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第7回

『陽の末裔』~スカーレットとメラニー2

[ 更新 ] 2024.03.25
 先回取り上げた大和和紀『ヨコハマ物語』よりも少し後の時代、大正から終戦までの時代の女性の生き方を、万里子と卯野と同じく、性格は対照的だが仲のよい咲久子と卯乃という二人の少女の成長と絆を通じて描いたのが、市川ジュン『の末裔』である。

 ◆『女工哀史』の時代
 咲久子と卯乃の故郷は、東北の貧しい村。咲久子の家であるりくちゅうなん家は、旧家といわれる大地主だったが、4人の姉の嫁入り支度と株投資の失敗で身代が傾き、今ではほとんどの土地が失われてしまった。そのため、南部家の末娘の咲久子も、仲よしの卯乃とともに、東京の紡績会社の女工募集に応じることにする。
 「いいとこ」に嫁いでいった姉たちも、しょせんは何の稼ぎもない“嫁ご”。それに対して「工場おなは、自分の腕でお金貯められるんだ」が咲久子の動機である。自分の力でお金を稼いで、かつての南部の土地をすべて買い戻す、というのが咲久子の野望なのだ。
 しかし、ときは『女工哀史』の時代。工場は綿わたぼこりが多く、今は少しましになったとはいえ、1日11~12時間労働で、昼夜交代で休みなく機械を動かす。【図1】


【図1】市川ジュン『陽の末裔』DX版1巻(SMART GATE Inc.)48頁

 女工たちは支度金と年季にしばられ、「文化的な寄宿舎」と聞いていたのに、寮では布団は敷きっぱなし。外出も基本的に許されず、手紙は出すものも来るものもすべて開封される、そんな環境である。そんななかで咲久子は、それはおかしい、納得できない、となんでもはっきりと口を出す。一方の卯乃は、学ぶことが好きで、全体をよく見る性格。
 そんな二人の性格の違いがくっきり表れる場面がある。工場の待遇をめぐって、寮で言い争いのようになった時に、卯乃が咲久子をたしなめ、こう言うのである。「おやめよ。おんなじ部屋の中でけんかするんではないよ。おんなじ仲間同士が」。それに対して咲久子が、こんな人たちをとても仲間だとは思えない、と返すと、卯乃は、「そんなことないよ。誰だってみんな新入しんいりだったんだし、誰だって先輩になるんだよ。でもまず、この会社で働いてるってことだけでもおんなじではないか。で、寄宿舎にいるのは、みんなおなだってことも」。すると咲久子は、「誰もおんなじだなんてどうすれば思えるの。わたしはわたしだよ。わたしのことしか思えない」。この会話は、二人の本質をよく表している。
 実際、咲久子はその後、資産家である工場長・高島の目を惹き、養女として引き取られることになる。工場長は言う、「なんでも望むままに暮らさせてあげよう」【図2】 。養女といいながら工場長がその実、咲久子を女性として見ており、理想的な未来の妻に育てあげようとしていることを承知の上での選択である。よこしまな動機が見えていても、咲久子にとって工場長は利用価値があるのだ。


【図2】市川ジュン『陽の末裔』DX版1巻(SMART GATE Inc.)136頁

 まず咲久子が要求したのは、なんでも望むままなら卯乃も一緒に、ということ。それに対して、まさか君は友達のために養女の話自体をなしにするつもりか、と問われても、「それはおどかしですか?」と咲久子は動じない。
 「卯乃ちゃんはべつです」と咲久子に言われた工場長は、それでは、と卯乃の支度金の前借をなしにし、特別に年季の枠も外すことを提案。咲久子はその条件を受け入れる。咲久子にとって、自分以外は卯乃だけが、損得を超えて大切な存在なのだ。
 工場の中では、工場長の娘となった咲久子が工場の待遇改善を申し出てくれるのではないかという声も出るが、世話係のおすまさんは、「そうは思わないね。これは悪口じゃないけど、あの子はすぐ忘れるよ、きっと」。
 すると意外なことに卯乃も、「…わたしもそう思います」。
 「咲久ちゃんは自分でもいってたでしょ。自分のことしか考えられないって。自分のじゃまになるものやひとなら、どんどんぶつかってゆくけど、いまはただ会社を抜け出せたって喜んでるばかりだと思う」。この観察眼! その通りである。
 おすまさんも二人をよく見ており、いつも突っかかってくる咲久子に対して「あんたはいい子だね、咲久子。わたしゃ好きだよ」。
 咲久子が「でもわたし、いつもおすまさんに……」と言いかけると、「だからさ。へんに気まわしたり、本当のことを知ろうともしないで噂だけたてたりなんてこと、絶対にしそうもないもの」。これも慧眼。やがて咲久子が入っていく上流階級はまさに「本当のことを知ろうともしないで噂だけたて」る人で溢れている世界である。
 おすまさんは卯乃に対しては、「ひ弱そうだけど、もしかしたら咲久子よりしっかり者かもしれないね。あんたはものごとを深く考える性質たちだろうね」。
 おすまさんは続ける。「ふたりとも染まるんじゃないよ、流されるんじゃないよ。いつかきっと…」――それ以上、おすまさんはいわなかった。【図3】


