第8回
“怠ける”というタブー ――うつ病の人が闘う相手とは?
[ 更新 ] 2023.05.19
正直、私としてはもはや病名などどうでもいい。
“That which we call a rose by any other name would smell as sweet.” (私たちが薔薇と呼んでいるものはどんな名前であっても香りは甘い:引用者訳)というシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』の台詞ではないが、病名がなんであろうと的確な治療や対応、あるいはこちらのすべきことを理解したいし、治療に必要な気力が欲しい。
やる気が出ないとか、ものすごく疲れやすいとか、物忘れが多いとか、家事がまるでできないとか、眠りが浅くて寝た気がしないとか、早朝覚醒してしまうとか、PMSがやたらキツくなるときがあるとか、そういう日常生活での困りごとがなくなり、日々を一定程度滞りなく送ることができ、ひいては物書きの仕事を続けられることを願っているわけだが、このような悩みから脱却困難なのがうつ(的な何か)である。
「日々を一定程度滞りなく送ることができ、ひいては物書きの仕事を続けたい」と書いたが、注意して避けた言葉がある。それは「普通」という言葉だ。
私がついつい陥りがちな、いわばパターン化した罠のような願望は「普通になりたい」だ。というのもこの私の願望における「普通」とは、やる気が起きるとか、元気になるとか、物忘れがなくなるとか、ひいては物書きの仕事ができる……ということと微妙に異なるのが自分でも実はなんとなくわかっている。どうやらこれは、この連載で何度も取り上げているような「マジョリティの詰め合わせ」に少しでも近づきたいという情けなくも悲しい願望のようだ。フルタイムで働くことは無理でも、せめてパートタイムで働けるようにならないか……もはや我ながらいじらしいというか、なんとも言えない複雑な気持ちになる。マジョリティに近づけば私の生活もちょっとは安定し、どこか安心できる気がする。
しかしそこで感じる安心とはなんだろうか? そして「マジョリティの詰め合わせ」に少しでも近づきたいという気持ちはどこからやってくるのか? とさらに突き詰めて考えると究極、「怠けている」だの「ズルい」だの「性格に問題がある」といった罵倒や非難をされない状態と言えるのかもしれない。私の頭をかすめる安心とは誰からも文句を言われぬ生活、ということなのだろうか。
しかしこの「安心」には罠がある。そもそも私も(そのほか多くの人々も)「マジョリティの詰め合わせ」みたいな属性にそうそうなり得ない。何せマジョリティの詰め合わせとはシスヘテロ男性/健常者/在日日本(ヤマト)人/会社勤め/既婚者/子持ち……と無限にリストが続くが、これら全てに当てはまる人は、現代日本ではもはや少数に。さらに重要なのはそのようなマジョリティの詰め合わせリストのライフスタイルに近づいたからといって、自分が“幸せ”と感じられるかどうかの保証は全くない。こういうことを考えるとき、私はいつも「プロクルーステースの寝台」というギリシャ神話を思い出す。
プロクルーステース(「引き伸ばす者」という意味)とは強盗の名前である。通りかかった人々に「泊まらせてやる」「休ませてやる」と声をかけ、宿屋に見せかけたアジトに連れていき旅人を寝台に寝かせる。もし相手の体が寝台からはみ出したら、その部分を切断してしまう。逆に、寝台の長さに足りなかったら、サイズが合うように体を引き伸ばすといった暴力を振るうのだ。プロクルーステースは遠くから相手の背丈を目測して、寝台を伸ばしたり縮めたりして、声をかける相手が寝台に合わないように調整したのだという。
