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第1回

おいしいサラダが作れない

[ 更新 ] 2023.12.14
 自分の作るサラダがおいしいなと思えたのは50を過ぎてからだ。
 それまで、旅先の道の駅で絶対おいしいという評判のご当地調味料を買ってみたり、カルディで人気のドレッシングや、著名な料理家が勧める塩などを意気込んで使ってみたりしたのだが、どうもおいしくならない。サラダドライヤーでちゃんと水切りをしている。野菜は20年来取り寄せている有機農園の宅配だ。
 なのに、ぱっとしない。野菜はすこぶるおいしい。しかし、野菜以上の実力が皿に表れないのである。

 私の理想は、カフェやビストロのランチに出てくる、なんでもない付け合わせのグリーンサラダだ。手作りの酢と塩とオイルのフレンチドレッシングがかかった、シンプルなあれ。おいしいなあ、もうちょっと大盛りで食べたいもんだなあと思う頃にメインがやってきて、サラダの感激が他の料理に上書きされ、忘れられてしまうあれ。
 よし、今日こそはとネットでググッたフレンチドレッシングの分量通りに作ってみても、絶対ああはならない。ハーブ塩やフレーバーオイルを足したり、しまいにはポン酢やマスタードなどを加えたりしてよくわからないことになる。

 よしイケると、やっと自らに太鼓判を押せるようになったのにはわけがある。
 我が家に料理家が遊びに来ることになったのだ。数人の集まりで彼女が希望の料理を作ってくれるという。そんな夢みたいなことは二度とないと、何日も前から、何をリクエストしようか頭の中がお祭り状態に。考えに考えた結果が、グリーンサラダだった。はたして、その日から私のサラダは、自分史上最高の味にさま変わりしたのである。

 ちなみに、みなは春巻きだ、だし巻き卵だとグループラインで希望を出していた。私は迷った末、誰にも言っていない自分のサラダのおいしくなさを克服するまたとないチャンスだと考えた。そこでおそるおそる、コメントを入れた。
〈料理家さんのグリーンサラダを食べてみたいです。なにをどうやってもうまくいかないので、なにかコツがあるのだと思う。作るときからそばで見せてもらえませんか〉

 お安い御用とのことで、サラダ菜を持参した彼女が我が家で全工程を披露してくれた。フランスのレストランで修行をしたとき、毎日作らされたという。
「コツはね、親指でこうやってちぎること。親指の腹は、ちょうど口に入る食べやすい大きさなの。こうすると、それだけでふわふわっとエアリーになるんだよ」
 洗って水を切ったサラダ菜1枚1枚に親指をあて、ていねいに一口サイズにちぎる。あとはうちにある、いつもの塩と胡椒と酢とオリーブオイルでドレッシングを。

 プロとの違いは、ちぎり方だったのかと、目から鱗が落ちる思いだった。どんな高級なオリーブオイルやおいしい塩を使っているかと思いきや、下ごしらえに極意がひそんでいたとは。
 私は恥ずかしながらいつも、サラダ菜やレタスを何枚かわしづかみにし、一緒に適当にちぎっていた。面倒なときは包丁でザクザク切ることも。

 一口サイズにすると、ドレッシングがまんべんなくなじみ、本当にふわっと口当たりがいい。こいつがおいしさの秘密を握っていたのかあと我が無骨な親指をまじまじと眺める。
 半世紀以上生きてきたけれど、シンプルなグリーンサラダをおいしく作るコツは誰も教えてくれなかったし、どこにも載っていなかったように思う。ドレッシングの配合やおいしい野菜の選び方は載っていても。

 やっとサラダがおいしく作れるようになったというのに、息子は結婚してしまい、娘も社会人になって忙しく、ろくに卓を囲む機会もない。なんだよ、寂しいじゃないかと出番が減り食器棚の上に追いやられたサラダボウルを見上げる。夫婦ふたりではそんなに食べられない。おまけに夫は、元来生野菜を喜ばない。マリネやピクルスも、申し訳程度に箸をつける程度だ。いまだに中学生のように肉がいちばんのごちそうなのである。

 30代で子育てが始まり、必要にせまられ料理を始めた頃、まさかグリーンサラダを習得するのに20年もかかると思っていなかった。前述のごとく、自分のサラダがまずいとは誰にも言えずにいた。サラダのことは、ランチの付け合わせのようにすぐ忘れてしまうので、作る段になってあーおいしくできないんだよなあと思い出して小さくへこむ。そして忘れるの繰り返しでここまで来てしまった。

 人生とともに食も料理観も変わる。
 15年ほど前から毎年漬けている梅干しを、今夏は干しそびれ、塩漬けにしたまま冬になってしまった。慣れたもの、と高をくくっていると基本的なところで失敗することがある。人生と同じだなと思う。

 ところで先日、息子夫婦が遊びに来たのでトマトサラダを作った。食べながら、「そうそう、いつも作るこれ、どうやって作るの」と息子に聞かれた。
「湯むきしたミニトマトを、オリーブオイルとポン酢で割ったドレッシングに30分くらい漬けておくだけだよ」
 ポン酢だったかー、と息子は妻とほほえみあった。ふたりで作り方が話題になっていたらしい。だめだだめだと思っていたけれど、あれ? 私の超簡単サラダもそんなに悪くないかもしれないぞと気持ちが新しくなった。私も味覚も料理の腕も、代謝している。

 そんな、年を経てやっとわかった自分の味の見つけかたや取材で食べた忘れられないひと皿、働く女の嵐のような台所をありのままに綴っていきたい。「東京の台所」という人様の台所を訪ね歩くライフワークのような取材を続けて丸11年になる。探偵のように、便利な道具や作り置きの時短料理や台所の間取りを見まくっているのに、じつは自分の台所や食というお題で書くのは初めてで、いい感じに震えている。
 出がらしの番茶でも飲みながら、気楽にお付き合いいただければと思う。
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