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第6話

パンデミック下の一時帰国(前編)

[ 更新 ] 2024.05.10
 小さい頃はサンタクロースがいて、毎年、私のもとへやってきた。目を覚まし、枕元のプレゼントを見つけた瞬間、まるで望遠鏡をのぞいているかのように、そのリボン付きの箱だけがくっきりと輪郭を現し、他のすべてのものは視界の縁のもやと化す。瞳孔は開き、心臓はバクバクと音をたてる。老人なら死んでしまうだろう。
 クリスマスが何であるかは知らなかったが、当時は誕生日や元旦と並ぶ特別な日であった。12月になれば、「今年は何がもらえるだろうか」とソワソワし始めたものだ。考えてみると、大人になって何かを待ち焦がれることなどなくなってしまった。今や、ソワソワすることと言えば、10回中9回は尿意が原因だ(残りの1回は、妻に怒られる予感がしたときだ)。
 サンタクロースはもう来ない。仮に来てくれても欲しいものがない。子どもの頃が嘘のように、大人になって物欲をなくしてしまった。どれほど高価なプレゼントをもらったとしても、子どもの頃のような喜びや興奮はないだろう。嘘だと思うなら現金で1億円くれてもよい。
 大人になってからクリスマスには無関心だったが、これからは特別なイベントだ。妻と子と一緒にサンタクロースの訪問を楽しむのだ。そう思うと、冬のニューヨークの街も悪くないように思えてくる。路上の人糞や糞尿まみれのエレベーターにも慣れてきて、この街を受け入れるだけの心の余裕ができたのも、その理由かもしれない。