この物語だけ読むと「なんじゃこれ」かもしれない。だが私たちは往々にして、「模範」「雛形」「平均」という概念に弱い。例えば洋服は標準サイズが着れなければ問題があるような気がして体を縮こませたり、大きくしようとしてしまう。ライフスタイルや性格も自分の状態をあるがまま受け入れて工夫するよりも、サイズダウンを目指してダイエットしたり、あるいは低身長に悩む人はヒールのある靴を履いたりする。私にとって「普通」になるとは、このプロクルーステースの寝台に寝かせられた人の運命を辿るだけなのがわかっているのに、無理をしてでも周囲に合わせようとしてしまう。それこそが「怠けている」というバッシングから逃れられる方策のように、うつが悪くなると思ってしまうのだ。
それにしてもこの「怠けている」や「ズルい」という罵倒、あるいは「性格に問題がある」というバッシングがうつ病に対して常につきまとっている(ような気がする)のはなぜだろう。
思い返せば私の人生、うつに限らず要所要所で、こうした言葉が常につきまとってきた。それは高校生となった10代の頃に学校に行こうとすると気分が悪くて倒れ込みそうになる不登校(当時は登校拒否)(注1)をしていた頃までさかのぼる。
とにかく当時は、メディアや学者、教育関係者等々から「親に甘やかされたダメな子どもが登校拒否になる(大意)」と言われていた。あるいは子どもが学校に行かないのは母親に責任があるとする「母原病(ぼげんびょう)」なる言葉まであった。それゆえ学校に行かなくなった私は、もし自分がちゃんとした病名がつく病気であれば、同じように学校に行かない/行けない場合であっても「甘やかされたダメな子ども」と言われなくても済むだろうに、と悲しかった。あるいはわざとズル休みをするような計算ができる状態、自分で自分をコントロールできる状態ならまだマシだとも感じた。
実際、中学生の頃は親が共働きしていることをいいことに(!)こっそりズル休みをして、午後のテレビで放映される洋画を見ていた記憶がある。今思えばその頃こそ本気で「怠けている」わけだが、「ズル休みをしている」とか「性格に問題がある」という(当時からすでに存在していた)世の中からの罵倒に対してはむしろ開き直っていた。おそらくそれはズル休みをしながら、でも適当にやり過ごして中学を卒業する「自分」というセルフイメージにそれなりの自己満足を得られていたからである。そのセルフイメージには優等生なのに時々ズル休みをして本を読み耽るという氷室冴子の小説『恋する女たち』の登場人物に影響を受けた要素が多分にあったのかもしれない。
むしろそうした打算的なズル休みではなく、学校に行こうするとわけもなく足が動かなくなる、気分が悪くなる……という事態に陥ったときこそ、「自分はこの社会において弱くてダメな存在、生きていくことを許されない存在なのだ」と、世間のバッシングが自分のど真ん中を射抜くような感覚があった。
その後の人生のなかで、パラサイトシングルやフリーター、あるいは生活保護の受給者や障害者手帳を取得する人間に対しても、「怠けている」とか「ズルい」、「本人の性格の問題」というバッシングがメディアやインターネットなどで折々登場するのを目の当たりにしてきた。また私自身の話ではないが専業主婦バッシング(国民年金や厚生年金の第3号被保険者バッシング)にもどこか共通点を覚え、これらの罵倒が個人の問題でないこともはっきりわかってきた。社会構造に問題があり、既存のシステムからこぼれおちる人が多くいるのに、あくまで個人の選択、自己責任、能力の問題とされる。かつ「賃労働せずに生きている」存在であれば、バッシングはより激しくなる。しかし、そうした罵倒が、遺産や投資などで儲けられる階層(いわば「資本家」とよばれる非労働者層)に向けられることはまずない。
しかし(これは個人差があるかもしれないが)とりわけ私は登校拒否時もそうだったが、うつ病のひどいときほど「怠けている」とか「ズルい」とか「本人の性格の問題」という言葉が刺さってしまう。文字通り心身が弱っているからこそ、世間のバッシングを弾き飛ばせないでその言葉がそのまま自分に向かってしまう。シモーヌ・ヴェイユという哲学者が「不幸があまり大きすぎると、人間は同情すらしてもらえない。嫌悪され、おそろしがられ、軽蔑される」(注2)と上記バッシングを暗示するような言葉を残しているが、私にとってうつ病とは人からの同情はもとより、自分に対する嫌悪や軽蔑を抱いてしまう病なのだ。