【図3】市川ジュン『陽の末裔』DX版1巻(SMART GATE Inc.)98頁

 この話は、おすまさんが、かつてはもっと工場内の労働条件が悪かったこと、そんななかで具合が悪い日に無理に出て、くらっとした瞬間、機械に腕をかまれて今では指が自由に動かないことを語った後につづく話である。『ヨコハマ物語』の麗花おばあさんもそうだが、年配の女性によるシスターフッド的な導きも確かにあることが、『陽の末裔』でも示唆されているのだ。

 ◆女性を縛るもの 
 やがて卯乃はおすまさんに誘われて、工場内の労働組合の活動に参加するようになる。「この5月には関東のいくつもの会がまとまって、『同盟会』ってなったんだよ。いろんな仕事の労働者が団結したのさ。わたしはそこの婦人部にはいってるんだよ」【図4】


【図4】市川ジュン『陽の末裔』DX版1巻(SMART GATE Inc.)126頁

 はじめて組合の活動に参加して、小さい事務所の中で「日本」や「世界」が語られているのを聞き、卯乃は、「外の世界が知りたい!」と強く思うようになる。その後、何度か通ううちに卯乃は、組合も男たちの組織であり、彼らでさえ、女は女だとしか思っておらず、女性を人間として見ていない、ということにも気づいていく。
 ひどい工場の現状に「わたしはもう黙っていられない」と思った卯乃は、工場長の息子・高島しんの友人の新聞記者に、工場の現状について新聞で書いてほしい、と頼もうとしたことをきっかけに、しんに勧められて自分で記事を書き、やがて新聞の婦人記者として活躍するようになる。
 同じころ、規則規則の女学校に反発して退学を申し出る咲久子。【図5】


【図5】市川ジュン『陽の末裔』DX版1巻(SMART GATE Inc.)186頁

 二人に共通するのは、女工と上流の女学校の違いはあれど、みんなが「心の奥で感じているかはしれないけれど、あきらめている、当たり前のことだと思いこんでしまっている」ことをないがしろにせず、はっきりと「No」をいう姿勢である。 それがおそらく、二人を深いところで結び付けているのだ。
 上記は卯乃のセリフだが、咲久子もまた、彼女の話を聞いた華族の令嬢が、「自分の気持ちのままに恋するとか愛するとかそして結婚するとか……そんな考え方や生き方があるなんて…知らなかったわ」というのに対し、「そうね、ほとんどの女性が思ってもいないのでしょうよ。あなただけではないわ。――でも、知ったからといって何もするわけではないんだわね、あなたたちは」と鋭く指摘する場面がある。

 おそらく、女性を縛っているものは二つある。
 一つは仕事や家庭などの社会的なシステム。もう一つは、自分自身を縛り、自覚のないままに周囲の目に合わせてしまう、女性自身の内なるくびき。
 咲久子と卯乃は、立場は天と地ほど違うが、それぞれの場で、既存のくびきから自由になり、自分の人生を生きるために闘っているのだ。
 その後、咲久子は利用価値によって次々と男を替え、社交界の華として光り輝く。(工場長の高島も、ついには息子のしんを廃嫡し、全財産を咲久子に相続させて、関東大震災で負った傷で死ぬことになる)
 一方の卯乃は、市井の職業婦人たちに光をあてた記事を書き、遊郭の取材もし、かつての女工仲間が遊郭に売られているのを発見して娼婦廃業の手伝いもする。そのうちに卯乃は、非合法な社会主義運動に身を投じている、工場長の息子・しんと再び出逢い、一緒に暮らすようになる。卯乃はしんに惹かれていたのだ。
 他方、男性遍歴を繰り返し、必要な時には爵位と財産を得るための結婚を積極的に選び取り、利用しては捨てていく咲久子にも、唯一、心が負けたと感じる男性がいた。それがのちに再婚する深草子爵。その深草子爵が咲久子に尋ねたことがある。
 「あなたには、友達はいないの?」
 それに対する咲久子の返事は、「ひとりだけ、いますわ」。
 「園遊会にもダンスにも、レースのドレスにも宝石にも、大災害にも景気にも、貧富や時間や遠さにも、どんなことにも関わりない、友達がひとりいますわ」【図6】