 2021年12月、パンデミックは未だ終息していなかったが、人々はそのことを忘れてしまったかのようであった。都心のオアシスたるブライアントパークの芝生は全て剥がされアイススケートリンクに変わり、ロックフェラーセンターを始めとする複数のビルや商業施設の前に大小様々なクリスマスツリーが姿を現した。42番ストリート以北、5番アベニュー沿いは日没後も大賑わいだ。しかし、その背後では、感染者数は収束と拡大を繰り返していた。新型コロナウイルスの変異株、オミクロン株が現れたと言って世間が騒ぎ始めたのも、まさにこの頃であった。
 私たちは日本に一時帰国することを考えていたが、決断できないままであった。当時は「水際対策強化に係る新たな措置(20)」に基づく厳しい水際対策がとられていたからだ。日本に入国するには、米国出国時刻から遡って72時間以内に検査を受け、日本政府が指定する様式に、医師の署名とともに、検査方法と検査結果を記入してもらわねばならない。さらに、無事に入国できたとしても自由に行動できるわけではない。日本に入国する全ての人は、空港から直接、近くのホテルへと連れて行かれて隔離される。当時のルールでは、政府職員の管理下で3日間ホテルの部屋に隔離された後、陰性であれば、公共交通機関を使わないという条件のもと、自宅に帰ることが許されていた(公共交通機関しか帰宅手段がない人は引き続きホテルでの隔離生活が続く)。さらに自宅に到着しても、入国日から数えて14日間は外出してはならず、一日1回の抜き打ちビデオ通話に応答して自宅にいることを証明しなければならない。こうした隔離生活を0歳児を連れて完遂せねばならないと思うと、帰国するのが億劫になるのも仕方がない。その上、「日本に着いたが書類不備で入国を拒否された」という噂も出回っており、ますます後ろ向きになっていた。
 決断を先送りし、だらだらと日常を送るだけの役立たずな私と比較して、妻の決断力と実行力は流石である。妻は「早く予約しないと飛行機乗れなくなっちゃう!」と言うや否や、電光石火のごとく、航空券の予約だけでなく陰性証明のための検査の予約まで終わらせるよう私に指示した。
 さすがの私もソワソワし始めた。もちろん尿意以外の理由だ。私は重い腰をあげ、航空券の予約を開始した。ホテルでの隔離期間を3日間に抑えるには「公共交通機関を使わずに自宅に帰る」必要があるため、私や妻の実家から車で迎えに来てもらわねばならない。そのためには、羽田や成田ではなく、関西国際空港に到着する飛行機を予約する必要がある。当時は入国者数の制限により日本行きの便の本数が減っていた上、ギリギリになっての予約であったため、選択肢は、ロサンゼルス国際空港発・関西国際空港着の午後の便のみであり、残数も残り僅かであった。迷わずこの便を予約した。
 そして、もう一つ重要なのが、感染の有無を調べるための検査の予約である。米国を出国する72時間前を切ってから検査を受けなければならないが、ニューヨークを出てロサンゼルスに向かう間に結果が出ては手遅れである。電子データではなく、医師の署名付きの「紙」の陰性証明を受け取らねばならないからだ。したがって、ニューヨークを出る前日の午後に診療所へ赴き、検査結果を回収する必要がある。要するに、出国72時間前に検査を受け、出国24時間前に紙の陰性証明を入手せねばならない、ということだ。オミクロン株の流行により、検査が混み合っているという話もあったため、約48時間では結果が得られないという危険性もあったが、心配しても仕方がない。私は、いくつかの診療所に問い合わせ、検査方法が日本政府指定の方法に従っていることを確認した上で、M医院とC医院を予約した。当初は3人ともC医院を予約したのだが、C医院を含む多くの診療所では0歳児の検査を行っておらず、子どもの検査だけはM医院で行うことになり予約をとり直したのであった。
 いよいよ出国72時間前だ。私は子どもを連れてM医院を訪れた。入口付近に大きな人混みができている。誰がどう見ても、新型コロナの検査待ちの集団である。怪我をしている者や咳きこんでいる者がいない上、診察してもらうために訪れているというよりは、同僚どうしが連れ立って検査に来ているようだ。なにより、彼らの前には「検査はこちら」と書かれている。
 幸い、私と子どもは、この大行列の後ろに並ぶ必要がなかった。予約していた上、自宅で諸々の情報を入力済みであったからだ。
 人混みを横目に最前列まで来ると、どこかの国の航空会社の制服を着たパイロットが、キャビンアテンダントに囲まれてジョークを飛ばしている。私は、会話せずとも少し観察するだけで嫌な男は判別できると自負しているが、このパイロットの男が嫌な男であることは100%の自信を持って断言できる。実際、この男は長身で筋骨隆々のハンサムである上、同僚から慕われる人格者に見える。世の大半の男性を無意識に威圧しているのだから十分に嫌な男だ。しかし、彼もなりたくて嫌な男になったわけではあるまい。そう思うと気の毒である。少しの間だけでも代わってあげたいものだ。
 長身で筋骨隆々でハンサムで人格のすぐれたパイロットに道を阻まれつつも、何とか診察室に入ると、ほとんど間をおかず、看護師と医師が現れて子どもを囲み、長い綿棒のようなものを鼻の奥に入れた。もちろん、子どもは大泣きであったが、検体採取はあっという間に終わった。
 次に私は、早足でC医院へと向かい、職場から直接C医院に駆けつけた妻と合流した。C医院は閑散としており、私と妻の検体採取も遅滞なく数分のうちに完了した。あとは3人の検査結果を待つのみだ。
 それから約40時間後、すなわち出国前日の昼、私はC医院とM医院を訪れた。検査結果は全員陰性。そして家族全員分の陰性証明を手に入れた。「無事に間に合った!」と胸をなでおろしてはいけない。ここはアメリカである。これまでにも、スーパーの会計が間違っていて返金を要求した回数は数えきれないし、大事な書類に名前を誤って記入されていたこともある。本件においても、記入漏れとか、様式が違っているとか、医師の署名が抜けている可能性がある。受け取った陰性証明をそう簡単に信じてはいけない。私は目を皿のようにして証明書の全ての項目に目を通した。そして案の定、間違いを見つけた! 子どものパスポート番号が1桁抜けていたのだ。ただちに窓口で対応してもらい、事なきを得たが、危ないところであった。あとは、検査に用いられた検体が他人の検体ではなく私たちの検体であり、かつ、その検査はインフルエンザの検査ではなく新型コロナの検査で、かつ、検査結果については陰性と陽性を間違えずに記入してくれていることを祈るばかりだ。
 これで準備万端である。後は早く寝て、翌朝の便でロサンゼルス国際空港へ向かい、日本行きの便に乗り換えるだけだ。
 12月5日、ロサンゼルス国際空港。大空へと翔び立つ飛行機の横顔を、私はただ眺めるしかなかった。まだ搭乗時刻ではなかったからだ。
 4時間後、私たちは無事に関西国際空港へと翔び立った(乳幼児を連れて飛行機に乗ると様々なことが起こるが、これについては別の機会に書きたい)。

