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第1回

相撲を愛することで、社会が見えてきた。

[ 更新 ] 2023.05.30
 私は「まわし」を巻いたことがある。
 北海道・福島町で毎年「母の日」に開かれている女性だけのアマチュア相撲大会に出場してルポを書くため、2012年初めに東京・神田にある社会人相撲の道場にしばし通った。初回から「まずは四股100回、続いてすり足、スクワット」と全力でぶちかます稽古をして、神田駅の、当時あったほんの4~5段の階段が登れないほど足がダメになった。それでも翌週も稽古に参加した私に、道場の先生が「和田さん、まわし巻きますか?」と巻いてくれたのだ。
 巻きますか?とか、巻いてくれたとか、なにやら簡単便利な手巻き寿司♪みたいに聞こえるが、ことは「まわし」なのである。基本的に「まわし」は天日干しをしても、洗わないものだ。道場の壁のタオル掛けにズラズラッと並んでいて、誰が使ったか分からない。えっと、それは、直接お尻に巻いたものですよね? その認識で間違いない? Please let me know if my understanding is wrong(←ググった)。
 正解!と先生は言わないまま、いちおうジャージを履いている上からまわしが巻かれることになった。ぐるぐると私が何回転かし、キュキュッと最後に先生が締め上げてくれる。あらっ? これが意外といい。腰痛のときに巻いたコルセットよりずっと腰が安定して、足がフラつかない。これなら1日中巻いても……いいわけないが、まわしは意外と私にしっくりきた。

 ということで、こんにちは。まわしがしっくりくるライター、和田です。当然ながら大の相撲ファンで、これから相撲の連載を始めることになりました。ちなみに相撲と大相撲は違う。相撲は草相撲やアマチュア相撲も含む広義なもので、日ごろ私たちが2か月に一度、奇数月の15日間目にするのは大相撲という興行だ。私は相撲も大相撲も大好き。女性のやる相撲も、子どもたちがやる相撲も、見るとワクワクする。とにかく相撲という言葉が耳に入ると、クルッと振り向き、ニヤッと笑う、そんな人だ。
 相撲を好きになったのは、2003年の11月場所からだったと思う。その頃、私は鬱がひどくて布団からなかなか起き上がれないでいた。何をしても自分はダメだと思いこみ、自分で自分を叩きのめす日々。当時の私に言ってあげたい。「あなたは何も間違えていない。自信を持って生きなさい」と。これはすべての若い女性に言いたい言葉だ。あなたは何も間違えていない。自信を持って生きなさい。心からそう思う。
 日本では、女性の生き方が型にはめられてきた。家事や育児や介護の担い手として無償ケア労働に励みながらも外でパートの最低賃金で働くことがデフォルトで、社会的地位が低く、あまつさえ苗字さえ失うことが多い。選択的夫婦別姓は政治の権力にずっと握りつぶされてきた。いや、女性の人生そのものも、政治の権力にずっと握りつぶされてきたと思う。そんな中で必死に生きるあなたも私も、何も間違えてなんかいない。
 ああ、そうだ。今なら分かる、そのことが。コロナ禍になって、私はそれを学んできた。『時給はいつも最低賃金、これって私のせいですか? 国会議員に聞いてみた。』(左右社)という本を書いて、ずっと抱いていた「私のせい」という重圧が、私のせいではないことがよく分かったんだ。

