第280回
年よりじみてみえる。
[ 更新 ] 2024.08.10
ずっとこの「東京日記」の担当をしてくれているKさんと、以前新聞小説の連載担当をしてくれたSさんと三人で待ち合わせ、居酒屋さんへ。
なぜこの組み合わせなのかという由縁があったような気がするのだが、すでに忘れている。
三人とも文芸関係者であり、話題は文芸のことでもいいようなものだけれど、小説だの文壇関係だのの話はほぼ出ず、かわりに、マンガや映画や韓国ドラマの話などで、たいへんに盛り上がる。
行ったのは居酒屋だったのだが、KさんもSさんもお酒をいっさい飲まない。わたしだけがビールやらサワーやらを飲み、主にしゃべってくれるのはKさんとSさんで、面白い話をたくさん聞く。
三時間ほど店にいて解散し、たくさん聞いた面白い話を覚えておこうと、電車の中で思い返す。家に着いても覚えていたので、安心して寝入る。
六月某日 晴
昨日の面白い話を思いだしてメモしておこうと手帳を出して開くが、一つも覚えていない。
だから酔っ払いは嫌いなんだーーー、と心の中で自分を罵倒し、手帳を閉じる。
このようにして忘れてきた幾千もの面白い話のことを思い、昼食にゆでたまごを食べる。
ゆでたまごは、なんとなく、物忘れと似合っている気がするので。
六月某日 曇
スーパーマーケットまで食料品を買いに行く。
途中にラーメン屋があり、いつもそこの換気扇からは、豚骨の激しい匂いが流れてくる。
通りかかった男女の、女性の方が、
「けものの匂いがする!」
と言っている。
すると、男性、
「何のけものだろう。熊かな、象かな、いや、これはきっとミユビナマケモノだ」。
ミユビナマケモノの匂いにくわしい男性……こっそり観察してしまう。涼しげなたたずまいの青年である。
六月某日 晴
近所の眼鏡屋さんに、跳ね上げ式の眼鏡をつくりにゆく。
今の若い人は知らないかもしれないが、昔の老人たちは、レンズが二枚重なっている跳ね上げ式の眼鏡を、しばしばかけていたものだった。
前のレンズは近眼用で、奥のレンズは老眼用、かけたまま前の近眼用レンズを上に跳ね上げることができ、奥の老眼用レンズで、近くの書類などを読む。
このような眼鏡を見かけなくなってずいぶんたつと思っていたのだが、少し前に知人がかけているのを見て、まだ存在することを知った。
視力検査をし、フレームを選び、レンズを決めてお金を払う。一週間後にできあがる予定。
六月某日 曇
跳ね上げ式眼鏡を受け取りに行き、早速かけてみる。とても具合がいい。
そのまま、打ち合わせに行き、何回も跳ね上げてみせるが、反応、なし。
家に帰り、家人にも見せ、
「どう?」
と、自慢の気持ちいっぱいに聞いてみる。
「うん」
という、曖昧な返事がきたので、
「それにしても、こんな便利な眼鏡が、どうしてすたれちゃったんだろう」
と言うと、
「年よりじみてるからじゃない?」
との返事が。
年よりじみてみえるのは、何やら嬉しいので、その夜はとっておきの塩ウニの瓶詰をあけて、祝杯。