【図6】市川ジュン『陽の末裔』DX版1巻(SMART GATE Inc.)398頁

 のちに卯乃に会って深草子爵は、「ぼくはずっと前から、お会いする前からあなたを知っていますよ」。「――昔、パーティーの夜に、友達はいないのかと咲久子に尋ねたとき、何にもかえがたい、あらゆる障害を越えて、結ばれている友人がたったひとりだけいると、答えました。あなたでしょう?」。「…はい」と答えた卯乃に、深草子爵は「お互いにそう答えられるのはすばらしい」。
 じつはこの二つの発言の間に、卯乃はしんの子を妊娠し、妊娠をしんに告げに帰宅した時、しんは卯乃に会いに来た咲久子と数年ぶりに出逢い、咲久子の誘惑に乗って口づけをかわすところを卯乃に目撃されてしまう。走り出した卯乃は転倒し、流産。これをきっかけにしんとも別れることになる。にもかかわらず、二人の友情は変わらずに続く。
 さすがの咲久子もこれには罪悪感を感じており、しばらく卯乃と顔をあわせづらかったのだが、卯乃は、これもしんとの間の日々のずれをその都度解消していくことができなかった結果がこういう形で表れただけだ、と受け止めている【図7】。二人の友情は確かに、卯乃のこうした姿勢にも支えられているだろう。


【図7】市川ジュン『陽の末裔』2巻(SMART GATE Inc.)290頁

 しかし逆に、基本的には自分中心の咲久子の、卯乃に対する友情の強さが、印象的な形で垣間見られる場面もある。
 時は進んで治安維持法が発令され、今度は卯乃自身が特高に捕えられて拷問されている時、かつての特高の刑事で後に特高をやめて卯乃と結婚した卯乃の夫・野方が、思い余って咲久子に相談すると、咲久子は躊躇なく内務大臣に電話しようとするのだ。その数年前、ソビエトで行われた作家大会で小林多喜二虐殺を批判した土方ひじかた与志よし伯爵が、華族史上初めて爵位を剥奪されたにもかかわらず、である。
 野方が、これは深草家の破滅につながるかもしれないのだからよく考えて、と注意を促すと、「もちろんほかの誰のことで動きましょう。これがわたくしにとっての卯乃ちゃんの重みですわ」。「でもご心配なく。深草家もわたくしもこれくらいのことでは潰れません。……それだけのものは築きあげておりましてよ」
 野方は思う。「なんだか…わかったような気がする。彼女たちの友情――いまる生活環境など問題ではないんだ。互いの存在そのもの、その心の確かさそのものを認めあう――。それが彼女たちの――」

 ◆「自由」と「自立」
 咲久子はそれまでの人生の中で、ときにすべてを失いながらも、そのたびに再起し、自身の地位を築き上げてきた。
 たとえば華族たちの社交界で、元深草子爵夫人である和歌子夫人に、かつて女工だったことを暴露された時、咲久子は言う。「どうやってお調べになったかは存じませんけれど、苦もなかったでしょう。誰も隠したりしていませんもの!」。
 「ではお認めになるのね」と、和歌子夫人。自分が勝ったと確信し、「他の皆さま方への警告。外見の華に惑わされあそばすな」。さらに言い募ろうとする彼女に対し、咲久子はきっぱりとこう言ってのける。
 「その通りですわ。わたくしにとって地位も財産も生まれも育ちも、服や宝石と同じ外側のことだわ。わたくしの価値はわたくし自身だわ! 財産も地位もはいるだけ欲しいけれど、そんなものは道具でしかない。そんなものでわたくし自身は揺るがない。どこにいようと、何をしていようと、わたくしはわたくしだわ!」【図8】

 

