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第3回

横綱白鵬の断髪式で国歌斉唱に泣いた(後篇)

[ 更新 ] 2023.08.10
戦争が私の足元にあったんだ

 それで、「君が代」について真剣に考えて来た人に話を聞いて、学んでみることにした。お会いしたのは東京・杉並区にお住まいの小関啓子さん。杉並で市民運動をしている人なら、知らない人はいないという町の有名人だ。少し前に別の取材で、同じく杉並で市民運動をしている東本久子さんが「卒業式での日の丸掲揚・君が代斉唱のことで、娘が中学生のときに校長先生と話し合いをしたことがある」「そのときに小関さんはそこの先生だった」と聞いて、小関さんが中学校の先生という立場でどんな風に「君が代」について考えて来たのかを尋ねてみたくなった。電話をして、その旨を伝えると、「いいですよ」と快諾してもらえ、お会いすることになった。

 小関さんにはもちろん何度もお会いしたことはあったのだけれど、お年も、生い立ちも、何も知らなかった。それで開口一番「私は1962年に教員になって、2000年に退職しました。生まれは1939年です」と言われて、「えーっ、びっくり。うちのオカンと同じ年です~」と叫ぶ私。すると小関さんが、
「1939年てね、渡辺白泉という俳人が『戦争が廊下の奥に立つてゐた』と詠んだ年です。その2年前が『盧溝橋(ろこうきょう)事件』で、2年後が『真珠湾コタバル奇襲攻撃』で戦争に突入した。その真ん中に生まれ育ったので、自分は『防空壕世代』って呼んでるんです」
 と教えてくれる。
 盧溝橋事件とは、1931年9月の柳条湖(りゅうじょうこ)事件から始まった日中戦争が、より広がって日中全面戦争のきっかけになった事件だ。歴史の授業でぼんやり聞いていたものが、目の前にいる小関さんと、私の母の顔に重なり、にわかにリアルなものとなる。そうか、小関さんも、母も、そんな事件の頃に生まれ育っていたのかと、想像しただけで息苦しい。不安しか沸いてこない。自然と、戦争の話から始まった。

「私は今のJR阿佐ヶ谷駅(杉並区)から北へ1キロぐらい行ったところで生まれ育ちました。ほんの猫の額みたいな庭の、元々池があったところに父と兄が掘ったんでしょう、防空壕があったんです。そこに私と、4つ下の妹を背負った母とで入って、上から畳で塞いでました。姉や兄もいましたが、勤労動員や学徒疎開で阿佐ヶ谷の家にはいなかったですね」
「えーっ、防空壕って畳で塞いでたんですか?」と、また叫んでしまう私。「そうよ、屋根作るなんてたいへんだから、畳はがして、上に乗せてた」と言われて、でも、そんなヤワなもので蓋をしたってあんまり役立たないだろう? 私はずっと防空壕って鉄板のがんじょうな屋根とか、鉄の扉とか、勝手にそういうのを想像していたけど、考えたら個人の家にそんなものはない……。それなら、家の中にいた方がいいんじゃないの?と思ってしまった。
「後になって見たら、畳に不発弾が刺さってたことがあって、あれが爆発していたら今はここにいないよね」
 うわぁ~っ。恐ろしい。それならやっぱり、家の中に私ならいたい。なにせ閉所恐怖症だし。みんなが防空壕を掘れ、空襲警報が鳴ったら、そこに入れと言われ、入らないとならなかったんじゃないのか。私には、すべてが間違えていているように思える。
 私の母は同じ頃、まだ赤ん坊だった妹を抱っこして防空壕に入って生き埋めになっている。妹は死んで、母は頭を打ち、記憶がしばらくなくなったそうだ。私もこの世にいなかったかもしれないし、そうか、母が入っていた防空壕とやらも、そういうものだったんだろう。みんな、みんな、そういうところで死んでいったのか。
「3月10日、東京の東の空が真っ赤になっていたのは見ていました。杉並区には中島飛行機という戦闘機を作る会社の工場があったし(現在の「桃井はらっぱ公園」)、浜田山にはB29を撃つための高射砲の陣地があって狙われやすく、3月25日には阿佐ヶ谷~高円寺一帯も空襲に遭いました。うちはたまたま焼けなくて、阿佐ヶ谷の駅も残ってましたね」
 小関さん一家はそれでいよいよ危ないとなって、終戦間近に福島県に疎開をする。1945年5月。「どうやって行ったんですか?」と尋ねると、「記憶がないんだよね。満員電車がたいへんだったと母がその後に話してましたが」と言う。今、私がそれをやれと言われたら、とてもじゃないけど無理だ。人がギュウギュウいるとパニックになる。泣いて、あきらめて、そして、死ぬだろう。戦争は無理だ、無理。無理だけど、戦争は否応なしだ。
「兄は戦争に行く年齢じゃなかったし、父親も高齢でしたから戦争には誰も行ってないけど、母親の兄2人は戦死している。一族の中で必ず誰かが戦死していますよね。今でも地方に行くと座敷に写真がズラズラッと並んでいて『この人とこの人は戦死してね』とかあるでしょ」
 ああ、そうだ、ほんと、そうだ。誰かしら亡くなっている。それが戦争だった。
 そして、終戦を迎えて小関さん一家はまた阿佐ヶ谷に戻った。
「戦争が終わって、翌年に小学校に入りました。杉並第九小学校です」
「えっ?」と、また私は声が出る。
和田「あの、早稲田通りをちょこっと入ったとこの? 関東バスの営業所の前の?」
小関「そうそう、私の家は今の関東バスの営業所の裏にあった。そこで生まれたんですよ」
和田「私は以前、関東バスの営業所の横に住んでました!」
 いきなりローカルな話をして、そして驚いた。私と小関さんは、時空を超えて、隣近所だった。そうか、数年前まで私が住んでいたエリアにB29から焼夷弾が落ちてきて、家がたくさん焼け、大勢が死んだのかと、初めて知った。私が住んでいたアパートのあった場所でも、誰かが亡くなっていたかもしれない。戦争は、私の足元にあった。遠いどこかの話ではない。

