第10回
いつまでも楽にならない労働の話
[ 更新 ] 2023.08.23
制度上、その結果に対する異議申し立てをするのは可能だが、一度却下された判断を覆すことは難しく、それならばもう一度申請そのものを新たにした方がいいだろうという結論に達した。日本の精神病院は患者の身体拘束や、入院期間の長さなどの問題がいくらもあるわけだけれど、この医師の診断書と年金制度の関係にも私は疑問を感じている。心身の調子は相変わらず(何度も言うが天気や気圧の影響を受けまくりながら)良くなったり悪くなったりしているにもかかわらず、障害の等級が下がったことがいまだに腑に落ちない。
私の経済状態も当然じわじわと逼迫していき、とうとう先月は貯金を含む全財産が四千円しかない時があった。その翌日には知人が回してくれた仕事のアルバイト代が振り込まれたのでなんとかサバイブできたものの、地に足つかない生活を送ること数十年の私もさすがにどうしたものかと考えた。
貧乏自慢みたいな話になってしまったが、「生活保護ではダメなの?」と思う方もおられるだろう。だが、今の私は生活保護の受給条件となる世帯収入を微妙に上回っているのである。しかしフリーランスとは「真に安定していないもの」という二つ名をつけてあげたいほどに、少なくとも私の場合はお金の余裕がある時期がずーっと続くわけでもなく、枯渇する状況がずーっと続くわけでもない。おかげで金銭感覚が変なことになってしまった。
派遣なり非正規社員として勤めている場合は、低収入であっても「月々に定期的に収入がある」ということを念頭に置いて生活を組み立てることができる。けれども原稿料や講演料などのお金はいつ入ってくるのかわからない。「毎月、◯◯日には必ずお金が入る」ということはフリーランスではあり得ない。私はまだ障害年金が定期的に入るだけマシ(障害年金がマシというのも微妙ではある)だが、それでもフリーランスの仕事が中心になってからは、お金は「働いたら定期的に入ってくるもの」から「(仕事をし終えて)忘れた頃に突然降ってくるもの」という感覚になってしまった。そんな中でお金を支払いたい時に手元にないという失敗をするなど金銭管理の難しさをつくづく感じている。しかし新自由主義の世界では「金融リテラシー」という能力が奨励されている。家計のやりくりがうまくいかない、貧しいということは金融リテラシーが足りない人の個人的な能力の問題として認識され、社会的な背景や構造はスルーされるのだ。
このような経験をして、はたと昔の文学者とか芸術家が不摂生に走ったり、精神的に不安定になったり、病を得てしまう理由がわかる気がした。後世の人はその事実を「天才の悲劇」とか「芸術的な人は凡人とは感性が違うから」という言葉で解釈してしまいがちだ。しかし精神が不安定だからこそ安定した生活ができないのか、安定した生活ができないからこそ精神が不安定になってしまうのかは鶏と卵のような関係でどちらが先かはわからないけれど、この負のスパイラルに巻き込まれる文学者とか芸術家は多く存在したに違いない。私の場合、たしかにフルタイムの労働者として働くことは厳しいが、かといって不安定な収入に対応できる金銭管理能力に長けているかというと心許なく、あわあわと動揺しながら何とか今を生きているのである。
さらにフリーランスは労働法からはじかれるのみならず、福祉制度の中でもイレギュラーな扱いになっていることを痛感させられる。フリーランスや自営業者(第一号被保険者)は基本的に国民年金に加入することになるが、会社に雇用されている人(第二号被保険者)が加入する厚生年金に比べると負担が大きく、毎月の保険料を支払えない人も多いはずだ(ちなみに保険料が支払えない場合は免除申請をお勧めしたい。年金を支払わず、免除申請をしていないと障害年金制度を利用できない場合もあるからだ)。生活保護も無収入、あるいは低収入の状態が継続されることが念頭にあると思われる。収入がほとんどない月があるかと思えば、まとまって入る月もある状態で生活保護を受けると、生活保護の受給のタイミングによっては、本来の額よりも多くもらってしまうこともあり「過払金」が発生する。実は私は現在その「過払金」を返済する義務を負ってもいる。
……前置きが長くなってしまった。この連載で「働けない」自分の状況や、働けない、あるいは働いているとみなされない営みについて取り上げてきたが、不労所得など望み得ない身としてアルバイトを探すしかないという結論に至ったのである。
