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第9回

「お天気屋さん」として生きている

[ 更新 ] 2023.07.20
 前回、あまりに調子が悪く、連載を連載を一度休載させてもらった。編集の方々のご配慮と優しさに感謝しつつ「『働けない』をとことん考えてみた」というテーマの連載で、身体も頭も動かず書けなく(働けなく)なり休むという、まさに有言実行の事態となってしまった。
 資本主義や家父長制、あるいはジェンダー規範や能力主義に否定的な思想家や研究者が、実際は、わりと既存のシステムの中で特権的であったり、あるいはジェンダー規範からそれほど外れることもなく、能力もあるという場合も多い。それが悪いと言いたいわけではない。個人において思想と実践が完全に重なりあうなんてことは残念ながらそうそうありえない。だからこそ、さまざまな立場の人とともにいろいろなやり方で社会を変えるための運動が必要なのだ。
 そもそも私だって有言不実行なことはたくさんある。それこそいま紙の健康保険証廃止で物議を醸しているマイナンバーカードに私は反対だが、確定申告の青色申告で最大65万円の控除を受けるために取得してしまっていた。しかもその後障害者になってしまい、自動的に基礎控除以外でも税額控除対象になったので、結局なんのために取得したのかわからない。直後にコロナパンデミックが起こり、給付金の振り込みは比較的早く済んだが、先日住民票の写しが必要になり「それならマイナンバーカードを使ってあげようじゃないか」とコンビニに行ったら、私の住んでいる自治体によるメンテナンスのため、しばらくコンビニでは発行できないということが判明。便利にさえもなっていない! といろんな意味でやはり問題のあるシロモノであることを実感したが、そんなものを持っている私が有言不実行をそれほど笑える立場にはない。
 ……と大幅に話がズレた。話を戻すが、この「働けない/働かない」という事態については折々愚直にも実践し続けてしまう自らのありようは、もはや与えられし恵みなのか。この手の有言実行はもはや努力とか意志の領域ではないと思うが、みなさまどう思われるだろうか。「資本主義を壊してやるぞーー!」とがんばっているタイプの人は往々にしてそのがんばりにより本人の意図に反してそれなりに社会に溶け込めてしまう場合がある。一方、社会から外れようとがんばらなくてもあれよあれよとズレていくタイプの人は資本主義的価値観からするといわば「お荷物」というか、足を引っ張ることもままある気がする。資本主義社会とかある種の能力主義(あるいは根性主義)に面と向かって抵抗するのもアリだが、「お荷物」と呼ばれる存在になるのもまたアリだな、とは思う。そして後者はそうそう努力ではなし得ないものである気はする。
 「でも栗田さん、先月はいろんなイベントに呼ばれて話してたじゃん!」と世界で5人くらいは、私の6月の動向をチェックしてツッコミを入れてくれるかもしれない。たしかに。しかしそのようなイベントは朝からスタートすることは少なく、イベント自体も2時間とかのごく短い時間であることが多い。さらに、先日私は夜から始まるイベントでさえ身体がだるくて、ようやく起きて会場に向かったら電車に乗り遅れ、そしてなぜか何回も来ている場所なのに迷子になりイベントの開始時間を20分くらい遅らせた。トークイベントに遅刻したのはおそらく今回が初めてと思うが、うつがひどくなるとオンタイムを良しとする世界線についていけなくなるのだと痛感したし、オンタイムで動かないと取り返しがつかないような仕事にはつけないし、つきたくないとつくづく思った。
 その後定期的に通っている医者に「今月はもう身体がつらくて、だるくてどうしようもないです」と話したところ、「もうみなさん、全滅ですね」とあっさり答えたのを聞く限り、やはりうつ病者の多くがこの季節はつらいのだと思う。ちなみにうつ病だけじゃなく喘息なども湿度が高く低気圧になると発作が出やすくなるので要注意である。
 実は私の誕生月は6月なのだが、うつに限らず大病をしてしまうのはこの時期だ。いまだに私の親がこの時期の私の調子を心配しているほどである。この梅雨の時期、ようするに湿度が高くて雨ばかり降る季節がどうにもつらくなるのだ。誕生日祝いの企画をして親戚が来てくれたのに熱を出してしまったり、肝炎になって入院したり、10代の頃自殺未遂をしたのも6月のこの時期である。うつ病や喘息の人に限らず、湿度が高くて低気圧で雨ばかり降る季節に強い人などそうそういないとは思う。正直言ってこのような季節をなんとか生き延びた自分を褒め称えたいくらいである。なんならこの時期につらい人たちはお互いを褒め称えあってもいいかもしれない。