戦時中の「君が代」にぼんやりはNG

 「それで小関さん、『君が代』を戦時中とかは歌わされていたんですか?」と肝心なことを聞いてみる。
「それが『君が代』を歌ったという記憶はないんです、小さかったから。通っていた近所の幼稚園の教室には額が飾られていて、皇居の二重橋の写真でした。それに向かって毎朝お辞儀をさせるので、なんで橋に?と聞いたら『あの橋の向こうに天皇陛下がお住まいになっている。天皇陛下は神さまです』と教えてくれた。なにせ子どもだから、天皇陛下は神さまなの? 神さまはおしっこするのかな?と思っていた」
 「わ~、不敬罪」とか、今ならファミレスでドリンクバーのカルピスをごくごく飲みながら笑って言える。でも、当時こんなことを表で言ったら、ほんとに不敬罪でたいへんなことになっただろう。
 「君が代」はじゃあ、戦時中にどんな風に歌われていたんでしょうかねぇと言うと、「こんなのを見つけまして……」と、この連載を担当する編集Hさんが1937年(昭和12年)に出版された本『國號國旗國歌の由來と精神』(東山書房)のコピーを取り出し、私と小関さんに見せてくれた。これがすごかった。

「國歌『君が代』の由來と精神」という項を読み始めてすぐ「我が国の国民は、国歌の歌詞の精神、歴史、国歌に対する作法などをわきまえて居らねばならぬのである」(筆者が新字新仮名に直す。以下同)とあった。作法をわきまえよ!だ。
 さらに「君が代」とはどういう歌か?というのを「一言で云えば、『天皇陛下万歳』の六字になるのである。戦場にある我々同胞の親子兄弟は不幸戦死をする時、最後に、何人も 天皇陛下万歳と、国歌『君が代』を申上げて、陛下の御稜威(みいつ)の永久である事を祈るのである」とする。
 なるほど、君とは天皇で、その世が永久に続きますようにと祈り、戦地で不幸にも死するときには天皇陛下万歳と言い、「君が代」を歌いながら死んでいくことが求められていたのか。
 戦地にいなくても「君が代」と接するに、わきまえるべきことはたくさんあった。
 まず、「歌う場合」は、「必ず起立し、姿勢を正しくし、すがすがしい心を持って、敬虔(けいけん)の念に満ちて歌うべき」であり、「何か他の事を考えて居たり、また、ぼんやりした態度で歌ったりすべきものでは無いのである」とする。ぼんやりした態度ではダメなんて、もう、私は常にぼんやりした態度だから、圧倒的にNGだ。
 すごいのは、卒業式などで「君が代」を演奏することは「即ち 陛下に対し奉って奏するのであるから」、外を歩いているなど近くにいる人でも歩みを止めて脱帽して姿勢を正せという。またラジオで「君が代」が流れて来たら、洋室にいれば起立、和室にいれば正座し、「慎しみの心持を以て徐(しず)かに行動する様にしたい」とある。
 本の最後で、芳賀博士なる「あなた、ダレですか?」な人の「大君の御代が長久であるという中に、国民の幸福は自ら含くまれている。国土の繁栄も含まれている。単に 天皇陛下のご長寿を祝賀するというのが、すなわち我が国家我ら臣民のあらゆる祈願も含まれているというところに、日本の国体があるのである」という言葉が引用されている。「実に至言である」と大絶賛付きだ。なるほど~。「君が代」ってのは、そういう風に重用されてきたわけですね。初めて知りました。


