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第10回 

『ガラスの仮面』~ライバルとシスターフッドの頂点(完結編)

[ 更新 ] 2024.06.25
 少女マンガの「ライバルとシスターフッド」の最高峰ともいえる『ガラスの仮面』のマヤと亜弓をめぐる考察、いよいよ完結編です。『花とゆめ』創刊50周年、白泉社創立50周年の今年、どうぞ、『ガラスの仮面』(間違いなく面白い!)を通読してお読みください。

 ◆「紅天女」を生きる
 亜弓がマヤへの抑えきれない嫉妬に突き動かされ、二人の正面きっての本音対決が殴り合いの喧嘩にまで発展する少し前、梅の谷では、マヤと亜弓の部分的な『紅天女』試演と、それに先立つ「風・火・水・土」の4つのエチュードが行われた。月影先生は言う。「あれは、どんな演技をするかではなく、その過程こそが真のエチュード。そこに真の目的があるのです」。
 「風・火・水・土」は、いってみれば生命と自然の顕現。「紅天女の心」そのものである。それは、演劇界幻の名作『紅天女』の次のようなセリフからもよくわかる。
「風とわたしは同じものであり、火とわたしは同じものである。
 水とわたしは同じものであり、土とわたしは同じものである。
 木と草とわたしは同じものであり、獣と虫とわたしは同じものである。
 魚とわたしは同じものであり、鳥とわたしは同じものである。
 山とわたしは同じものであり、空とわたしは同じものであり、
 海とわたしは同じものである…」【図1】


【図1】美内すずえ『ガラスの仮面』38巻(白泉社)48-49頁

 仏教的な世界観でもあり、このセリフを読んだ時、天から言葉が降りて来たようなある種の宗教的な感銘に捉えられると同時に、これこそは作家・美内すずえの創作の根源でもあると感じた。そしてもちろん、主人公・北島マヤは、考えることなく本能的に、このセリフに表れたような「紅天女」の本質をつかみ取る。
 しかしマヤには、簡単には乗り越えられない大きな課題があった。役の本質を本能でつかみ取ることができても、身体訓練や技術が足りず、それを自分の肉体で表現することができない、という致命的な弱点である。
 一方、亜弓さんは、小さい頃からバレエや日舞の稽古を続けてきており、その鍛え抜かれ、考え抜かれた演技とテクニックによって、一瞬、人間ひとであることを忘れさせるような、優雅で美しい女神の姿をこの世に顕現させることができる。
 月影先生は言う。たとえマヤが一瞬だけ「神」を顕現できたことがあるとしても、「いぜんとして優位なのは亜弓さんの方」だと。
 また、こうも言う。「亜弓さんは役者としてこのセリフをとらえ、マヤは紅天女としてとらえている。ふたりの差がよく出ていること…」
 亜弓の演技は月影先生も驚くほど完成度が高い。姫川亜弓の演技はいつも「完璧」である。「完璧な美登利」「完璧なヘレン」──亜弓は常に「観客が期待する最高の役柄のイメージ」を体現することができる。完璧度100%。だが一方で、亜弓の演技は、完璧ではあっても120%ではない。観客が見たこともないもの、観客が思ってもいないイメージは彼女の演技からは出てこない。それに対し、いつだって100%を超えて観客の予想を裏切るのは北島マヤだ。だからこそ亜弓は、マヤの才能に嫉妬せずにはいられない。
 いったんは亜弓に大きく水をあけられる中で、マヤが「紅天女の存在を信じる」ことができた時、転機は訪れ、マヤの「技術」が以前より向上したわけではないのに、月影先生は言う。「優位なのはマヤの方です…!」
 なぜか? この物語の根幹にあるのが「紅天女を現代に蘇らせる」ことだからだ。
 梅の谷で月影千草自身が紅天女を演じる一幕の幻のような舞台のあと、月影千草は紅天女の能面を割る。「新しいものを創り出すためには古いものを壊さなければなりません」。
 たしかに亜弓の演技も完璧に近いかもしれない。だが「完璧な紅天女」とは、梅の谷で月影千草自身によって演じられたそれだろう。しかしそれを再現しても意味はない。マヤと亜弓の二人は、その「完璧」を超えなくてはならないのだ。
 この「現代」において。
 だからこそ、『ガラスの仮面』では、雑誌連載時からファッションが描きかえられ、連載当初の70年代にはあり得なかった携帯電話が使われるようになったのだ。それははっきりと意図してのことではなかったのかもしれないが、『紅天女』をある限られた時代、限られた世界のものにしたくない、という意志が強く感じられる。
 たとえば、マヤの側の試演チームの演出家・黒沼は速水真澄に向って言う。「あんた、自然界司る精霊や龍神や女神がいるなんて信じられるか?」「だがもし、少しでもそれを信じられれば…生きている世界が変わると思わないか…?」「あいつにはそれがれるかもしれないんだ…。観た人間が信じることのできる“本物”の紅天女が…」
 マヤたちの試演グループが、都会の雑踏の中で『紅天女』のセリフの稽古をするのも、“本物”の「紅天女」を現代に蘇らせるためだと考えればより納得がいく。西新宿にある都庁での稽古は象徴的だ。
 都庁にあるオブジェに向かってマヤは『紅天女』のセリフを発する。
 「天と地…火と水、光と闇、男と女、みえるものとみえぬもの…。それらはまったく対立したもののようにみえて実は一本の棒の端と端…。つながりあう両極」【図2】


