接橋姫が現れたところから祀られたことがわかる。延徳元(1489)年の創建と伝わるが、延享2年(1745)火事にあっている。安永6(1777)年には姥堂橋が再建されている(赤城正男「橋姫神社(姥様)」『歴史春秋』第68号、平成20年秋)が、大正11(1922)年にも「類焼、全部消失ス」という火事が記録されているので、現存する姥さまは100年前くらいに作り直されたものか。その後、昭和36(1961)年、国道改修を機に姥堂川そばから近くの神明神社(津川町字本陣場)へ移されている。
 姥堂は、それまで「姥様」をまつるとされたが、明治3年橋姫神社と改められ、祭神は「弥都波能売命(みつはのめのみこと)」ということにされている。みつはのめというのは、罔象女神(みつはのめのかみ)ともいい、イザナミの尿から生まれた水神だ。「みつは」は「水端(みずは)」の意も含むのだろう。このように、明治にはいると民間の神たちは、一斉に名を変えられた。それでも、地元の人々にとっては便宜上の話であったのかもしれない。
 上でひいた赤城正男氏の父、源三郎氏は郷土史家であるが、姥様が移されてから16年後の昭和52(1977)年に神明神社紹介の文章の中でつぎのように述べている。

 (上田町の)もう一つのシンボルはウバ様である。いまは、お伊勢様の隣にお堂があり、そこにおさまっておられるが、もとは姥堂川のそばの公衆電話ボックスのところにお堂があったことは記憶している方が多いと思う。
 この間の祭りの時、お堂を開けて見たら何と、お顔が下へ落ちていたとのことで、まことに勿体ない。(中略)もとの場所であった姥堂は、子供達のよい遊び場であった。怖い顔をしているが、子供達はおそれなかった。ウバ堂では子供は絶対にケガをしないと云われていた。ウバ様は香煎が大好きであったし風の害をよけてくれる「風神様」でもあった。そのウバ様のお顔が(板の張り合わせであるが)三つにはなれて下へ落ちていたのである。何とかしなければならないということを町内の世話人たちも相談しておられるとのことだが、一日も早く、昔のお顔をおがみたいものである。
(「上田町かわら版」4号、上田町商工交友会発行、1977年9月28日)


 驚いたのは、姥様が「風神様」でもあるとさらりと書かれていることである。実際、新潟には風の神の信仰が強く、私がそのことを知ったのも「風の神様」という小千谷などに伝わるわらべうたの存在を通してだった。調べていくと、風の神をまつる二百十日の行事も多様な形で集落ごとに行われており、風神に香煎を供える例もある。「香煎は風を嫌う」「香煎を飛ばされることで風神の到来を知る」といった意味で供えられたようだ(『西川の民俗』1976年3月)。先ほど訪れた高徳寺でも姥さまの好物として香煎をもらっていたこともあり、風神と姥神の思いがけない繋がりに思わず唸る。
 佐藤和彦「津川胎蔵院と姥さま」を読むと、さらに生き生きとした、この町と姥さまの関係が見えてくる。佐藤は姥さまにかたびらを何度も奉納している宮川イワにインタビューをしているが、そのなかに津川には盆踊りはなかった、という話がでてくる。

電話ボックスの処に堂があったときは前の道路(49号線)でおとなが躍ったものだ。これが盆踊りである。むかし津川は盆踊りはしないところで、盆に踊るのは姥さまの踊りのみであつた。
(『阿賀野』第11集、1972年3月)


 日本のどこの集落にもあると思われる盆踊りよりも先に存在したという津川の「姥さまの踊り」。もはや踊れる人をさがすことも難しそうだが、見かけた人ならかろうじているだろうか。


 神明神社の片隅に木製の柵がはめられ、その奥に姥さまが座っていた。給食のおばさんのような白い帽子をかぶり、赤い前掛けに白いかたびらを羽おっている。顔の部分が影になっており、闇の中で目だけ異様な力を持つようで恐ろしいが、写真撮影のために木の柵を外してもらうと、光ではっきりと見えた迫力のある顔は少しユーモラスにも見えてくる。左ひざを立てた足は大きい。かたびらには「平成十二年宮川千代子 奉納」とあり、上述の宮川イワの孫にあたるという。渡部さんによると千代子さんは姥さまの踊りは知らなかった。姥さまの隣には「里姫明神 一姫明神」と縦書きで並んで記された岩が祀られており、隣には高志王も祀られている。越王、古四王などとも書かれ、巨石文化を持つ信仰であったといわれる。高志王神社は秋田、山形、福島会津地方など日本海側を中心とした東北に広がっているが、新潟も村上市、新発田市、阿賀など下越地方に存在する。里姫明神等の詳細は不明だが、一姫という言い方は、猪苗代の姥さまの回でもふれたように、姥神がしばしば結界を破った三姉妹の石化伝説に組み込まれて語られることも思い起こさせる。現在神主の小笹さんは「最近は川が上がるから心配だけど、本当は元の場所に戻せたらと思うのですが」と話す。この姥神が、橋姫にせよ奪衣婆にせよ、川辺を守るのが役目だから、本来の在り方を思えばもっともだが、今のところ他に行き場はなさそうな姥さまである。

