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第12回

レコードを持ち込む店

[ 更新 ] 2023.02.15
 京都でコーヒーを飲むと高田渡の「珈琲不演唱(コーヒーブルース)」(第3回で紹介)を想い出すように、吉祥寺でコーヒーを飲むと中川イサトのアルバム『お茶の時間』が思い浮かぶ。ジャケット写真は第2ボガと呼ばれていた〈CAZA DE CAFE BOGA〉という店で撮影されたものだ。通りに張り出した窓に写り込んでいるのは、たぶん当時建設中だった近鉄百貨店ではないだろうか。この店には一度だけ行ったことがあり、それは苦い思い出として残っているが、その話は別の機会に譲る。

中川イサト『お茶の時間』1973年。この時期の吉祥寺には、高田渡を筆頭に、たくさんのぼく好みのミュージシャンが移り住んでいた。ちなみにジャケット写真が撮影された第2ボガは、いまは〈BAR boga〉というイタリアンのレストラン&バルとして営業されているようだ。



 大学入学と同時に東京でひとり暮ラしを始めた。いちばん住みたかったのは吉祥寺だったが、家賃が高くて断念せざるを得ず、それでも諦めずに、2年目から吉祥寺の二駅先の武蔵境に住んだ。それだけで半分以上は吉祥寺の住人になったような気分だった。高校時代の同級生が、羨ましいことに井の頭公園に近いところに下宿していて、よく彼の部屋に遊びに行っていた。というのは、吉祥寺には〈芽瑠璃堂〉という、素晴らしい輸入盤専門店があったのと、彼がオーディオを持っていたからで、再生装置を持っていなかったぼくは、買ったばかりのレコードを彼の部屋で聴かせてもらっていたのだ。
 そのうち、同級生の下宿の近くに〈山羊〉というカフェがあることに気づき、そこでコーヒーを飲むようになった。桑沢デザイン研究所の先生がオーナーだと聞いたことがある。店を任されていたのは写真家の橋口譲二さんご夫妻だった。これも後で知ったことだ。和光やICUの学生が通う店で、おっとりとした都会育ちの若者が集まるようなところだった。しばらく通ううちに店にも馴染み、そこにも買ったばかりのレコードを持ち込むとかけてもらえるようになったので、大学生の頃に手に入れた大切なレコードを、ずいぶんここで聴いたような記憶がある。トム・ウェイツのファーストやフィフス・アヴェニュー・バンドなどだ。

TOM WAITS『CLOSING TIME』1973年。芽瑠璃堂のPOPに「イーグルスのOL’55の作者」と書いてあったので買ったレコード。ぼくはB面1曲目の「ROSIE」がいちばん好き。



 ぼくは留年をしているので、大学には5年通っていた。最後の2年は、井の頭公園の池を渡ってすぐのところに住んだ。ただ、住所は三鷹市なので、ぼくはとうとう吉祥寺に住むことはなかった。公園の入口近くにコーヒー専門店があって、いつもいい香りが漂っていたというかすかな記憶があるが、そこが有名な〈もか〉だったと知る由もない頃の話だ。ところで、そもそも吉祥寺にもう何年も行っていない。いまなら何処でコーヒーを飲むのがいいのだろうか。


嶋中労『コーヒーの鬼がゆく 吉祥寺「もか」遺聞』。毎日のように伝説の店〈もか〉の近くを通り過ぎて、ぼくは〈山羊〉でコーヒーを飲みながら音楽を聴いていた。
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第9回

名古屋が好きなのは

[ 更新 ] 2022.12.01
〈喫茶クロカワ〉には、名古屋に行くと必ず寄る。最初は建物がぼくの興味の対象だった。アントニン・レーモンドの事務所が設計した、カナダかどこかの会社の事務所だったと聞いた。そこをマスターが自分で改装し、しかもその改装が、元の建物とレーモンドへの敬意に溢れているので、まるでこの店のためにレーモンドが設計したように思える、居心地がすこぶる良い喫茶店だ。

