第7回
世界は無償労働で回っている――有償労働と無償労働の違いって?
[ 更新 ] 2023.04.20
五十路を目の前にした私などより、よほど落ち着いた物腰の学生から質問を受けた。大学講師をしている知人から女性の労働問題について語ってほしいという依頼があり、ある大学でゲスト講師をしているときのことである。
もちろん私が行う授業なので、女性の労働問題といってもキャリアアップとか仕事と家事のバランスを取るにはどうしたらよいのかといったワークライフバランスの話になるわけがない。女性が多い職種がおしなべて低賃金であること、コロナ禍では社会維持に必要という公衆衛生的観点から「エッセンシャルワーク」と呼ばれるようにもなった医療の仕事は、賃金はある程度保証されていても激務ゆえの圧倒的な人手不足であり(私が高校時代に病院で看護助手の仕事をしていた時代からとりわけ看護師は人手不足なのだが)、また衛生商品や食料を販売するドラッグストアやスーパーマーケットなどのスタッフ、介護、保育などの仕事も生命および生活には不可決であることが浮き彫りになったはずなのに、激務+低賃金でかつ非正規労働が多いことも語った。
そして「生きる上で絶対に必要な仕事に対して“誰にでもできる”などとみなされ、低賃金で働かされているのは解せない。そもそも誰にでもできる仕事などないし、ましてや世の中で不可欠な仕事の価値を低く見積もる社会はおかしい。これらの仕事について時給1500円を目指すという運動があるが、たとえ達成されたとしても、年収で換算すればわかるように、決して高収入になるわけではない。いわゆる男性並みの働き方を目指す前に、このような労働の有り様こそ問うべきだ」と伝えたことに対して、冒頭の質問が私に向けられたのである。
「先生」という慣れない呼称に多少の居心地の悪さを覚えつつ、「1968年にニューヨークで起こったゴミ回収業者によるストライキに対して、当局はスト10日目に音を上げ、待遇改善を勝ち取った」(注1)という話を引用し、
「もちろん、ただ黙っているだけでは、残念ながらエッセンシャルワーカーの賃金が良くなることはないでしょう。しかしカリフォルニア州でも、最賃15ドルを求める運動を20年近くかけて実現させました。さまざまな抵抗や交渉を試み、続けることで未来を変えることはできるはずです」
といった回答をしどろもどろに行った。
とはいえ、私にとってこの学生からの質問は考えさせられるものだった。というのも人件費削減を「万人が必要としているサービス」という理由で正当化できるという考え方ほど、資本主義の観点や価値観を端的に表したものはないと思えたからだ。この質問をくれた学生は、資本主義の本質を私よりもよくわかっているなあとしばし感慨に耽った。
それはともかく、万人が必要なサービスの価格を安くするために、それこそ文句を言わない大地や水などの自然をどんどん利用しまくっていいという価値観や、そのサービスにかかわる人件費を削ってよいという発想や価値観はどこから生まれてきたのか。そしてどうしてここまで社会の奥底に浸透しているのかと、賃金をめぐる問いは私の中から芋づる式に引き出されていく。
さらに恐ろしいと思うのは、人件費を削り賃金が安くなることで、むしろ多くの人が「安い賃金の仕事だから、誰にでもできる仕事だ」と原因と結果を逆さまに認識している可能性さえあるということだ。
あるいはジェンダーの問題に絡めて言えば、日本社会が女性に求めてきた(それこそ東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長だった森喜朗が発言したような)「わきまえた」感覚を持った女性が、自分の行ってきたことを「たいしたことじゃない」と思う/思わされてきた可能性もある。
病弱で偏食が激しく、じっと座っていることが苦手だったという自分の子ども時代の話を母親から聞いたときに、「正直、子育てって誰でもできるとは思えない。自分みたいな子どもを私が育てられるとは思えないし」と伝えたところ、「でも、お母さんになっている人はいっぱいいるじゃない。難しくないわよ」と言われて、複雑な気持ちになったことを私は忘れられない。そして私は今日に至るまで子どもはいないのだが、自分に子育ては難しいと思ったこともその理由の一つではある。