あらためてうつ病について調べると興味深いことに、まずは“真面目な人がなる”、“完璧主義者がなる”と書かれていることが非常に多い。私が不登校(登校拒否)状態となった30年以上前、最初に読んだうつ病についての本でも、このように書いてあった覚えがある。
でもこのような書き方は二つの点でくせものだと思う。一つは病を個人の性格の問題に帰してしまう点だ。うつ病患者が100万人を突破しているとも言われる昨今、性格の側面だけ指摘しても何の解決にもならないのが現状である。そしてもう一つ、「真面目な人がなる」の場合、「あんなに真面目に働いていたから仕方ない」といった、いわば病気に対する「免責」が性格によって行われていく点も問題だ。というのも「新型うつ」という病名が昨今登場しているからだ。
これは従来型の「完璧主義」や「真面目」あるいは「自分を責める」といったタイプではなく、他人を責めるといった「他責型」であり、また仕事はできないが遊びはできる「自己優先型」ということで、「人のせいにしているくせに遊ぶことは平気でできる」と人々の不信を買うケースが目立つのだという。しかしこれは考えてみれば不思議な話で、「他責型」として本当に人のせいにして自分に責任はないと考えているなら落ち込まないで済むはずだが、実際には会社に行けず寝込んでしまうケースが多々ある。また同じことをしても年長者がやるなら「自己優先」とはみなされにくいが、若い人の場合、より批判されやすいのではないか。性格の判断は残念ながら、その相手の属性にも大きく左右されるものでもある。変な言い方だが、新型うつが話題になるのは症状そのものよりも、「人の怒りを買う」点にあるといっていい。それは「みんなが仕事をしているのに怠けている」といったものだ。うつを論じた専門書のなかには、「新型うつ」を単に個人の問題とはせずに、社会全体のあり方について提言している書籍もある(注3)。だが社会の変革を求める視点はメイントピックにはならず、「社会的な背景も原因」といった書き方にとどまってしまう。
それこそ私が不登校だったときに「ちゃんとした病気なら学校に行けなくなっても仕方がない」と自分は悪くないのだと免責を願った。それほどにバッシングが酷いという点では免責を願う気持ちを責めるつもりはないが、最も肝心な問いは、「仕事をしないでいる(とみなされる)人に対してなぜ人はかくも怒りを覚えるのか」という点である。そしてさらに気がかりなのは職場での罪、それこそ「横領」「賄賂」「癒着」あるいは「ハラスメント」よりも、「怠けている」人に対する視点の方が非常に冷たいものとなっている点である。「怠けている」と「ズルい」は大抵コンビで、例えばある人が「仕事をしていない」のに上司の覚えがめでたいがためにクビにならなくて「ズルい」のならば、焦点を当てるべきはその上司の態度である。
それこそ前回の連載でハラスメントを受けた側の人間が、心身を追い詰められて仕事を辞めざるを得なくなるのに対して、他方で賃労働をしている際にハラスメントを行なっている側は結果的にハラスメントをしていてさえも賃金が支払われる理不尽について書いた。仮に本当に怠けている人がいるとしても、それが見過ごされているならば会社のほうに問題があり、批判も管理者へと向けられるべきだ。しかし社員が困っていても会社は問題を直視せずのらりくらりと対応を避け、社員同士の人間関係がギクシャクしてしまうパターンも多い。子育て中の社員のフォローを独身社員がさせられるといったエピソードはその典型だ。子どものケアをしている場合ですらフルタイムの社員から「怠けている」と言われてしまう場合もある。まして新型うつのように「働けないけれど気晴らしの旅行はできる」といった社員の穴埋めを、「あなたは働けるから」と会社から一方的に押し付けられれば、社員同士の人間関係はギクシャクするに決まっている。経営層に訴えず、個々人で揉めるレベルにとどまって業務が回せれば、人を増やしたり、賃金を上げるなどの手を打たずに済み、会社としてはこれほど都合のいい状態はない。そうやって問題を弱い立場のものになすりつけて何十年も生き延びている会社組織はごまんと存在することだろう。