〈喫茶クロカワ〉には年に1~2回しか行けないが、「好きなコーヒー店は?」と訊かれたら、必ず名前を挙げる店だ。

 何年か前に友人が連れていってくれて、この店を知った。会うのが久しぶりだったので、積もる話をたくさんした。ふと会話が途切れたときに、友人がマスターに「いま流れているのは誰の曲?」と訊いた。マスターがCDジャケットを差し出すと、驚いたように「えっ!?」と小さくもらした。友人が前からよく知っている音楽だったのがわかるリアクションだ。コーヒーを飲みながら喫茶店で偶然に聴く音楽には、こういうことがよく起こる。知っているのに、はじめて聴いたように感じるのである。
 ぼくはこの曲をまったく知らなかったので、東京に戻ってからすぐ取り寄せた。グユンというニックネームを持つキューバ人ギタリストと彼のグループが、エリサ・ポルタルという歌手とともに1960年代のはじめに録音した音楽だという。その少し前に、別の友人が、ぼくがカリブ海由来の音楽が好きなことを知って、キューバのフィーリンという音楽を薦めてくれたことがあり、ホセ・アントニオ・メンデスなどを聴いていた。だから、このグユンもすぐに愛聴盤になった。そして、あらためてクロカワのマスターの音楽趣味を思った。

GUYUN Y SU GRUPO 『CANTA ELISA PORTAL』。手に入れてしばらくは、夜になるとこればかり聴いていた。

 ある雑誌で名古屋の特集をするということになり、もともと名古屋の魅力に惹かれていたぼくは、そこに参加させてもらうことになった。自分の好きなものをいろいろと推薦したが、担当編集者に「名古屋のミュージシャンでは誰がオススメですか?」と訊かれて、学生時代に聴いていたセンチメンタル・シティ・ロマンスというバンド以外を思いつけないぼくは、名古屋で誰かに会うと同じ質問をして歩いた。何人かから「やっぱりGUIROですね」という答えをもらい、たしかクロカワのマスターからも同じ名前を聞いたはずだ。だからまた、東京に戻ってからすぐに彼らのCDを手に入れた。
 そんなことがあった後にクロカワに行ったら、マスターが「これを、どうぞ」と、GUIROのシングル盤をくれた。それからすぐに、幸運にもGUIROが東京でライヴをやって、そこで彼らの演奏を聴いていよいよ大ファンになったのだが、残念ながらGUIROは現在活動休止中である。

GUIRO『エチカ/日曜日のチポラ』。ライヴ会場でのみ売られていた4枚のシングル盤のうちの1枚。これをもらった後に、東京で彼らのライヴがあって、そこで残りの3枚を手にいれることができた。

 クロカワに行くと、いまやぼくはアントニン・レーモンドではなく、GUIROのことを思い浮かべるようになっている。

コーヒーは、あればいつも「インド」を淹れてもらう。
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第7回

モンゴルからヨークシャーへ

[ 更新 ] 2022.11.01
 今年の誕生日に、札幌に住む友人夫妻から小包が届いた。中にはレコードが入っていた。まったく見たことのないジャケットだ。エンカルジャール・エルクヘンバヤルというウランバートル生まれのシンガーで、現在はミュンヘンを拠点にしているらしい。エンジという名前で活動しているようだ。このレコードがすっかり気に入ってしまい、それからしばらくは繰り返し聴いていた。先日、仙台でレコードをかけながら話すイヴェントがあって、そこでこのレコードを最初にかけたほど好きなのだ。

友人夫妻が誕生日にくれたレコード。ENJI『URSGAL』。

 仙台まで来たので、そのまま新幹線で函館に行き、さらに足をのばして札幌に行くことにした。そして、この友人夫妻が営む店で食事をした。そのときに、贈ってもらったレコードを手に入れた場所を教えてほしいと話すと、「明日の夕方に一緒に行きましょう」と誘ってくれた。店は〈chiba house〉という名前だった。てっきりレコード屋だと思い込んでいて、住所を頼りに行くと、店の前で友人たちが手を振っていたのだが、そこはどうもカフェのように見える。