【図8】市川ジュン『陽の末裔』2巻(SMART GATE Inc.)96頁

 このときのことについて後で咲久子は述懐する。あの仕打ちは「そのまま、あのかたの考える“貴婦人の破滅”なのだわね。わたくしならつぶれないけれど、あのかたは、だめね」
 その和歌子夫人を“潰す”ための情報をもらった見返りに、咲久子は画家の京也にヌードを描かせることを承諾する。その絵が発表された時、社交界は騒然となる。当時、桜町伯爵家の長男と結婚していた咲久子は(のちに当主が死に、夫が跡を継いで名実ともに桜町伯爵夫人となる)、姑から「恥ずべきことだ」と問い詰められ、「それは少し違いますわ、おかあさま。咲久子の自尊心は、咲久子の存在と共にあるのですわ。“貴婦人として恥ずかしくない”などという次元のものではなく、世間で、上流社会で、曖昧に思われているようなものでもなく、咲久子が決めるのです」。
 世間はそれでは通らない、という姑に対し、「なら、世間の認識を変えてしまえばよろしいんだわ。『秀れた芸術家にその肌を描きたいと望まれた貴婦人は名誉である』わたくしがそれを証明してさしあげましょう」。
 咲久子の自尊心は筋金入りである。“女工あがり”と最初はたかをくくっていた使用人たちを一瞬で「生まれながらのお嬢さま」と認めさせ、どんな“最高の貴婦人”にあっても臆することも気圧けおされることもない。咲久子は常に咲久子であり、そのことに価値がある、からである。
 タイプは違うが、じつは卯乃も同様の気質を持っていることが、物語の終盤で咲久子によって指摘される。「卯乃ちゃん、あなたも、男や子供によって変わって? しんにいさまも、隼人さんも、あなたに新しい空気を送りこんだかはしれないけど、あなた、彼らのために生きた? 子供のために、あなた、生きかたを変えた!?」
 咲久子はさらに続ける。男も子供も、誰も私の生き方を左右できない。
 「わたしは南部咲久子以外の誰でもないわ!!」
 かつてウーマンリブの立役者だった田中美津がこう言ったのを聞いたことがある。「真の自立というのは、自分以外の誰かになりたいと思わないことです」
 そういう意味で、咲久子も卯乃もまさに疑いなく、「元始、女性は実に太陽であった」という言葉で始まる『青鞜』の後継者=太陽の娘たち、すなわち「陽の末裔」なのである。
 卯乃は言う。「どちらも大事だわ。大きく盛り上がって翔ぶのも。低く地に足つけて歩き続けるのも。どちらも、女よ」。まさに卯乃と咲久子のように。
 しかしどちらの場合も忘れてはならないのは、「自由」と「自立」。
 戦後、卯乃たちの悲願だった婦人参政権も認められ、女性運動が盛り上がる中で、女性運動の仲間たちが咲久子を批判する。「惹かれるけど、でも、あの生き方は、女をおとしめてたわ」。
 それに対して珍しく卯乃が語気を荒げて反対する。
 「わかってないわね! どの女が女として彼女を糾弾できるの!? 彼女は生まれながらの太陽だったわ! 南部咲久子こそが、わたしたちの誰よりも、早くから太陽だったのよ!!」【図9】


【図9】市川ジュン『陽の末裔』3巻(SMART GATE Inc.)636頁

 説明するまでもないだろう。咲久子の生き方は、すべてが自分自身の自由な選択であり、他者を利用することはあっても、自分の人生に責任を持ち、自分以外の何者にもなろうとしない、「自由」と「自立」の象徴のような人生であった。

