第5回
あの店の秘密は意外なところに
[ 更新 ] 2024.02.08
内装をDIYしたという店は駅から離れており、ペンキで塗った壁や酒の棚など手作り感が満載だ。
メニューはなんと200円から。すべて自家製で、セロリの浅漬や酸っぱいトマトのマリネなど、「200円」「300円」コーナーの黒板メニューが季節によって変化する。
デミグラスソースは36時間かけて煮込み、パスタはもちろん、ナストマトソースチーズ焼きやチリビーンズ、ラザニア、ミートボール、ミラノ風カツレツなど多様な料理に展開。冷凍食材を使っているなと思うことが一度もない。手抜きのなさと、価格のアンバランスさが、いまふうに言うと、バグッている。
11年地元民に愛され続ける、とびきりおいしい店なのである。
たったひとりでなんであんなに早く、おいしく作れるんだろう。自宅で真似してみるが、なにひとつ味が似ない。彼が数分で作るオムレツでさえも。同じ材料なのになあと、私の盗み見の頻度は増すいっぽう。小さな店なので、カウンターの向こうは厨房で、目の前で料理する姿を見られるのだ。
しかし2年半かけて、少しずつ彼の料理の秘密の断片が見え始めた。
決定的に私と違うのは──プロと比べるのはそもそも失礼だが──バターとにんにくの量を惜しまぬこと。オムレツも「え?」と驚くほど大きなバターの塊を使う。
どうやったらこんなにおいしくできるんですかと聞くと、いつも笑いながら「お客さまが引くほどバターや生クリームを使ってるだけです」と答える。
そうなんだよなあ。貧乏性の私は、バターをついケチケチ使ってしまう。思いきりよくいけない。ハレの日の料理なら踏ん切りもつくけれど、日々のオムレツとなると、中さじ1杯でも勇気がいる。バターナイフで薄くひとすくい程度だ。
似た話を、料理雑誌の取材先でも聞いた。
フレンチ惣菜と自然派ワインで有名な立ち飲みデリの店主が、料理の秘訣は「スパイスを思いきりよく使うことだ」と語っていた。
そうそうそうと、膝を打った。
加減がわからず、失敗するのが怖いから、オレガノやナツメグ、チリパウダーなんかを私はついおそるおそる少なめに振る。多すぎたとて、
一度や二度失敗したとて、自家消費するだけなのだからそう困りもしないのに。つくづく自分は気が小さい。
前述のバルは、にんにくも思いきりがいい。にんにくのチーズ焼きという、スキレットでチーズをからめて香ばしく焼き上げた隠れメニューがあるくらいだ。
先日は、顔に疲労の色がにじむサラリーマンが「あー、今日はやっとにんにくのチーズ焼き頼めるぞー」と、本当に嬉しそうにオーダーしていた。にんにくたっぷりが、彼のオンとオフの切替アイテム、自分をケアするお助けメニューなのだろう。
ガーリックライスもステーキも、ふんだんに使って香りをきかせる。
バターは、香りや風味を生む食材。にんにくもスパイスもしかり。
おいしい料理を作れる人というのは、主役の食材以上に、じつは脇役使いに長けた人のことを言うのではないか。
生クリームもまた、食材の脇役である。そこできっちり脂肪分の高い生クリームを使うと、同じ食材でも風味や味わいに雲泥の差が出る。
私は、オムレツなぞちょっとした料理は牛乳で済ますことが多いのでその差がよくわかる。
飲食店なら当たり前ではと思うかもしれないが、なにしろこの店はオムレツが400円なのだ。その価格を実現するために、彼のような脇役食材の選択を誰もができるかというと疑問である。
その代わり、野菜は安くて鮮度のいい店を巡って価格のバランスを取っていると聞いた。
私ははりきってハレの日の料理をするときでも脇役にそれほど気を使わないので、新鮮に感じる。
脇役がいい仕事をすると、舞台も締まる。作品全体の精度が上がる。
とすればあの店は、料理という名のパフォーマンスを見せる小劇場のようなものか。
なんだか言い過ぎな気もするが、なにせ小さな空間でシェフはひとり。私が綴る店はいつもそうで心苦しいのだが、今回も店名を出せずすみません。