 でも、そのずっと前の2003年、朝青龍を見つけたことで私は、そこで息を吹き返した。残念なことだが、私は自分の人生では「負けがこんでいる」と思いこんでいた。それで、相撲ファンの友達に教えられて観た大相撲、土俵で勝ち続ける朝青龍を大好きになった。パーンッとまわしを叩き、取組の相手を睨みつけ、ガ~ッと一気に勝つ。すると大喜びの表情で土俵を去っていく。あんな痛快な人はいない。瞬く間に夢中になり、朝青龍が勝つことで自分の鬱が吹き飛んでいくように思えた。私の問題は、解決はせずとも、しばし忘れることができる。推し活とは、そういうものだよね?
 明けて2004年初場所、友達が「チケットがあるよ」と升席の1座布団を私に譲ってくれ、いきなり生で相撲を観た。それは、キラキラだった。ネットやテレビでの大相撲中継では分からないが、大相撲の関取以上(十両・幕内)の取組ではライトのお光り具合がとんでもない。神事です~伝統です~という大相撲の土俵の上に一見うやうやしくある「神明造り」の吊り屋根の内部はライトがギラギラ輝いている。それがカッと力士たちの肌を輝かせ、観る者を興奮させるのだ。しかも音がすごい。大相撲のぶつかり合いの音のすごさは、その後のコロナ禍での無観客興行でもかなり話題になったが、いきなり出会った相撲の「音」に私はびっくりした。
 何よりもちろん、リアル朝青龍は激しかった。もんどりうつ、というおよそ日常では使わない単語がぴったりはまるような腕、太もも、腹の動き。躍動し、圧倒的だった。実際はほんの数秒の取組なのに、「まるで夢を見ているようでした」とぼ~っとし、勝った後は手を叩いて、升席で飛び上がらんばかりに喜んだ。
 ところがだ。その後も足しげく国技館に通ううち、そうそう楽しんでいられなくなっていく。1、5、9月の年に3回の東京場所。2階席の安い席を買って行くのだが、朝青龍が土俵に上がると、にわかにまき起こる「負けろ」コール。手拍子をして酔っぱらったおじさん集団が「負けろ、負けろ」と歌うように声をあげる。何言ってるのぉぉ? What the heck are you saying?(←またググった)。腹が立って腹が立って、たまらなかった。友達からまた升席の1座布団をもらって観ていたとき、隣で中年男性グループがウイスキーの瓶をひっくり返すほど酔っぱらいながら負けろコールを始めて、「うるさいっ! 止めろ!」と怒鳴りつけたことがある。座布団で殴り掛かりそうなほどの勢いだったと思う、私は。男性たちはバツの悪い表情をしてモゴモゴ何か言っていたが、私が睨み続けると黙った。
 朝青龍はヒール役の横綱だった。だから叩かれる。私はそう思わされていた。でも、それだけじゃないよね。彼は強すぎる横綱で、モンゴル人だった。やがて朝青龍はおかしなことで引退を迫られ、その日もうひとりのモンゴル人の横綱だった白鵬が涙を流して悲しんだ。その姿を見て、正直それまで白鵬のことは「朝さまのライバル」とニガテイシキを抱いていたのを、「この人がいたからこそ、朝さまも輝けたんだわ」と、ファンになった。