 ◆スカーレットとメラニー
 南部咲久子の生き方が『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラのイメージと重なることには、おそらく異論はないだろう。それは咲久子自身のイメージと共に、彼女が唯一「心が負けた」と感じる男性・深草子爵が、『風と共に去りぬ』のレット・バトラーのイメージと重なることも大きい。
 これは、大和和紀『ヨコハマ物語』の万里子のイメージがスカーレット・オハラのイメージと重なってくる理由とも共通している。
 他にも、この2作と『風と共に去りぬ』との間には共通点がある。
 『ヨコハマ物語』の万里子が「横浜を離れられない」という理由でアメリカ行きを断念した時、そのことを夫となる竜助は看破していたということは前に述べた。同じことを麗華おばあさまも見抜いていた。つまり万里子にとっての横浜は、スカーレットにとってのタラなのである。
 そして、咲久子の最初の原動力もまた、「失われた南部の土地を、自分が全部買い戻す」というところにあった。咲久子のルーツもまた、陸中・南部の土地にあった。その後、戦争を経て、咲久子の屋敷は炎に包まれ、空襲の被害に加えて戦後の財閥解体もあって大半の資産を失う。咲久子が買い戻した南部の土地もまた、農地解放の対象となり、小作人たちに下げ渡されたことであろう。しかしその、時代が変わるいまのきわにあって咲久子は、屋敷で唯一焼け残った大広間で華族最後の大舞踏会を催す。さながら『風と共に去りぬ』が、南北戦争で風と共に去っていった、今はなきアメリカ南部の文化の姿をひとときとどめようとしたように、咲久子は失われた戦前の文化のきらめきを、ひとときだけ蘇らせようとしたのである。
 海難事故で深草子爵を失い、日本が本格的な戦争に向かう時、咲久子は自分に向かって宣言する。
 「何があっても、どんなことをしてでも、生き抜いて前へ進んでやる」。
 このセリフにスカーレット・オハラのイメージを重ねるのはたやすい。
 このように、大和和紀『ヨコハマ物語』の万里子も、市川ジュン『陽の末裔』の咲久子も、『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラを原型とすることは、ほぼ確実なように思える。
 『風と共に去りぬ』の映画が世界中で大ヒットしたのは、1950年代の初めだが、私が中学生の頃、70年代半ばくらいに、この映画がまたリバイバルされて話題になった記憶がある。『ヨコハマ物語』が1981年、『陽の末裔』が1985年の連載開始だから、こうしたことも影響があるかもしれない。だがやはり、時代の激変期を舞台にバイタリティに溢れる女性を描こうとすれば、やはりスカーレット・オハラが原型となってくるということなのだろう。しかし、それと同時に重要だと思われるのが、性格が天と地ほども違うスカーレットとメラニーの間の、ライバル関係をも含んだ、微妙で深い関係性が、タイプの違う女性二人のライバル関係と友情を描こうとするときに大きな参照項となったのではないか、という可能性である。
 ご存じの通り、スカーレットはものすごく男性にもてるが、彼女が好きなのはただ一人、幼馴染で色の白い学究肌のアシュレーである。だがアシュレーは、芯は強いが地味で穏やかな性格の従妹メラニーと結婚してしまう。そのショックで好きでもない男性(メラニーの兄)のプロポーズを受け、自分も結婚するスカーレット。そこへ南北戦争が勃発し、男たちは戦争に行き、スカーレットの最初の夫はそこで戦死してしまう。やがて北軍の侵攻は南部に迫り、アトランタは炎に包まれる。
 そうしたなかで産気づくメラニーを最後まで守り通すのがスカーレットである。それはべつにスカーレットがメラニーに友情を感じているからではなく、愛するアシュレーに頼まれたからにはその妻と子供を守らなければならない、と思ったからにすぎない。しかし戦火のアトランタを脱出し故郷のタラに戻っても、スカーレットの家族とメラニーとその子供は、最後まで、まるで運命共同体のような暮らしを続けていく。
 ではメラニーは、ただスカーレットに守られる存在かというと、そうではない。スカーレットは持ち前の激しい気性と行動力で、常に周りから激しい批判を浴びる。しかしそのスカーレットを共同体の非難から守るのが、メラニーの聡明さと徳なのである。スカーレットはメラニーに特に関心はなく、アシュレーの妻だから大事にしているだけだが(少なくとも当初のスカーレットの意識としてはそう思っている)、メラニーの方はスカーレットにかなりの好意を持っていることは間違いない。スカーレットの良さは、女性ではメラニーだけが理解している、と言っても過言ではないくらいだ。だからこそメラニーは、スカーレットが非難されるたびにその擁護にたち、周囲の人は「あのメラニーがそういうなら……」と引き下がるのである。
 『ヨコハマ物語』の卯野も、『陽の末裔』の卯乃も(漢字は違うが同じ名前だ)、万里子や咲久子がスカーレットと重なるほどには、メラニーと性格が似ているわけではない。だが一見地味だが芯はしっかりしていて、万里子や咲久子の生き方を高く評価し、支えようとしている点では共通している。そしてまた、それぞれの作品で主人公二人の好意の対象となる森太郎も、しんも(ここでも名前が共通している)、結局結ばれたのは、スカーレットたる万里子や咲久子ではなく、卯野と卯乃の方であるということでも共通する(名前の類似から考えると、もしかすると『陽の末裔』は、『ヨコハマ物語』へのオマージュとして描かれた可能性もある)。
 圧倒的な行動力で道を拓いていく女性の傍らには、その女性に惹かれ、高く評価する、一見地味だが聡明でしっかりしたもう一人の女性がいる。
 男性同士の関係には、おそらくホームズとワトソンを原型とする「一癖ある天才と、一見凡人の友人」の黄金のペアパターンが存在する。マンガでもたとえば、山岸凉子『日出処の天使』のうまやどの皇子おうじえみ、岡野玲子『陰陽師』(原作:夢枕獏)のべの晴明せいめいみなもとの博雅ひろまさ 、吉田秋生『BANANA FISH』のアッシュと英二、などがその典型だ。
 スカーレットとメラニー。女性二人のライバルとシスターフッドを考える上では、この二人の関係性は、重要な原型として改めて検討されなければならないのではないだろうか。

 ※本文中の台詞の引用は、読みやすさを考慮して句読点を適宜補っています。
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