 パンデミック下の関西国際空港は、大きな健康診断会場のようであった。厚生労働省の職員なのか、空港の職員なのか、はたまた国土交通省の職員なのか分からないが、大勢の職員が帰国者の対応のために動員されていた。飛行機から降りると真っ先に陰性証明を提示させられ、全ての項目を念入りにチェックされた後、「次はこちらです」と言われて隣のデスクへと案内された。今度は、そこに置かれた端末に何かデータを入力させられ、「次はあちらにお願いいたします」などと言われて順々に進んでいき、最後に、隔離期間中に抜き打ちでかかってくるビデオ通話のためのアプリをインストールさせられた。それからは、隔離先のホテルへと移送されるのを待つだけの長い待ち時間だ。子どもと妻は疲れ果てて空港内のベンチで眠ってしまった。
 空港到着から3時間が経った頃、ついにお迎えが来た。政府の職員らしき男性に連れられて観光バスに乗ると、近くのホテルへと移送された。ロビーでは政府職員とおぼしき女性から隔離中の注意事項が書かれた紙を渡され、短い説明を受けたのち、別の男性職員に連れられてエレベーターに乗った。扉が開き、男性の後ろに付いて廊下を進むと、各部屋の前に椅子が置かれていることに気が付いた。隔離中の飲み物や弁当などは、この椅子の上に届けられるらしい。職員と帰国者の接触を避けるためだ。
 部屋の中に入ると、ダブルベッドが2つ設置されており、スーツケースやベビーカーを置けば、もうほとんどスペースはない。隔離期間中は、この部屋から一歩も出ることが許されない。廊下やエレベーターは職員が監視している。まるで修学旅行だ。
 ただし、これは修学旅行とは違い、朝になっても昼になっても夜になっても、外出時間はやってこない。何をするわけでもなく、ただ一日を過ごし、一日に3回届けられる弁当を食べ、シャワーを浴びて寝るだけ、という単調で刺激のない生活を続けるのだ。なんという幸せであろう。
 一番の心配事は、ホテルで隔離されている間の子どもの世話であったが、それも杞憂に終わった。子どもは、つかまり立ちはするが、まだ歩けない頃であったから、行動範囲は狭く、遊び場はホテルの一部屋で十分であった。食事についても、離乳食をスーツケースにたくさん詰めて持ってきていたため困ることはなかった。また、子どもがお粥ではなく、大人と同じ白米を食べるようになったきっかけは、支給される弁当に入っていたふりかけご飯であった。子どもは、それ以来、ふりかけご飯が大好物である。
 私は帰国前から、ニュースを見るなどして隔離生活について予習してきた。「ホテルの部屋から出られなくて運動不足な上にコンビニ弁当のような安い弁当ばかり食べさせられて心身ともに疲弊する」という話が多かった。実際、世界中の隔離施設で脱走者が多発していたので、人によっては耐えがたいほどの苦痛だったのかもしれない。しかし、私はそういうタイプの人間ではない。運動が嫌いで、隙あらばゴロゴロしようとする人間である上、アメリカから帰ってきたばかりで故郷の味たる日本の食事に飢えていた。そんな私にとっては、「ホテルの部屋から出なくてよい上、運動もせずに部屋で寝転がっているだけでご馳走が一日3回届く、至れり尽くせりの隔離生活」であった。何の文句があろうか。3日と言わず、全隔離期間をここで過ごすのもやぶさかでない。

 3日間はあっという間に過ぎ去り、ホテルでの隔離から自宅隔離へと移行するための検査を受けることになった。部屋に届く検査キットを用いて自ら検体を採取し、部屋の外に置いておく。そうすると職員によって回収され、検査に回されるのだ。結果は数時間で出た。もちろん、3人とも陰性であった。これで、残り約10日間の隔離生活は親族宅で継続することとなった。
 しかし、改めて、あと10日も隔離生活が続くと想像すると、眩暈めまいがした。引き続き、怠惰な生活を貪り続けることができるのだ。
 私たちは、親族が運転する車に乗りこみ、ホテルを後にした。しかし、実は、すでにこのとき、新型コロナとは異なる別の問題が静かに進行していた。日本に到着し、飛行機から降り立ったときから、その兆候は現れていたのだ。

(続く)
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