久しぶりに友人夫妻に会えて、あのレコードを買った店に連れて行ってほしいとお願いしたら、そこ〈chiba house〉はレコード屋ではなくカフェだった。

 中に入ると、壁際に少しだけレコードとCDを並べたコーナーがあるのだが、そこに置いてあったのは、ほぼ知らないものばかりだった。席に着いてコーヒーを頼む。しばらくして、素敵な音楽が流れ始めた。ターンテーブルのあるほうに顔を向けると、いまかけているらしいレコードのジャケットが飾ってある。静かなこのカフェの雰囲気に合った、男性のギター弾き語りだ。アーティストの名前はクリス・ブレインと読むのだろうか。ヨークシャーというイングランド北部の地方生まれ。ぼくは、昔、札幌に住んでいた頃によく聴いていた、カナダのシンガー・ソングライター、ブルース・コバーンに似ているなと思ったが、本人によれば、ジョン・マーティンやニック・ドレイクに影響を受けているようだ。レコードを買ったら、一緒にクリスが制作した小さなポスターがおまけでついてきたのも嬉しかった。

〈chiba house〉でかかったレコードを買う。CHRIS BRAIN『BOUND TO RISE』

レコードについてきたおまけは、アーティスト自身が撮影したヨークシャーの鳥。彼の生活はどのようなものなのだろう?

 東京に戻ってから〈chiba house〉のインスタグラムを覗いてみると、このレコードを盛岡の書店〈BOOKNERD〉のインスタ投稿で知ったと書いてあった。仙台のイヴェントで、ぼくがエンジをかけながら話した相手は、この盛岡の書店主だったのだ。趣味が似た人たちの、ゆるやかなつながりを感じるような買い物になったなァ。
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第6回

コーヒーかワインか

[ 更新 ] 2022.10.15
〈ワルツ〉は恵比寿にあるワインバーだ。いつからだったか、そのワインバーが昼間にコーヒーを出すようになった。コーヒーを出すときの店名は〈プレイタイム・カフェ〉に変わる。〈ワルツ〉の常連だったAちゃんが、コーヒーを淹れてくれるのだ。ただ、ここにはもちろん、ワインバーだからワインがある。最初のうちは遠慮して、コーヒーをオーダーしていたのだが、「ワインも飲めるのかな」と訊くと、「大丈夫です」と言う。だからそのうちにコーヒーを頼まずに、最初からワインをオーダーすることが多くなった。
 それには理由がある。ぼくは夜遅くに出歩くのが得意ではない。歴史が夜つくられるものならば、ぼくは歴史がつくられる現場をほとんど見ていないことになるが、それで構わないと思っているほど、夜はできるだけ早く家に帰り、シャワーを浴びて寝てしまうのだ。〈ワルツ〉はとても好きな店だが、家からは少しだけ遠く、開店時間がぼくからするとちょっと遅い。たしか19時だったと思う(いまは18時オープンに変わっている)。たまに覗いてみるのだが、折悪しくマスターの出勤が遅れているときに当たったりして、なかなかここで飲むことができないのが続いた。それが、コーヒーを出す日ならば、15時から始まる。つまり好都合なのである。

〈ワルツ〉は好きなのに、なかなか行けないワインバーだった。マスターのことも大好きなんだけどね。

金曜日と土曜日の午後3時から〈プレイタイム・カフェ〉という名前でAちゃんがコーヒーを出してくれる。

 ある日、〈プレイタイム・カフェ〉に行ったら、カウンター脇の冷蔵庫の上にターンテーブルが置いてあった。いつの間にか〈ワルツ〉はレコードをかけるようになっていたのだ。そして、店が開いてすぐだからか、配送の人と出くわすことが続いた。マスターが通信販売でレコードを注文しているようなのだ。セレクトがなかなか面白い。その日も包みを開けるのを横から見ていたら、ジュディ・シルのレコードが出てきた。有名なファーストアルバムではなく、セカンドのほうだ。思わず、それをかけてよとお願いする。ファーストはなかなかのレア盤で値段も高く、いまだに持っていない。さらにセカンドにいたっては聴いたことすらないのだ。まさかここで聴けるとは思ってもみなかった。