考えてみれば不登校/登校拒否をしている人に対して「ズルい」だの「逃げている」だのとなじるのは奇妙な話だ。学習や教育はそれこそ学習する人が持っている「権利」であって「義務」ではない。義務教育というのは教育を保障する側の「義務」であり、教育を受けることは「権利」だ。何が「権利」で何が「義務」なのかという問題を本気で考えることが、「怠けている」という無意味な個人へのバッシングに対する真の処方薬になるのかもしれない。
しかも最近わかったことで言えば、うつ病にも性差があり、男性に比べて女性は約2倍うつになりやすいという(注4)。そういえば新型うつも女性が多いと言われるが、この性差はいわゆる「身体的」な違いだけでは語れるとは思えない。歴史的にどのような属性にこうしたバッシングが多くぶつけられてきたかを考えるべきだ(注5)。
逆に人に対して「怠けている」とか「ズルい」とか言いたくなるときに、その責任が本当はどこにあるのか、そして責任を負うべき立場の人や組織にその責任をどう負わせるのかということをもっと多くの人が一緒に考えられるといい。それこそが問題を個人化、矮小化させない鍵だろう。「怠けている」という言葉の裏に「自分はこんなに嫌なことをしているのに!」という叫びがべったり張り付いている。しかしなんでそんな嫌なことをあなたがしないとならないのか? 怠けていると言いたくなるとき、むしろ問うべきはそんなふうに人をくさしたくなるほど嫌なことをしなければならない状況や環境だ。
そして「怠けている」とバッシングを受けたときに必要なのは、自分が怠けていい免罪の理由を探す前に、「なぜ怠けてはいけないのか?」と問い返すことなのだが、実際に調子が悪くなるとそのように考えることも難しくなる。でもそのときは静かに横になることによって、他人への、ひいては社会への地味な問いかけになっているかもしれない。そして何より怠けていようが寝ていようが病んでいようが、あなたが今存在しているということを否定できる権利を持つ人は誰もいない。いてはならない。あなたが今はただ眠ることで生き延びているならば、それは大事な営みなのだ。賃労働とは真逆であっても。
(注1)1992年に「学校不適応対策調査研究協力者会議」が「登校拒否(不登校)問題について――児童生徒の『心の居場所』づくりを目指して――」(文部省初中教育局〈当時〉)を発行。「特定の子どもの性格傾向」やそういう子どもを育てた親の「養育責任」に原因を求めるのではなく、「登校拒否はどの子にも起こりうる」と発表した。この発表の時期から、「特定の子どもの性格傾向」に焦点を当てるように使われてきた「登校拒否」から学校に行っていない状態を示す「不登校」という言葉が多く使用されることとなった。
(注2)『重力と恩寵』シモーヌ・ヴェイユ著、田辺保訳、ちくま学芸文庫、2004年(初出は1974年1月講談社より刊行)
(注3)『「新型うつ」とは何だったのか――新しい抑うつへの心理学アプローチ』坂本真士編著、遠見書房、2022年
(注4)「うつ病の性差について」杉山暢宏・田名部はるか『信州医学雑誌』66巻3号、185~193頁、2018年
https://www.jstage.jst.go.jp/article/shinshumedj/66/3/66_185/_pdf
(注5)積極的なバッシングもさることながら「マイクロアグレッション」と呼ばれる「ある人が(例えば有色人種、女性、LGBTの)集団に属していることを理由として、日常的な何気ないやりとりの一瞬の中で受ける抽象的なメッセージ」や「かすかな(言語的、非言語的、そして/または視覚的)侮辱」を受けることによって「怒りと失望を引き起こし、精神的活力を枯渇させる。また幸福感や、自分は価値ある存在だという感覚を低下させ、健康上の問題を引き起こ」すという研究発表もある(『日常生活に埋め込まれたマイクロアグレッション――人種、ジェンダー、性的指向:マイノリティに向けられる無意識の差別』デラルド・ウィン・スー著、マイクロアグレッション研究会訳、明石書店、2020年)。