 
 ところが、そこから私の茨の道が始まった。白鵬を推せば推すほど、私は苦しくなる。それが恋というもの? いやいや、ちゃうで、ちゃう。
 白鵬が何をしても、どんなに勝っても、ひたすら叩かれ続けられるようになったからだ。朝青龍がいた頃、白鵬は優等生視され「日本人以上に日本人らしい」という、〈そもそも日本人らしさって何だ?〉〈日本人らしくなることがいいことなのか?〉〈外国人のアイデンティティーを破壊するのか?〉とツッコミどころしかない外国人への誉め言葉と称したいやらしい言葉で白鵬は評されていたものの、2013年頃から様子が変わってきた。朝青龍に向けられていたものとは違う、もっと陰湿で、執拗で、露骨に差別的なヤジや相撲の解説と称するものが平気で土俵の外で飛び交うようになったのだ。まさに東京・新宿区大久保で、ヘイト・スピーチのデモが激しくなった頃。師岡康子さんの『ヘイト・スピーチとは何か』(岩波新書)という本が出版された頃(2013年12月)のことだ。
 私は忘れない、2013年11月の九州場所14日目を。白鵬vs稀勢の里の取組で、稀勢の里が上手投げで勝つと、場内の人たちが「ばんざーーい、ばんざーーーーーい」と始めた。稀勢の里が優勝を決めたのではない。この場所で優勝したのは日馬富士だ。でも、観客は白鵬が負けて稀勢の里が勝ったことで、立ち上がり、まだ土俵下には白鵬が座っているにもかかわらず、万歳を叫び続けた。稀勢の里を応援していたからだ? では、稀勢の里が勝つたびに万歳三唱があったか? ないってば、ない。あたりまえでしょう?
 そうした扱いは徐々にエスカレートしていった。NHKのテレビ中継ではあからさまに「日本人の活躍」を願うようになり、「日本人の横綱」の誕生はマストなことだと堂々と言っていた。「日本人」という言葉に批判が集まると「日本出身の横綱」なる珍妙な言葉が生み出された。そんな用語は、NHKのアナウンサーたちが持つという放送用語集には載っているのだろうか? Is the term in the "broadcast language book" held by NHK announcers?(←またまたググった)。もし載っているとしたら、ヤバい用語集でしょ、それ。
 もうひとつ、どうしても忘れられないことがある。2016年3月場所の千秋楽。白鵬が日馬富士を変化(左右に体をずらす相撲の技のひとつ)でやぶって優勝を決めたことに怒った観客たちが、白鵬の優勝インタビュー時に「モンゴルへ帰れ」「そんなに懸賞金が欲しいか!」など罵詈雑言を浴びせまくり、白鵬が泣いてしまい、優勝インタビューが打ち切りになった。あまりのことに私はショックで言葉を失いながらもツイッターで怒りをぶちまけていると(ツイ廃ですから)、「白鵬が悪い」「優勝をかけた取組で変化(左に動いた)するなんて卑怯」「こういうことがあるとすぐ差別とか言う奴らがいる」と白鵬や白鵬ファンを罵るツイートがタイムラインにあふれていた。変化することは反則技ではないし、それを横綱がやっていいとか悪いとかはそれぞれの相撲の見方であり、日ごろ大相撲、殊に横綱という地位に「品格」とやらを求める人たちのすることではないだろう。
 それよりも「モンゴルへ帰れ」などと差別的ヤジがテレビの中継音声にも乗ったことが問題だし、相撲の取り方/ルールについて言いたいことがあるのなら、相撲協会に訴えて変更を迫るべきだ。問題があるのは差別であり、また大相撲のルールはあいまいなところが多く、それを大らかに受け入れるのが、本来の楽しみ方のはず。自分のイライラをぶつけるべき相手は白鵬ではない。
 そして、その同じ日、東京・新宿であったヘイト・スピーチのデモへのカウンターに参加した私の友人が、もう一人の女性と路上にいたところ、女性が警官に首を絞められて、地面にたたき落とされ、救急車で搬送される事態が起こった。そのニュースを聞いたとき、この2つの出来事はつながっていると感じた。
 日本社会に歪んだ差別意識があり、根底には今の政治が作る社会構造、そこから生み出された格差社会に問題がある。人ははざまでイライラを募らせ、他者にぶつける。あれもこれもそれも、土俵の上や周りで起こっていることは、日本の社会で起こっていることに通じる。そう思った。土俵と社会は写し鏡だ。

 大相撲という興行は、古く江戸時代に始まる。日本社会において、これほど長く愛され、続く興行は他にはない。良くも悪くも、日本の社会を映し出していって当然ではないだろうか? 土俵の上で起こることは同時に、もしくはやがて、日本社会でも起こりえる。朝青龍から白鵬へ。そして今も――私はずっと相撲を見続け、推しまくる中で、社会を見て、学んできたように思う。相撲を愛することで、社会が見えてきた。これから、そのことを書いていく。どうぞ、ひとつ、よろしくお願いします。はぁ~、どすこい~、どすこい。
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