【図2】美内すずえ『ガラスの仮面』45巻(白泉社)91頁

 マヤが「紅天女の存在を信じる」ことに開眼するのはこの直後だ。
 そして、マヤと亜弓が最終対決する『紅天女』試演の舞台に選ばれたのは、東京の「廃墟」である。マヤと亜弓は、梅の谷ではなくこの廃墟に、「紅天女」を顕現させなくてはならない。
 「優位なのはマヤの方です…!」しかし月影先生はこう続ける「いまのままでは亜弓さんはマヤには勝てないでしょう。いまのままではね…」
 だが亜弓もいやおうなく、「いまのまま」ではなくなる。稽古中、舞台のライトが倒れてきたことが原因で、亜弓の目が見えなくなってしまったのだ。

 ◆二つの渦~空海と最澄
 「見えなくなった」といっても完全な盲目ではない。ぼんやりと物の形がわかる程度。早急な手術が必要だが、『紅天女』の試演を控えている亜弓はそれを拒否する。代わりに亜弓は母親の姫川歌子と共に「見えなくともすべてを気配で感じ、見えないことを周囲に気づかせない」ための特訓を繰り返す。
 この頃から亜弓の演技もしだいに神がかったものになっていく。そしてこうした逆境にある「亜弓さん」への読者の支持は、ときにマヤを越えるほどになっていった。
 それはいったい、なぜなのだろうか?
 まず、乙部のりえの件を折り返し点として、マヤこそが天才で、姫川亜弓は努力の人、という位置づけに変わったことがある。たとえば亜弓のモノローグで、「もって生まれたあの子の恵まれた才能に、自分のふりしぼる汗の力が勝ったとき、わたしははじめて胸をはって自分の人生を生きられるのよ」。初期の設定とは真逆である。
 しかしそもそも、しだいに亜弓の位置づけが変わり、『ガラスの仮面』がこうした展開をとっていったことには、予期せぬ時代の要請があるように思う。
 ひとつは、一条ゆかり『プライド』を論じた時にも書いたことだが、新自由主義的な考え方が主流になっていくにつれ、かつての「金持ちvs.貧乏」の構図が逆転したことである。現在では「成功していること=努力したからだ」と見なす価値観が強くなってきている。そんな中では、亜弓さんへの支持率が上がってくるのは自然な流れだろう。そしてまた、『ガラスの仮面』の隠れた主題が「現代に紅天女を蘇らせること」だとすれば、亜弓さんの存在感が増していったこと自体、こうした時代の流れを敏感に感じ取ってのことだったのではないだろうか。
 そしてもう一つ、もっと大事な理由は、マヤと亜弓の関係性自体が、『紅天女』の主題と呼応しあったからではないのか。
 『紅天女』の、あの重要なセリフを思い出してみてほしい。
 「この世は相反する二つのもので成り立っておる…」「天と地…火と水、光と闇、男と女、みえるものとみえぬもの…。それらはまったく対立したもののようにみえて実は一本の棒の端と端…。つながりあう両極」
 これはもちろん、『紅天女』においては、阿古夜と一真の究極の恋を暗示するものではあるが、これはマヤと亜弓の関係をも暗示すると言えるのではないか。
 先ほど、亜弓の演技は「完璧」であると言った。そしてマヤの演技はその「完璧」を超えてくる、とも。しかし、最初に亜弓さんの示す「完璧」な演技があるからこそ、マヤはそれを超えられるのではないか。最初に亜弓さんが完璧を示し、マヤがそれを超え、それを見て亜弓さんがさらにそれを超え、それを見てマヤがさらにそれを超え――それこそが『紅天女』で示された「螺旋」そのものではないのか。
 この「螺旋」は、マヤと亜弓の力が同等であるからこそ生まれる。ぶつかり合う二つの渦、それこそはマヤと亜弓のことでもある。そしてこの二つの渦は対立し、敵対するばかりでなく、上へ上へと昇る螺旋なのだ。
 これほど同等な力を持つ二人というのは、少年誌や青年誌でもめったに見られない。たとえば<強敵と書いて「とも」と読む>という言葉の語源ともいわれる『北斗の拳』のラオウにせよ、最後はケンシロウに敗れ去っていく。「我が生涯に一片の悔いなし!!」という名言を残して。しかもラオウ以後も、ケンシロウの闘いは続くのだ。
 私の記憶の中では、マヤと亜弓に匹敵するような、最後まで対等なライバル関係というのは、実在の人物をモデルにした、おかざき真里『阿・吽』の空海と最澄くらいしか思い浮かばない。
 空海と最澄はともに仏教修得の高みにあり、お互いの考えていることはお互い同士にしかわからず、同時代のライバルでありながら、お互いの唯一の理解者であったと推測される。まさに亜弓さんのいう「北島マヤ…きっとあなたは他の誰よりもわたしの近くにいる…。きっとあなただけだわ。ほんとうのわたしを理解できるのは…。そして舞台の上のほんとうのあなたを理解できるのも、おそらくはわたしだけ…」という関係であっただろう。
 もちろん、破天荒な天才・空海がマヤ。努力の人・最澄が亜弓である。
 そうであるならば、ときに激しくぶつかり、お互いに磨き合う二つの渦――マヤと亜弓。そのどちらが最後に月影先生に選ばれるのかは、もはやどちらであってもいいように思えてくる。もちろん両方であってもいい。なぜならば、それでこそ『紅天女』は、その後もさらに形を変えながら成長し続けるだろうから。
 続刊が待たれる『ガラスの仮面』。私たちは廃墟に降り立つ「紅天女」が見たい。
 そして、ロシアとウクライナ、イスラエルとガザが激しくぶつかり合い、虐殺が繰り返される今こそ、私たちは現在に生きる『紅天女』を必要としている。

 ※本文中の台詞の引用は、読みやすさを考慮して句読点を適宜補っています。
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