「君が代」を歌ったことがない

 すごいですね、「君が代」って。こんなだったんですね。
「だから戦争に負けて、これから日本は新しい憲法でいくんだとなったら、もう『君が代』や『日の丸』はなしね、と私たちの世代ではそうなっていたから、私は一度も歌ったことがないし、一度も日の丸を振ったこともないのよ」
 先生になってからは?
「教えたこともなければ、学校では歌わなかったんです、当時はそれで済んでました」
 それは校長先生に交渉するとか、そういうことがあったんですか?
「基本的には職員会議で卒業式の式次第を決めます。そのときに『君が代』を歌うか?歌わないか?の賛成反対をとると、歌わないことになりましたね。当時は教員が強かった。労組も複数あって私は全教(全日本教職員組合)に属していました。もちろん組合に入ってない先生もいて、立場はそれぞれバラバラ。別の件では意見がかみ合わずに言い争って喧嘩したこともありましたけど、それでも『君が代』を歌わないということに関しては大きな反対もなく、自然と一緒に取り組みました」
 どうして、そういう流れになったんですか?
「教え子を再び戦場に送らない、という共通の強い想いがあったからです。だから教員の間で、『君が代』を歌う、歌わないで争ったりはしなかったですね」
 根幹には何があったんですか。
「学徒動員といって、学生さんたちを戦争に行かせて、みんな殺してしまった。神宮外苑で日の丸を振って、『君が代』を歌い、万歳と言って送り出してしまった。もう、そういうことはさせないという強い想いがありました」
 ああ、学徒動員。兵力不足を補うため、それまで免除されていた大学生らを徴兵した。1943年10月21日に東京の明治神宮外苑で行われた「出陣学徒壮行会」の映像は何度も見たことがある。あの場には、学生を中心に7万人が集まった。それからも学生の徴兵は続き、出征者は10万人とも、それ以上とも言われ、死者数に関しても分かっていないそうだ。その人たちが生きていたら、どんな活躍をしたんだろう? 
 私はかつて音楽評論家の湯川れい子さんのアシスタントをしていたが、湯川さんのお兄さんは学徒動員でフィリピンへ行って、戦死した。遺骨も帰ってこない。そのお兄さんが学徒動員されることが本当にイヤでイヤで、自分は絵を描きたい、やりたいことがたくさんある、戦争はダメだと綿々とつづった日記を読んだことがある。ああ、みんな本当はこういう想いだったんだなぁと知って、日記を読みながら何度も何度も涙が出た。私たちが平和を守らないでどうする?と思った。
 しかし、「君が代」の由来を書いた戦時中の本には、「不幸戦死をする時、最後に、何人も天皇陛下万歳と、国歌『君が代』を申上げ」て死んで行けと書いてあるわけで。「君が代」は戦争と、あまりにも強く結びついてきた。それを歌わない、子どもたちには歌わせたくない、小関さんたち防空壕世代の先生たちには、そういう気持ちがあったんだ。

