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第20回

山椒のある日々

[ 更新 ] 2024.09.26
 少し前の私にとって、漬ける・発酵させる・寝かせるは、“雲の上の料理”だった。それくらい難儀な、自分の台所から遠い作業というわけである。ぬか漬けは何度挑戦しても、日常のリズムにうまくとりいれられず失敗。塩豚は食べるのを忘れがちに。ひと昔前にはやった、塩レモンも大量にできたはいいが、料理の使い道を考えあぐねて余らせた。
 ところが今春、おやそんなに大変な作業でもないぞと、長年のイメージを塗り替える漬け物と出会えた。

 山椒の塩漬けである。漬け物と呼ぶのもおこがましいほど簡単な保存食であるが、作る前は、たしかに雲の上の料理であったのだ。
 きっかけは、おみやげでいただいた山椒オイルと、ときを前後して和食店で飲んだ山椒の焼酎があまりにおいしく、魅了されたこと。汁物やうなぎにかける粉山椒の味わいしか知らなかった私は、オイルや酒に漬けて楽しむ方法があったのかと目から鱗の落ちる思いだった。
 ぴりっとした清涼感、個性的でありながら邪魔をしすぎない独特の和の香り。
 オイルが切れると、自分でも買い求めた。
 そして、次第に家で作れないかと考えるようになった。

 調べると、そのためにはまず、実山椒を塩漬けにすることとある。そうすれば1年間使えるらしい。ちょうど5月で実山椒が出回る時期だった。
 たまたま飲食店で出会った料理研究家に聞くと、塩漬けはそんなに難しいことではないですよ、私も漬けて冷凍していますとおっしゃる。

 よし、と重い腰を上げた。
 山椒の青い実を手に入れ、自宅でトライ。まず、水でよく洗い、枝から実を外す。たっぷりの湯を張った鍋に塩少々を加え、中火で8分ほど茹でる。
 次に水を張ったボウルに40分ほど漬け放置。これがアク抜きになる。
 ザルに上げて水を切り、重量に対して10%の塩を加えて、ジッパー付きビニール袋に小分けして冷蔵。10日ほどで食べられる。そのあとは冷凍庫へ。
 アク抜き、塩漬けという単語だけで、なんだか難しいと思いこんでいたが、やってみると拍子抜けするほど簡単だった。
 そして想像の何倍もおいしい。
 用途も広く、あんな簡単な作業で、こんなにおいしいものを好きなときに好きなだけ楽しめるのかと驚いた。

 手始めに、ひまわり油のガラス瓶に、塩漬けの実を沈めた。3日目からもうしっかり山椒の芳香がうつっていた。キャベツ・ピーマン・きゅうりの千切りサラダに玄米をトッピング。ためしに回しかけたら、自分で言うのも何だが和食店のサラダのようになった。醤油かポン酢をひと垂らししてもよいが、実に塩気があるのでオイルだけでも十分深い味わいになる。

 次に、安くて大衆的なジンで知られるビーフィーターを買ってきて、塩漬けの実を投入。炭酸水で割って飲む。これもすっきりと清々しく、自家製クラフトジンのよう。しかし、最初は欲をかいて、山椒を漬け込み過ぎた。時間が長いほど痺れがきつくなってくるので、3、4日で実を引き上げるようになった。
 癖のない焼酎も向いている。2本めはキンミヤ焼酎に漬けこんだ。

 塩漬けの実を保存瓶に入れひたひたに醤油を注いで1週間ほど置くと、醤油漬けになる。これが万能で、冷奴、焼き茄子、きゅうりのみょうがあえ、蒸し野菜、オリーブオイルで割ってドレッシングと、さまざまな料理に使える。焼いた肉にかけるのも絶品であった。
 使い終えても、冷凍庫にまだ塩漬けがあると思うと、ちょっと幸せな気持ちになれる。くいしんぼうにはたまらない魔法のスパイスなのである。

 簡単なので、知っていれば昔の私でもやれたかというと、そうは思わない。どんなに手がかからなくても、あの頃の私に“待つ料理”は不可能だった。たとえ時間があっても、待つだけの心の余裕がなかった。子育て、仕事、友達との約束。いつもすべてに、急いでいた。

 山椒の塩漬けは、おそらくこれからも毎年作るだろう。3、4日香りが熟成するのさえ待てなかったあの頃の自分を上書きするかのようにまめまめしく。
 


 

 

 
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