 逮夜の時間が近づいてきたので、高徳寺に向かう。すでに7人ほどの信徒たちが集まっている。おのおの熱心に念仏を唱え、住職は太鼓と鉦を叩きながらの読経だが、声がよく音楽的な趣がある。姥さまへの一人ひとりの拝礼が許されて開帳となるが、その真っ黒な顔と存在感に圧倒される。笑っているのか怒っているのか、それさえもしかとわからないような、大仏のようなどっしりとしたものを感じ、少し恐ろしいような気持ちになる。というのも、ここまで姥さまが生きた信仰としてあがめられている場面に出会ったことがなかったからかもしれない。猪苗代の秘仏のように扱われていて出会えなかった姥さまたちは別として、山の上や橋のたもとに、ぽつんとたたずむ姥さまたちは怖そうな顔をしていても、どこか忘れられかけているような寂しさがあった。それがここでは、しっかりと求心力をもって存在している。住職が見せてくれた、「鳥の尾のろう細工」のような不思議な写真を思い起こしながら、凝視することはできずに拝むのが精いっぱいだった。


 翌日は例大祭で、地元の子供たちや平野住職も参加する「聖篭太鼓」の奉納があった。たいやきを売るような小さな出店もふたつほど出ている。生き生きとした演奏が終わると一気に和やかな気が満ちた。続いて念仏、ご縁起奉読、再びご開帳、その後ご詠歌となったが、ご詠歌まで残っている人はあまりいなかった。すると、残っていた私と渡部さんのそばに一人の中年の男性がやってきて、よくわからぬまま魔よけ(?)の喝のようなものを入れられた。なかなか帰らないので悩みの深い人と思われたのかもしれない。あるいは見なれない街から来た外部の者たちと判断されて邪気を祓おうとしたものか。読経と激しい喝、最後に背中を叩かれる。気付くと住職はもういなくなっている。修験道時代から受け継がれた密教的な奔流のなかにいきなり放り込まれたようだった。注射を打つ看護師や歯科医でさえ「ちょっと痛いですよ」と教えてくれる現代において、初対面の人から説明もろくになくいきなり始まったお祓いのインパクトは強烈であった。ここの姥さまの持つ強いカリスマと、そこに集まっている信仰の熱度にくらくらした、想像以上にディープで貴重な体験となった。
 前述の松崎の「優婆尊信仰」を読むと、2009年に華報寺の大祭参加時に同じような「お加持」を別当の女性から「受ける羽目に陥った」ことを書いている。

「重い、重い、疲れているな、あまり悩むな。何か悩み事があったらこの華報寺に赴き、心を癒しなさい」と対処法を示してくれた。その上で後ろ向きにさせられ、背中をドン、ドンと痛いほど叩かれて終えた。

 あれも「お加持」だったんだ、と合点がいった。
 松崎は登山家の藤島玄(1904‐1988)の言葉をひきながら、講中では姥さまがのりうつったかのように、座ったまま飛びあがるような巫女的な女性たちがいたことを示して、加持に長けたり、シャーマン的要素を持った人物がこの信仰を中心となって支えたのだろうと推測している。先代住職のころ高徳寺で見られた「正座の状態のまま空中にはねる人が何人も続出し、異様な熱気」という信仰の風景は、周辺の優婆尊信仰の寺でも共通していたのかもしれない。
 新潟市と福島会津に挟まれた阿賀の地に、曹洞宗を中心とした色濃く濃密な優婆尊信仰が息づいていることを肌で感じた旅となった。

 後日2019年12月から2020年1月にかけて高徳寺のクラウドファンディングが始まったと渡部さんから地元紙の記事が送られてきた。新潟県歴史的建造物専門家星井栄吉さんらが、虹梁という梁を使うなどの建築的な稀少性と、地域で親しまれてきた「うばさま」の重要性を鑑み、登録有形文化財申請のための費用を募った。ネットにつながりにくい高齢者たちに支えられてきた信仰ゆえの難しさで、満額は集まらなかったようだが、多くの地で忘れられかけている姥信仰が、このような形でネットや新聞で再発信されたことの意味は小さくない。高徳寺におさめられている、各家庭で信仰されてきた優婆尊像だけでも、展示ができそうなほどに多種多様であり、全国に類を見ない文化である。平野住職がとりくむ、聖篭太鼓の地元にしっかりと根を張る活動と共に、姥さま信仰が色濃く残る場所として、これからもいい形で貴重な文化が発信されていってほしい。
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