「君が代」に代わる歌が作られた

 でも、ひとつ疑問なのが、先生たちにはそういう熱い想いがあったとしても、子どもたちはどう思ってたんだろう? 私なんて小中高、ずっと何も考えずに歌っていて、歌の意味なんてぜんぜん知らないまま呪文のようにそらんじていた。編集Hさんは「私が子どもの頃は、いしのいわお、って誰だ?って学校で言ってました」とサラリと言う。あははは。ほんと、いしのいわお。誰だ?
「そう、子どもはそれぐらいのものですよね。よく憲法はアメリカからの押しつけだと言う人がいますが、『君が代』だって誰が作ったか知ってるの?と問い返していました。私は子どもたちには歌詞の意味を教えました。理科の教師だったから、『君が世』とは天皇の世ということ。千代に八千代にって千年も万年もって人間はそんなに長く生きるのかな? 亀は千年生きるとか言うよね、とか笑ってね。さざれ石(細石。小石のこと)が巌(いわお)になると言うと、子どもたちだって『岩が崩れて、さざれ石になるんじゃないの?』って疑問を持つ。だから『さざれ石が巌に再びなるっていったら、とてつもない時間がかかる。科学的に見ておかしい』と説明した。それから戦争の話をしました。戦争に行って死ぬ瞬間、みんな『お母さん』と言って死んでいったと言われているけれど、あの頃は天皇の子として戦争に行って、天皇のために、天皇の世を永らえるために死んでいくとされた。そんなの理不尽だよね? 戦争はもうしませんと日本は決めたんだから、『君が代』はもう歌わないよね、って話したんです」
 ああ、そういうこと、子どもの頃に私は聞いたことがなかったなぁと思った。戦争の話をしてくれた先生はいた。中学のときに社会科の担当だった津野先生は「自分が子どもの頃、二・二六事件が起こって、軍人さんたちを大勢見た」といったリアルな話をしてくれてドキドキした。でも、「君が代」の意味は教えてくれなかったなぁ。大事なことは学校では意外と教わってない。たとえば働く人の権利とか、労働組合のこととか、生活保護とか、税金のこととか、何より民主主義の主役は私たち自身だとか。「君が代」のことも、もっと、ちゃんと教えてほしかった。
 それにしても、モンゴルでは国家体制が変わったときに、国歌を変えた。どうして日本て、変えなかったんですかね? 小関さんに聞いてみた。だって先生だもん。
「いっとき変えようという議論はあったのよ」
 え、そうなんですか?と何度目かの驚きを経て家に帰ってから調べると、確かに読売新聞や朝日新聞が「君が代」は「歌わされた唄」であり、「国家主義的で神聖化された旧思想を内容としていた」と批判していたんだという。実際に新しい国家を!と日教組(先生たちの労働組合)や洋酒会社の「寿屋」(現在のサントリー)がそれぞれ新国民歌を公募し、発表したものの、大きく広がらなかったんだという。結果、私たちはなんだか面倒くさい国歌を抱え続けることになった。歌うとか歌わないとか、あれこれ考えないとならない。
「私は死んでも歌わないと決めて歌わないけど、だからって歌ってる人を『けしからん』とかは絶対に言えない。相撲でもサッカーでも、みんな国歌だからと歌ってるだけ。きちんと始末してこなかった私たち世代の責任です。ただ、日本が捨て置いてきたものがある、大事な忘れ物をしているんだってことは覚えておいてください」
 小関さんは、そう申し訳なそうに言う。すると、よくサッカーを見るという編集Hさんが「TVの中継でサッカー日本代表の監督の顔をアップにして、『君が代』を歌ってるかどうか映したりするんですよ」なんて言うからビックリした。そんな意味ないことしてんの、日本のテレビって? 小関さんが自分は歌わないが、歌ってる人をけしからんなんて思わないように、歌ってようが、歌ってなかろうが、どっちだっていいじゃないか。1999年に「国旗国歌法」が制定されたときに政府は「国民に義務を課すものではない」と説明している。文部科学省は学習指導要領で「いずれの学年においても歌えるよう指導する」としながらも、児童・生徒の内心に立ち入らないよう注意してきたというではないか。歌うか、歌わないか、それぞれが決めればいい。歌え! と強要しちゃ、おかしい。ちなみに私は、小関さんのお話を聞いたらもう歌わないかなぁ。

国技館で流してほしいのは

 それで話はまた国技館に戻るのである。「君が代」について学ぶと、それを国技館で流すのはどうなんだろう?と思う。永らえてほしいのは、大相撲そのものじゃないのか? そもそも力士の国籍もウクライナや中国、モンゴルやブルガリアなど多様だ。「君が代」だけを流し続けるのって、無理がないか? 優勝力士の国歌を流せばいいじゃん。
 それが難しいならば、国技館で流す曲を変えてほしい。私が推すのは、相撲ファンならみんな知っている「相撲錬成歌」だ。
 なんだそれ? えっと、おすもうさんたちが入門してすぐに通う相撲教習所で必ず歌うもので、実はすでに本場所中、朝一番の取組前に場内で流されてもいる。YouTubeで検索してください。すぐ、出てきますわ。「いわおのごとき~むないたに~はがねのかいなひばなちる~」って、たまたまこちらも「いわお」って言葉で始まったりするのだが、なんか、これなら、優勝が決まった後にみんなで歌うのにピッタリな気がする。国籍も関係ない。
 ちなみに小関さんが先生をしていた時代、杉並区のその中学の卒業式ではいろんな卒業にまつわる歌を歌い、壇上には生徒たちが描いた絵やメッセージが飾られ、楽しく盛り上がったらしい。そうだ、そうだ、楽しいが一番だ。私は楽しい主義だ。ああ、楽しい主義なら「ハッキヨイ!大相撲 ひよの山かぞえ歌」はもっといいなぁ。いや、これが最高だ。うん、これに決定! これがいい! これを優勝決定の授賞式で流して、みんなで手拍子で盛り上がりたい。
 なんだそれ? YouTubeで見てください。うふふ。ちなみにこの動画でも、歌ってる人もいれば、歌ってない人もいる。歌いたい人は歌えばいいし、歌いたくない人は歌わなくていい。
https://www.youtube.com/watch?v=wrAUWpTC9dM

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