ウェブ平凡 web heibon




第1話

育児休業のススメ

[ 更新 ] 2023.11.10
 私は育児休業中の物理学者である。専業主夫として、家事・育児を一手に担っている。主夫にとって、1日のスタートをどう切るか、これが肝心である。
 家族の中で誰よりも早く起き、そっとベッドを出る。モカエキスプレスでコーヒーを淹れる間にハムとチーズをブリオッシュで挟めば昼食弁当の出来上がりである。弁当と水筒をかばんに詰めれば、コーヒー片手に寝室に駆け込み、寝坊助たちに「起きなさい!」と声をかける。ベンジャミン・フランクリンが言ったように、「時は金なり」である。朝の時間は特に貴重であり、1秒たりとも無駄にできないのだ。こうして慌ただしく妻の1日が始まる。私はまだ夢の中である。私の1日が始まるのは妻の出勤から1時間後である。ベッドから出るのに更に30分かかることを付け加えておこう。
 おおよそ毎日このようにして1日が始まるのだ。しかし、怖気づく必要はない。全ての人が私のようなレベルで主夫業をこなせるわけではないし、誰もそれを期待していないことは断言できる。実際、妻にとっても私の働きぶりは想定外だっただろう。
 なにゆえ、このような話を始めたのか。それは、読者諸賢を主夫業へと勧誘し、育児休業取得率の向上を通じて日本社会の課題解決に貢献するためである。そのための手段として、育児休業中の専業主夫の生活を垣間見てもらおうというのだ。だが先へと進む前に、まずは「事の始まり」を話しておくべきだろう。
 
 
 約20年前、私が京都で学生生活を送っていた頃に遡る。私はとにかく労働が嫌いであった。働かないためなら努力を厭わず、あらゆる手を尽くした。トンカツ弁当を食べたい場合は駄菓子のカツを御飯に載せ、鰻重が食べたいときは駄菓子の蒲焼を御飯に載せてしのいだ。旅行の際は旅費を節約するため、自転車(いわゆるママチャリ)を多用した。百万遍から鳥取砂丘や広島の宮島までママチャリで旅したこともある。しかし、あるとき、のっぴきならない事情により金策の必要に迫られた私は、日給が比較的高い深夜の日雇い労働をすることにした。パン工場ではベルトコンベアに「おはぎの葉」を置き続け、印刷工場では紙を補充し続け、日本酒工場では次から次へとやってくる一升瓶の行列に蓋をし続けた。一人の仕事であれば私でも何とかなるかもしれない、と自信を深めたのは、この頃であった。
 物理学者になることを夢見て京都大学大学院修士課程に進学してからは、家賃節約のために熊野寮で暮らし始めたのだが、入寮から数か月後、私は家賃を更に節約する方法を編み出し、熊野寮を退寮した。教授が、火気に注意すれば研究室で寝泊まりしても構わないと言っていたので、私は吉田キャンパス工学部1号館に布団を持ち込んで1年以上にわたって大学に住み続け、家賃を大幅に抑えることに成功したのだ。研究室まで徒歩0分の立地に加え、家賃0円、冷暖房完備、14型ブラウン管テレビにスーパーファミコンまで設置されており、非の打ちどころがない物件であった。朝は中央食堂でバランスの良い朝食をとり、夜は百万遍の銭湯東山湯で疲れを取って英気を養った。友人は私のことをホームレス界の貴族と呼んだ。
 博士課程へと進学後は、霞を食うような貴族生活に別れを告げ、下界へと降り立つことを決意した。吉田東通と近衛通がぶつかる丁字路付近に平安湯という銭湯があるのだが、ここから東へと坂を上った先に家賃1万円のコタツ付き四畳半がある。博士後期課程在学中の約1年間、私はここに暮らしていた(残り2年は茨城県つくば市に住んでいたのだがその話は割愛する)。この物件、キッチンとトイレとシャワーは共同であったが、光ファイバー完備でインターネット環境だけは至高であった。私の眼前に現れた高速インターネットとコタツという悪魔の組み合わせは、王水の如く易々と私の意志と時間を溶かし、後に残された退廃的生活の底無し沼で溺死するところであった。
 このように、労働倫理の底辺をほふく前進するようにして生き延びてきた私だが、いよいよ年貢の納め時がやってきた。私は物理学者になる夢を諦め、就職のために公務員試験を受けることを決意したのだ。四畳半の自宅警備員であることを潔しとしていた私も理論物理学徒の端くれである。試験の類はお手のものだ。私はキャリア官僚の採用試験とされる国家公務員 I 種試験に上位で合格し、早々と某省の内定を得た。2010年春、博士号を取得するとともに物理に見切りをつけ、某省に入省した。私は満開の桜に彩られた江戸城外濠沿いを散策しながら、これから始まる新しい人生の幕開けに胸を躍らせたのだった。
 間抜けと言うほかない。労働が苦手であることを忘れていたのだ。働かないためなら努力を厭わずあらゆる手を尽くしてきた人間が、なにゆえ官僚という誰もが知る激務を選んでしまったのか。日々の労働をこなすなか、この生活をあと30年も続けねばならないという残酷な現実が私の精神と肉体を圧し潰しつつあった。
 ある日、同じ課の男性が1年間の育児休業を取得すると言って荷造りを始めた。労働からの解放だけを願って生きていた当時の私の感想は御想像の通りである。この日、天啓にうたれた私は「子を持った暁には育児休業を1年以上取る」と心に誓ったのだった。これが私と育児休業との出会いである。我が子が誕生する約10年前の出来事である。
 言うまでもないが、育児休業は子どもを養育するための制度である。育児休業を取れば労働から解放される、などと考える当時の私のような浅はかな人間には罵詈雑言と唾の嵐が浴びせられて然るべきである。しかし今や私はそのような軽蔑すべき人間性とは袂を分かち、別人であるから、現在の私に唾を吐きかけてはいけない。
 