とはいえ絶対フルタイムは無理だ。そうして探したアルバイトの一つは、某幼稚園の庭の掃除のお仕事である。こちらは週3日朝の2時間だけ、そのうえ自宅から徒歩で通勤可能。しかも基本一人で行う仕事で、これなら何とか続けられそうだと思って決めた。
しかしこのアルバイトだけだとまだまだ金欠状態から脱することができないため、先月1ヶ月間だけ週3日朝9時から5時までのデータ入力の仕事を入れた。さらに知人から単発のアルバイトを回してもらいもした。
「働けない」と言いながら、金欠状態を脱するために急に物書き、掃除のバイト、データ入力のバイト、友人が回してくれた単発の仕事と、ダブルワークどころかクワドルプル(quadruple:4倍の意味)ワークになってしまっていた。急に極端なことになったが、それでも何とかこなさなければお金がない。早寝早起き生活になったものの、だからといって私の「働けなさ」がそうそう変わることはなかった。というのも7月の終わりの週に、なんと今さらながらのコロナにかかってしまい、結局5日間家で静養する羽目になったのである。幸い、半月ほど経った今では特に後遺症もなく、普段の生活に戻っているが、改めて私はフルタイムで働くような体力がないことを実感した次第である。しかし働いて定期的に収入があるのは気持ちの安定につながる部分もある。そうなるとやっぱり生存権として求めるべきは安定した生活、生活費の補償であり、竹中平蔵の言うような他の福祉を切り捨てた上でのベーシック・インカムではなく、現在の福利厚生のレベルを下げることなく、また労働者の賃金を下げる理由などに使われることもないベーシック・インカムの導入の必要性を改めて感じるのだ。
ともあれ、2023年7月はかつてなく私が働いていた時期なのだが、久しぶりに派遣社員としてデータ入力の仕事をしていくつか驚いたことがある。まず、なぜこれほど仕事が機械化とかIT化されていても、人間の仕事は減らないのかという点である。
今回の派遣の仕事は非常にシステム化されており、これまで経験した仕事と比べても、私が行わなければならない入力作業そのものはごくわずかだった。だが、それで仕事が簡単になったかといえばとんでもない。例えば、ちゃんとQRコードやバーコードによって必要な情報が入力されているかどうかのチェックは人間が手作業でやらなければいけない。さらに細かい話になるが、封筒を切る作業は機械でやることはできても、その封筒を機械がちゃんとカットできるようにセットするのは人間だ。そして封筒から中身を出して必要な書類がきちんと揃っているかどうかをチェックするのもまた人間である。それこそAIが責任を取ることはできないのだから、結局「チェック」や「ジャッジ」という作業はどこまでも人間がやらざるを得ないのではないだろうか。
こんなことを書くと、今AIの導入で仕事が失われそうという話が出ているのではないか、と考える人もいるだろう。もちろん、機械の導入や業態の変容などでなくなった仕事は過去を通していくらでもある。
例えば、私の小さい頃はギリギリ納豆売りや豆腐売りをしている人たちがいた。「納豆売り」といっても今の若い人たちはピンとこないだろうが、スーパーの台頭によりこれらの仕事は消えていった。あるいは、児童文学者の新見南吉の作品に「おじいさんのランプ」という童話がある。明治期にランプが使われていた時代から電気を使用する時代へと移行する際に、ランプ屋の仕事がなくなっていくことを描いた話だが、確かに時代によってなくなる仕事はある。だが、納豆や豆腐を食べたい人はいるし、人が明かりを求める事実は変わらない。それを提供する仕事が減りはしない。だが問題はその作業の工程で必要とされる能力や技術だ。それこそ表計算ソフトやワープロソフトのない時代は、物差しを使って表を書いたりしたし、数字も手書きで書いていたし、文章もおおよそ手書きだった。私の親世代は電卓のない時代で銀行でも「そろばん」で計算をしていた。第二次世界大戦前とかではなく戦後20年は経ったくらいの頃である。
それでも物差しで表を書いていた頃に比べれば時間もかからず手間もかからなくなったが、表を作ったり計算したりすることが求められることは変わらない。ただ「事務」として求められる技術が変わった。「うまく物差しを使って表を作れる技術を持つ人間」は不要となり、代わりにパソコンを操る技術を持つ人間が必要となった。また、そこで書かれている内容が正しいかどうか、そこに「責任」を持って「判断」を下すのは最後まで人間でしかあり得ない。