 じゃあ本格的に暑くなる7月や8月はどうなのかと言われれば冷房のきいた部屋に一日中いるとやはり具合が悪くなる。とはいえ自分の体温より暑い時期にクーラーをつけなかったら今度は熱中症の危険があるので、非常に室温に気をつかう日々が続く。いわゆる「自律神経」と呼ばれるものがおかしくなりやすい性質なのだろう。でもこれまた私だけの話ではない。
 それこそネットで「自律神経」「低気圧」「湿度」「頭痛」「だるさ」「耳鳴り」「むくみ」「冷え」といった言葉を検索すれば、それらの改善のための本や動画は至るところにある。ヨガやストレッチ、入浴のすすめ、筋肉をつけて代謝を上げる筋トレ、低気圧の到来とともに頭痛が起きる人のために気圧の変化を教えてくれるアプリ、東洋医学的な漢方や養生法などなど。湿度や気圧の変化に苦しむ人の存在や、それに対応しようとさまざまな工夫をしている姿が見て取れる。最近は「気象病」や「天気痛」(注1)という言葉も登場し、季節や天候によって体調を崩す人の存在は意識されている。しかしそれでもなお、多くの人はなんとか身体を動かして適応できているのではないか、自分は弱い人間なのだと、うつの症状がひどい時は自分だけが適応できていないように感じてしまう(まさにそれがうつの症状なのだが)。実際のところはさまざまな無理がでていて、働く時間を減らそうなどと言われているのに、(在宅ワークであっても)フルタイムで週5日働けるのが当たり前くらいの体力の持ち主、暑さ寒さなどに心身の影響を受けない人たちを労働者モデルに据えている社会だ。そのようなモデルがいまだに存在していることが労働のハードルを上げ、それこそ生産力といわれるものが頭打ちになる原因なんじゃないのかと思えてならない。少数精鋭が10割の力を出さなければダメな職場環境と、大勢の人が6、7割の力で関われる仕事環境とどちらが働きやすいかを考えてみればいい。杉田水脈という政治家がセクシュアルマイノリティを差別するために生産性という言葉を引き合いに出してきたが、こと労働の話としては、生産性が理由なのかどうかさえ定かではないままに体力のある人以外をふるい落とすようなキツイ労働条件にするのをやめてほしいとつくづく思う。そしてうつをはじめとした自律神経の乱れで苦しんでいる人への理解が社会で深まってほしい。うつとは違うが日々の調子が一定でなくなる話としては生理(月経)のつらさなども想起される。確かに今も制度としては「生理休暇」はある。昔は生理休暇を取る人がもっと多かったと聞くが、今はおそらく生理休暇を取ったことがある人は(私含め)ほとんどいないだろう。昔の方が女性の労働者率は低かったのだが、生理休暇取得率は高かったことなどは一体どう考えればいいだろう(注2)
 季節や天候によって変わる心身を抱えている我が身。最近は聞かなくなったが、私が小さい頃はこういうタイプを若干バカにした「お天気屋さん」という言葉があった。しかし逆にいえば、天気にまったく関係ない仕事というのは人間の労働の歴史の中では比較的新しいもののはずだ。
 そもそも今だって建築の現場仕事は雨ではできない工程はあるだろう。また農業など植物を相手にする仕事も大昔は今よりさらに季節や天候でやれることが大きく変わったはずだ。もっといえばオンタイム、時間に正確なことが美徳とされたのも近代の工場労働が主流になってからだろう。私が短い期間経験した工場の仕事では、機械を止めたら一斉に昼休みを取っていた。そして機械を動かすタイミングに合わせてみんなが定位置についていなければ、商品をつくることができない。時間通りに動く機械に身体を合わせられなければ、工場で働くことはできないのだ。21世紀の今ならばデータ情報の処理数に対応できる身体が必要ということかもしれない。あのチャップリンの有名な作品『モダン・タイムス』じゃないが、人間が工場の機械を動かすのではなく、工場の機械が人間を動かす現実はそれほど変わってないのではないか。変わったとすればチャップリンのように「おかしい」と感じる人が少なくなり、今となっては私も含め誰もが機械やインターネットやスマートフォンに振り回されていることが当たり前となってしまったことだろう。
 しかしそんな事態になればやはりどこかに歪みは出るもので、チャップリンの映画でも主人公は精神的な不調をきたしている。そうだ、別にみんなうまく働けているわけではない。休んだり、苦しんだりしている周りを見れば明らかだ。だけど何かがその現実を隠蔽している。その理由の一つには、「働き方の多様性」といってもそれは労働における「周縁」のあり方が変わっただけで、労働そのもののモデルが変わったとは言えないからだろう。どんなに働けなくて苦しい人があらわれても、あるいは時短労働の導入、あるいは起業がいいなどと言われても、それはあくまで周縁化された存在として認められるだけにすぎない。依然として労働者のあるべき姿は会社員や公務員といった第二号被保険者と呼ばれる人たち、かつフルタイムで仕事をする人たちだ。コロナ禍においてパートタイマーが首を切られ、自営業の廃業が激増する中で、このマジョリティの人々の雇用は守られていたのであった。