ここで聴けるとは思わなかった名盤。ジュディ・シルのセカンドアルバム(1973年)

 Aちゃんがジャケットからレコードを取り出して、ターンテーブルにのせた。なんだかドキドキする。ゆったりとしたテンポのカントリー・フレイヴァー溢れる曲が流れ出した。ワインをお代わりする。



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第1回

相撲を愛することで、社会が見えてきた。

[ 更新 ] 2023.05.30
 私は「まわし」を巻いたことがある。
 北海道・福島町で毎年「母の日」に開かれている女性だけのアマチュア相撲大会に出場してルポを書くため、2012年初めに東京・神田にある社会人相撲の道場にしばし通った。初回から「まずは四股100回、続いてすり足、スクワット」と全力でぶちかます稽古をして、神田駅の、当時あったほんの4~5段の階段が登れないほど足がダメになった。それでも翌週も稽古に参加した私に、道場の先生が「和田さん、まわし巻きますか?」と巻いてくれたのだ。
 巻きますか?とか、巻いてくれたとか、なにやら簡単便利な手巻き寿司♪みたいに聞こえるが、ことは「まわし」なのである。基本的に「まわし」は天日干しをしても、洗わないものだ。道場の壁のタオル掛けにズラズラッと並んでいて、誰が使ったか分からない。えっと、それは、直接お尻に巻いたものですよね? その認識で間違いない? Please let me know if my understanding is wrong(←ググった)。
 正解!と先生は言わないまま、いちおうジャージを履いている上からまわしが巻かれることになった。ぐるぐると私が何回転かし、キュキュッと最後に先生が締め上げてくれる。あらっ? これが意外といい。腰痛のときに巻いたコルセットよりずっと腰が安定して、足がフラつかない。これなら1日中巻いても……いいわけないが、まわしは意外と私にしっくりきた。

 ということで、こんにちは。まわしがしっくりくるライター、和田です。当然ながら大の相撲ファンで、これから相撲の連載を始めることになりました。ちなみに相撲と大相撲は違う。相撲は草相撲やアマチュア相撲も含む広義なもので、日ごろ私たちが2か月に一度、奇数月の15日間目にするのは大相撲という興行だ。私は相撲も大相撲も大好き。女性のやる相撲も、子どもたちがやる相撲も、見るとワクワクする。とにかく相撲という言葉が耳に入ると、クルッと振り向き、ニヤッと笑う、そんな人だ。
 相撲を好きになったのは、2003年の11月場所からだったと思う。その頃、私は鬱がひどくて布団からなかなか起き上がれないでいた。何をしても自分はダメだと思いこみ、自分で自分を叩きのめす日々。当時の私に言ってあげたい。「あなたは何も間違えていない。自信を持って生きなさい」と。これはすべての若い女性に言いたい言葉だ。あなたは何も間違えていない。自信を持って生きなさい。心からそう思う。
 日本では、女性の生き方が型にはめられてきた。家事や育児や介護の担い手として無償ケア労働に励みながらも外でパートの最低賃金で働くことがデフォルトで、社会的地位が低く、あまつさえ苗字さえ失うことが多い。選択的夫婦別姓は政治の権力にずっと握りつぶされてきた。いや、女性の人生そのものも、政治の権力にずっと握りつぶされてきたと思う。そんな中で必死に生きるあなたも私も、何も間違えてなんかいない。
 ああ、そうだ。今なら分かる、そのことが。コロナ禍になって、私はそれを学んできた。『時給はいつも最低賃金、これって私のせいですか? 国会議員に聞いてみた。』(左右社)という本を書いて、ずっと抱いていた「私のせい」という重圧が、私のせいではないことがよく分かったんだ。