だから脚本などを作るにあたって一番面白く、かつ重要なプロットを考えたり、展開を考えるといった作業はAIがやり、その表現が妥当かどうか、数字などの間違いがないかなどのチェックを人間が行うといった主客転倒の時代にますます発展していきそうなのが私にとっては不安である。AIによって、さっさと一つの文章なり物語ができてしまうのであれば、求められる原稿の量も増えてくる可能性がある。そのような大量の文章が差別的な表現を発するといった「事故」を起こしたとすれば、結局人間が人力でもう一度チェックする必要が出てくる。そうなったら結局人間の負担は変わらないばかりか、「チェック」というつまらないことばかりを人間が行うハメになる。中間管理職あたりのちょっと偉い人が定めたチェックリストに沿って、低賃金で雇われた派遣や非正規労働者が大量のチェック作業を請け負う、という図まで想像してしまう。便利なものを作っても、少なくとも働く人間の立場からはその便利さを享受できないのが今の社会ではないか。
また、昔求められていた仕事量と変わらないままで技術が発展すれば仕事の量は減るはずだ。だが企業では右肩上がりの利潤が求められる。機械やネットが発展していくなかで、処理できる数の多さと速さを求められる。そうなったらいかに便利な機械が生まれても、そのために「より多く、より早く」を求められるだけでいつまで経っても仕事にゆとりなど生まれるわけがない。
例えば私はパソコンのOSでいえば、Windows XPをとてもいいと感じていた。特に不便を感じもしなかったし、安定した動きだったので別にこのままバージョンを変える必要はないと思っていた。しかしそんな私の思いとは裏腹に、OSは常に「バージョンアップ」という名のもとで発展し続けるし、古いバージョンは使い続けたくても、時間が経てば経つほどアプリケーションが使えなくなってきて諦めざるを得ない。しかもバージョンアップというけれど本当により良いものなのかどうかは私のようなパソコンの素人では見当がつかない。メールでも十分要件は伝えられるのに、SNSで要件を伝えることも今や普通だ。便利さを追求していく中でこそ、労働は過酷になっている現状。私たちの生活そのものは便利だけど、労働は凄まじくキツいという状況は、豊かな生活とは言い得ないはずだ。
私自身はネットを見るのは好きだし、動画などを見るのも好きだ。でも消費者としては快適に生きていきやすいが、生産者やサービス提供の立場になると過酷になってしまうとしたら、それは生活しやすい状況なのだろうかと考え込んでしまう。
さらには労働と資源の関係について考えれば、環境問題を考えてビニール袋は有料化されたが、その代わりにエコバッグがいっぱい売られ出している。現代社会の「労働」(何かを販売するというのも労働だ)はかなりの資源を消費する前提で成立していると思えてならない。
少なくとも技術の進歩、機械の発展によってだけでは人間の生活は楽にはなっていない。それがこの100年くらいではっきりしたと思うが、そういう意見の人にはそれほど会うことがない。以前の連載(第9回)でも触れたチャップリンの『モダン・タイムス』で技術の発展(という言い方さえ古びたものだ)によって人間が楽になるどころか、むしろ機械に仕える奴隷のようになっているというのは労働問題を考えるうえで重要な視点だと私は思っているが、その指摘はもはや社会の常識となってしまっている。特に日本の場合、システム化されていけばいくほど面倒臭く、ややこしいものになることを、コロナ禍のマイナンバーを用いた給付金申請で感じた人も多いはずだ。そこには機械技術の発展の限界という話だけではなく、日本の行政の問題など複数の問題が折り重なっているだろう。日本の場合は個人を特定する枠組みとして、戸籍があって、さらに住民票があって、そしてマイナンバーがあって、さらに年金番号があってとなると、役所や企業で取り扱わなければならない数字や書類が増えるばかりで、そりゃあ情報漏洩や記入漏れといった事故やミスが多発すると思ってしまう。
いつまでも楽にならない労働。楽になってはいけないと思い込まされている労働。それこそかつてのアメリカとの戦争で空襲対策として竹槍訓練を行い、「一億総玉砕」というお題目で勝てない相手に体当たりして死ぬことを良しとする価値観、つまりは無意味であっても「努力」し、自己犠牲的で、集団に染まって思考停止することを良しとする価値観がいまなお「労働」の名の下にはびこっているように思えてならないのだ。
ちなみに私は7月からスタートした掃除のバイトだけは少し気に入っている。シンプルだし、環境破壊もしないし、何かを支えこそすれ貶めることはない。何より週3日の2時間だけという点が大きいのだが、当然、この仕事だけでは生きていけない。その事実を噛み締めながら今日も労働についてあれこれ考えている。