 しかし繰り返しになるが、そんな人間が社会のあるべき姿となったのは決して大昔の話ではない。江戸時代(これを大昔と捉えるかどうかは人によって分かれるが)の人たちはそもそも腕時計などをして働いていた訳ではなく、「『寺の鐘(梵鐘)』は、香盤時計やその他の和時計を用いて仏事や勤行のために寺院で鳴らしていた鐘で、最初一日に3回鐘を撞いていました。(明け六つ・昼九つ(正午)・暮れ六つ)。」だったという(注3)。一日に三回しか鳴らない鐘が江戸の人たちの時間感覚であったとすれば、それは今のスマホや腕時計で一分一秒を常に確認できる事態とはすでに異なっている。その時間感覚は身体的な振る舞いにも影響があるだろう。
 人間の時間感覚は時を刻む機械に左右され、その時間に合わせて身体がどう動くか/動かないかが、いまや「社会性」のあるなしを決定する。そして機械は天候や気圧に左右されないのだから、人間もそれらに左右されてはいけない。とはいえ、実は機械も暑すぎると壊れたりするのだが、その際は人間の方が機械に合わせて休む(ストップ)するのだと、職場のパソコンが雷で電源が落ちて作業を停止した時に思ったものである。
 その昔、「南の島のハメハメハ大王」(注4)という歌の「風が吹いたら遅刻して 雨が降ったらお休みで」といった歌詞に対してひどく羨ましく思った記憶がある。この歌詞の解釈としては南の国の人はみんな怠けているといった蔑視(もっといえば勤勉であることが最高の価値だと勝手に決めた上での蔑視)であることはあり得て、それはもう幾重にも人権無視・人権侵害といったレベルの話だが、風が吹いたら遅刻して雨が降ったら休みながらもどうにか生きたり働けたり学べたりできないか、しかもそれが周縁的な立場というより、ど真ん中に存在しているありようとして労働制度やシステムや価値観を組み直せないか。それは私の長年の悲願と言っていい。日本の労働における多様性とは、真ん中の基準は微塵も変わらず、安い賃金で不安定に働くあり方だけが「多様化」したように感じる。あるいは「生きづらさ」や「◯◯障害」という言葉はいっぱい生まれている。それらが全く意味をなさなかったとまでは言わないが、周縁にいる人を指す言葉が増えただけで、マジョリティとされ模範とされる身体のイメージはいまだに「健常者成人異性愛シス男性」である。私にとっての6月は自分の心身の「お天気屋」を意識し、葛藤し、そしてうっかり死にそうなほどダウンしながらも、もがきあるいは受け入れる月だ。そんなお天気屋じゃなく生きられるとはどういうことなのかを何者かに突きつけたい、そんな月でもある。読者のみなさんももし天候がつらくて身体が動けないときがあったらこの文章を思い出してもらったらありがたい。ちなみにこの数日は晴れているからこの文章が書けたのだと思っている。


(注1)2022年4月5日に放送されたNHK『クローズアップ現代』では、天気や気圧の変化で頭痛や吐き気などの症状で苦しむ人たちを追っている。
「体の不調 天気のせいかも!? 最新研究で分かる対処法」
https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4648/
(注2)「生理による体調不良時に取得できる『生理休暇』。働く女性は増えているにも関わらず、取得率は1963年の26.3%をピークに低下し続け、厚生労働省が実施した直近(2020年度)の調査では、わずか0.9%にとどまっている。取得率は、労働人口が増えれば、それに伴って上昇するというわけではない。それにしても、100人に1人未満しか利用していないとは、いったいなぜだろう。」
「わずか0.9%とは…『生理休暇』なぜ取らない? 有休化、性別問わない新制度も登場【時事ドットコム取材班】」Yahoo!ニュース2023年7月9日配信記事
https://news.yahoo.co.jp/articles/36073cf25903125a5bc73b08366fcfc48cb008a7?source=sns&dv=pc&mid=art08t1&date=20230709&ctg=dom&bt=tw_up
(注3)「セイコーミュージアム 銀座」ウェブサイト「江戸時代の暮らしと時間」
https://museum.seiko.co.jp/knowledge/relation_07/
(注4)伊藤アキラ作詞、森田公一作曲、1976年


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