 でも、そのずっと前の2003年、朝青龍を見つけたことで私は、そこで息を吹き返した。残念なことだが、私は自分の人生では「負けがこんでいる」と思いこんでいた。それで、相撲ファンの友達に教えられて観た大相撲、土俵で勝ち続ける朝青龍を大好きになった。パーンッとまわしを叩き、取組の相手を睨みつけ、ガ~ッと一気に勝つ。すると大喜びの表情で土俵を去っていく。あんな痛快な人はいない。瞬く間に夢中になり、朝青龍が勝つことで自分の鬱が吹き飛んでいくように思えた。私の問題は、解決はせずとも、しばし忘れることができる。推し活とは、そういうものだよね?
 明けて2004年初場所、友達が「チケットがあるよ」と升席の1座布団を私に譲ってくれ、いきなり生で相撲を観た。それは、キラキラだった。ネットやテレビでの大相撲中継では分からないが、大相撲の関取以上(十両・幕内)の取組ではライトのお光り具合がとんでもない。神事です~伝統です~という大相撲の土俵の上に一見うやうやしくある「神明造り」の吊り屋根の内部はライトがギラギラ輝いている。それがカッと力士たちの肌を輝かせ、観る者を興奮させるのだ。しかも音がすごい。大相撲のぶつかり合いの音のすごさは、その後のコロナ禍での無観客興行でもかなり話題になったが、いきなり出会った相撲の「音」に私はびっくりした。
 何よりもちろん、リアル朝青龍は激しかった。もんどりうつ、というおよそ日常では使わない単語がぴったりはまるような腕、太もも、腹の動き。躍動し、圧倒的だった。実際はほんの数秒の取組なのに、「まるで夢を見ているようでした」とぼ~っとし、勝った後は手を叩いて、升席で飛び上がらんばかりに喜んだ。
 ところがだ。その後も足しげく国技館に通ううち、そうそう楽しんでいられなくなっていく。1、5、9月の年に3回の東京場所。2階席の安い席を買って行くのだが、朝青龍が土俵に上がると、にわかにまき起こる「負けろ」コール。手拍子をして酔っぱらったおじさん集団が「負けろ、負けろ」と歌うように声をあげる。何言ってるのぉぉ? What the heck are you saying?(←またググった)。腹が立って腹が立って、たまらなかった。友達からまた升席の1座布団をもらって観ていたとき、隣で中年男性グループがウイスキーの瓶をひっくり返すほど酔っぱらいながら負けろコールを始めて、「うるさいっ! 止めろ!」と怒鳴りつけたことがある。座布団で殴り掛かりそうなほどの勢いだったと思う、私は。男性たちはバツの悪い表情をしてモゴモゴ何か言っていたが、私が睨み続けると黙った。
 朝青龍はヒール役の横綱だった。だから叩かれる。私はそう思わされていた。でも、それだけじゃないよね。彼は強すぎる横綱で、モンゴル人だった。やがて朝青龍はおかしなことで引退を迫られ、その日もうひとりのモンゴル人の横綱だった白鵬が涙を流して悲しんだ。その姿を見て、正直それまで白鵬のことは「朝さまのライバル」とニガテイシキを抱いていたのを、「この人がいたからこそ、朝さまも輝けたんだわ」と、ファンになった。