 
 妻との出会いは、某省への入省がきっかけである。内々定者たちとの顔合わせが行われた際、その中に神々しいまでの光を放つ女性がいた。天照大御神が舞い降りたのかと見紛うたが、彼女は神でもネ申でもなく、内々定者の一人で同期であり、京都、下鴨神社の近くに住む巫女であるという。この才女が後に私の妻となる女性である。奨学金という名の借金600万円を抱える怠惰な貧乏人が、如何にして、このような不釣り合いな女性と結婚するに至ったか、それはまた別の機会に述べよう。一つ言えることは、当時の私は知性と品性が内から滲み出るハンサムな人格者だったということだ。記憶力には自信がある。
 出会いから2年半後、私が官僚を辞めて任期2年のポスドクになると言ったとき、彼女は反対するどころか背中を押してくれた上、結婚してくれたのだった。ネ申であった。私は、2012年、高エネルギー加速器研究機構(以下、高エネ研)のポスドクとして再び研究者の道を歩み始めた。その後、幸いにもいくつかの研究成果が認められ、任期なしの助教に採用された。日々の研究は(一人で行う仕事が中心であり)楽しく充実しており、最早、労働から逃げ出す必要は微塵もない。それ以来、妻には頭が上がらない。妻様仏様、苦しいときの妻頼み、私の運命は妻のみぞ知る。
 それから10年近くが経ち、子どもが誕生した。それとほぼ同時に、妻の転職希望先から採用通知が届いたのだった。勤務地はニューヨークだという。一方で、私は茨城県つくば市の高エネ研に勤務している。私たち夫婦が取り得る選択肢は、(1)私が長期の育児休業を取る、または(2)妻にはキャリアパスを諦めてもらってニューヨークには行かず東京に住み続けるという選択肢はないため私が仕事を辞める、の2択であった。私は迷わず前者を選択し、2年以上の育児休業を取得することを宣言した。
 高エネ研の上司・同僚は一切の躊躇なく私の決断を支持してくれた。一般的に、職場で何かしらの決断をした際、それを同僚が支持してくれるか否かは、諸賢の日々の働きぶりにかかっていると言っても過言ではないだろう。本件で私が同僚たちから快いサポートを得られたのも、私が長年にわたり築き上げてきた職場内での評価、すなわち、「居ても居なくても同じ人」という評価のおかげである。
 私の名誉のために言っておくが、このことは必ずしも、「私が完全な役立たずである」ことを意味しない。少なくとも、役立たずの例を挙げるときに役立っているはずだ。
 晴れて専業主夫になりニューヨークへとやってきたのは、子の誕生から数か月が経った2021年5月のことである。新型コロナのパンデミックの影響により、観光客はもちろん、ここで暮らしていた人々さえも姿を消し、多くの店がシャッターを下ろしていた。白昼の銃撃事件、銀行強盗、地下鉄ホームでの暴行や殺人など、物騒な事件がほとんど毎日のように起こっていた。幸いにも数か月後には、ワクチン接種が進んだ結果、街に活気が戻り、昼間であれば以前ほど危険を感じなくなった。それでも、危険な眼つきの男がすれ違う人々に罵声を浴びせながら歩いている様子などは最低でも1日1回は見る。人糞には要注意である。歩道を横切るように流れる黄色い液体は尿であるから踏んではいけない。地下鉄へと繋がるエレベーターの中は尿まみれで足の踏み場はない。踏むしかない。ここは地獄であろうか。否、ニューヨークである。東京に帰りたいと一日に何度も願うが、それは叶わぬ夢である。こうして私のニューヨーク専業主夫生活が幕を開けた。
SHARE