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第18回

私にとって本当のかつ丼

[ 更新 ] 2024.08.22
 上京してまもなく、当時勤めていた編集プロダクションの近くの和食屋でランチにかつ丼を頼んだ。すると、卵でとじた不思議なものが出てきた。この店のオリジナルで、特別なかつ丼だと思った。
 ところがそれ以降、東京のどの店に入っても卵とじが出てくる。
「東京のかつ丼は卵でとじて、しっとりやわらかくて、そんなに甘辛くないんだね」と、京都出身の彼氏(現・夫)に言うと、怪訝な顔で返された。「え、かつ丼いうたらこれやで」。

 そこで初めて、卵とじが特別なのではなく、故郷のかつ丼が変わっていたのだと気づいた。
 中学・高校時代を過ごした長野県駒ヶ根市のかつ丼は、揚げたとんかつを、特製のタレにどぼんと浸し、白いご飯の上にのせる。タレは、家ごとに味付けが異なり、母はウスターソース・砂糖・醤油・水少々を火にかけていたと思う。煮詰めすぎず、「サラッ」と「どろっ」の間くらいだった。

 カツは大きなものを揚げてから切るのではなく、一口サイズのヒレを揚げる。熱々のうちに、タレをくぐらせて丼鉢のご飯の上へ。キャベツはなく、タレが染みたご飯もまた旨い。
 
 かつ丼の日は、母がどこからか黒い円形の蓋付き漆器をひっぱり出してきて盛り付ける。家中に広がる油と濃厚なタレの香りによって、今晩はかつ丼とわかっていても、食卓の漆器を見ると喜びが倍増した。
 一、二度、なにか特別な日の弁当に、その漆器にかつ丼をつめ、大判のバンダナでキュッと包んで蓋が外れないようにして持たせてくれた。そんな朝は、最高に登校の足取りが軽い。

 タレはくぐらすだけなので、まだカリッとした衣の食感が残っている。白米に濃いカラメル色のタレが染み込む、あのかつ丼が、私の中の正しいかつ丼なのである。
 そして、身びいきでなく、どう考えてもこれは卵とじの数倍旨い。卵とじはそれはそれで旨いのだが、カツ丼はパンチのある甘辛仕立てでないと。
 そんなわけで、次第に私は東京でかつ丼を頼まなくなった。

 東京で自分の「普通」が普通じゃないと気づいた頃、駒ヶ根では新たな動きが生まれていた。
 商工会議所が中心となり、あのかつ丼を名物にと「ソースかつ丼」と命名。飲食店有志が「駒ヶ根ソースかつ丼会」を発足させ、ソースかつ丼による「街おこし」が始まったのだ。帰省すると、街のあちこちに見慣れぬ「駒ヶ根ソースかつ丼」の幟がはためくようになった。

 それを見て、うんうんそうだよねと激しく納得した。あのかつ丼は、もっとたくさんの人に知ってほしい、そう勧めたくなるおいしさだよね、と。同時に、ちょっと可笑しくなった。故郷の大人たちも、私のように、この普通が普通じゃなかった驚きの体験をどこかでしてきたんだな。だから、街おこしにという発想が生まれたんだな。
 味覚が見知らぬ故郷の人たちと自分をつなげる。

 我が子が中高生の頃、母の味を思い出しながら、ウスターソース・砂糖・醤油・水にケチャップを加えたり、砂糖の代わりに蜂蜜を用いたりしてタレを少々研究した。だが、なかなかバチッと味が決まらない。統一されたレシピのあるものではないので、記憶を頼りに再現するが、どうも駒ヶ根の味にはならない。……と、ある日実家から、濃いチョコレート色の小瓶が送られてきた。
「長野で流行ってるんだよ」というそれは、駒ヶ根のソースかつ丼有名店の名がついた「かつ丼ソース」だった。

 さっそく揚げたカツをくぐらせると、そうそうこれ。コクのある甘みが強いこの味こそソースかつ丼だ。
 以来、それに頼るようになった。
 あっけないほど簡単に、懐かしい味になる。本当においしくて便利だ。今も実家から送られてくるので、切らさず冷蔵庫にある。
 しかし、最近出番がぐんと減った。食べ盛りの子どもが巣立ったためと、いつも同じ安定したあの味ができることに、少しの寂しさを感じるようになったからだ──。

 どんなにおいしくても、これは私の味ではなくあのお店の味。いばれないし、ほめられてもあまり嬉しくない。おいしいのに手放しで喜べない、もやもやしたものが残る。大切な記憶の中のソウルフードを、自分で作れない不完全燃焼がそうさせるのだろう。

 地域ごとに伝統料理がある。保存しよう、伝承しようという動きも活発だ。でも、伝統料理というほどでもない、歴史も謂れもないけれど、その地に根づき大人からも子どもからも愛される大衆的な、あのかつ丼のような家庭料理も大事にしたいものだ。

 楽に再現できるのは間違いなく便利でありがたいけれど、たまには全部自分の手で子どもたちに伝えてみたい。
 この原稿を書くために、母にかつ丼のタレのレシピを聞くと、ひどくあやふやだった。絶対それだけではあの味にならないだろうと素人にもわかる。母も長らく瓶のタレに頼っているからもう覚えていないのだろう。

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