 
 ところが、そこから私の茨の道が始まった。白鵬を推せば推すほど、私は苦しくなる。それが恋というもの? いやいや、ちゃうで、ちゃう。
 白鵬が何をしても、どんなに勝っても、ひたすら叩かれ続けられるようになったからだ。朝青龍がいた頃、白鵬は優等生視され「日本人以上に日本人らしい」という、〈そもそも日本人らしさって何だ?〉〈日本人らしくなることがいいことなのか?〉〈外国人のアイデンティティーを破壊するのか?〉とツッコミどころしかない外国人への誉め言葉と称したいやらしい言葉で白鵬は評されていたものの、2013年頃から様子が変わってきた。朝青龍に向けられていたものとは違う、もっと陰湿で、執拗で、露骨に差別的なヤジや相撲の解説と称するものが平気で土俵の外で飛び交うようになったのだ。まさに東京・新宿区大久保で、ヘイト・スピーチのデモが激しくなった頃。師岡康子さんの『ヘイト・スピーチとは何か』(岩波新書)という本が出版された頃(2013年12月)のことだ。
 私は忘れない、2013年11月の九州場所14日目を。白鵬vs稀勢の里の取組で、稀勢の里が上手投げで勝つと、場内の人たちが「ばんざーーい、ばんざーーーーーい」と始めた。稀勢の里が優勝を決めたのではない。この場所で優勝したのは日馬富士だ。でも、観客は白鵬が負けて稀勢の里が勝ったことで、立ち上がり、まだ土俵下には白鵬が座っているにもかかわらず、万歳を叫び続けた。稀勢の里を応援していたからだ? では、稀勢の里が勝つたびに万歳三唱があったか? ないってば、ない。あたりまえでしょう?
 そうした扱いは徐々にエスカレートしていった。NHKのテレビ中継ではあからさまに「日本人の活躍」を願うようになり、「日本人の横綱」の誕生はマストなことだと堂々と言っていた。「日本人」という言葉に批判が集まると「日本出身の横綱」なる珍妙な言葉が生み出された。そんな用語は、NHKのアナウンサーたちが持つという放送用語集には載っているのだろうか? Is the term in the "broadcast language book" held by NHK announcers?(←またまたググった)。もし載っているとしたら、ヤバい用語集でしょ、それ。
 もうひとつ、どうしても忘れられないことがある。2016年3月場所の千秋楽。白鵬が日馬富士を変化(左右に体をずらす相撲の技のひとつ)でやぶって優勝を決めたことに怒った観客たちが、白鵬の優勝インタビュー時に「モンゴルへ帰れ」「そんなに懸賞金が欲しいか!」など罵詈雑言を浴びせまくり、白鵬が泣いてしまい、優勝インタビューが打ち切りになった。あまりのことに私はショックで言葉を失いながらもツイッターで怒りをぶちまけていると(ツイ廃ですから)、「白鵬が悪い」「優勝をかけた取組で変化(左に動いた)するなんて卑怯」「こういうことがあるとすぐ差別とか言う奴らがいる」と白鵬や白鵬ファンを罵るツイートがタイムラインにあふれていた。変化することは反則技ではないし、それを横綱がやっていいとか悪いとかはそれぞれの相撲の見方であり、日ごろ大相撲、殊に横綱という地位に「品格」とやらを求める人たちのすることではないだろう。
 それよりも「モンゴルへ帰れ」などと差別的ヤジがテレビの中継音声にも乗ったことが問題だし、相撲の取り方/ルールについて言いたいことがあるのなら、相撲協会に訴えて変更を迫るべきだ。問題があるのは差別であり、また大相撲のルールはあいまいなところが多く、それを大らかに受け入れるのが、本来の楽しみ方のはず。自分のイライラをぶつけるべき相手は白鵬ではない。
 そして、その同じ日、東京・新宿であったヘイト・スピーチのデモへのカウンターに参加した私の友人が、もう一人の女性と路上にいたところ、女性が警官に首を絞められて、地面にたたき落とされ、救急車で搬送される事態が起こった。そのニュースを聞いたとき、この2つの出来事はつながっていると感じた。
 日本社会に歪んだ差別意識があり、根底には今の政治が作る社会構造、そこから生み出された格差社会に問題がある。人ははざまでイライラを募らせ、他者にぶつける。あれもこれもそれも、土俵の上や周りで起こっていることは、日本の社会で起こっていることに通じる。そう思った。土俵と社会は写し鏡だ。

 大相撲という興行は、古く江戸時代に始まる。日本社会において、これほど長く愛され、続く興行は他にはない。良くも悪くも、日本の社会を映し出していって当然ではないだろうか? 土俵の上で起こることは同時に、もしくはやがて、日本社会でも起こりえる。朝青龍から白鵬へ。そして今も――私はずっと相撲を見続け、推しまくる中で、社会を見て、学んできたように思う。相撲を愛することで、社会が見えてきた。これから、そのことを書いていく。どうぞ、ひとつ、よろしくお願いします。はぁ~、どすこい~、どすこい。
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