日本社会でいわゆる「誰でもできる仕事」と「専門的な仕事」の境界を決めるのは学歴や資格だ。逆にいえば体力や気力、人とのやりとりの力……今流行りの言葉で言うところのコミュニケーションスキルは、「誰もが当たり前に持っているもの」とみなされ無視されてきた。
コミュニケーションスキルと言ってしまうと、結局営業などでものをうまく売るためとか、コンペでのプレゼンテーションをうまくやるといった能力になってしまう。ここで私が言いたいのは営業やプレゼンの能力の話ではなく、人をいじめたり見下したりしない、目下のものに威張らない、当然ハラスメントなどをしない人間関係を営む力というか、コミュニケーションのことなのだが、これらは全く評価の対象とされてこなかった。
評価されないどころか、「競争主義」という価値観のもと、「いじめやハラスメントを受けるような弱いものは淘汰されるべき」と考えられてきたのではないか。そうでなければ、ここまで職場の中、日本の社会の中でハラスメントが横行している理由が、私にはわからない。
2023年4月6日に、東京地裁で早稲田大学におけるセクシュアル・ハラスメント被害をめぐる民事訴訟の判決が言い渡された。この訴訟の原告(ハラスメント被害を受けて訴訟した側)である詩人の深沢レナさんは記者会見の場において、「個人が教員、ましてや大学という組織と戦うとなると、その情報量や経済力に圧倒的な差が生まれます。関係者のヒアリング内容、入試の合格決定のプロセス、個人情報……大学はあらゆる情報を保持している一方で、一個人にすぎない被害者は、大学に対抗するべく、それらの情報を必死にかき集めなくてはなりません。自分で一人一人に頭を下げて周り、文献を調べ、専門家に意見書を依頼し、弁護士費用も個人で負担することになります。書類作成をすることもありますが、もちろん無給です」(傍点は引用者)と語った(注2)。
セクシュアル・ハラスメントを行った被告の渡部直己元教授は講義中もセクハラをしていたし、裁判では認められなかったが、そもそも入学選考の段階から深沢さんにハラスメントを行っていた。そして渡部直己元教授のみならずハラスメントを矮小化した大学側の調査や、二次加害を行った他の教授たちにも、考えてみれば仕事として賃金が発生しているのだ。
そして無償労働とかアンペイドワークの問題でさらに考えたいのは、「誰かのために行う(≒支援者的行動)」なら「労働」としてみなされやすいのに対し、「わたし、あるいはわたしたちのために行う(≒当事者的行動)」こととなると労働とはみなされない現実についてだ(注3)。
原告側弁護士は、判決について「ハラスメントによる人権侵害の事実を埋もれさせず公にし、その大学の責任を問うことができた。深沢さんは『黙っていることで次の被害を生む』ことがないようにと願って裁判を起こしたわけだが、その役割は何とか果たすことができた」とまず報告があった。一部ではあるが大学側の責任や二次加害を認めたことで、今後のハラスメント裁判にも影響を与えるはずだ。この後に続く人たちにとって、この裁判は意義深いものとなったことだろう。つまり「誰かのため」になっていく裁判のはずなのに、その訴訟を起こす準備や労力に対しては無償である。教授となればハラスメントを行いながらも労働としてお金をもらえるが、多くの人の未来に力を与えうる訴訟を起こした立場は無償。あまりに不均衡だと思うのは私だけだろうか。
今までさまざまな労働や社会運動や学校などにおけるハラスメントの話を聞いてきたが、ふと「仕事をしている中でハラスメントを行うということは、労働の対価であるはずの賃金が、結果的にはハラスメントにも賃金が支払われている状態になる」と閃き、愕然としたことがある。
ハラスメントで心身を壊した人、会社を追われた人、自死した人はおそらく数えられないほどいるはずだ。その損失は計り知れず、加害者は今なお平然と社会生活を送っていたりすることに怒りは覚えていた。だが、被害者の多くは職場を追われ、病気になってお金がかかることもあるのに、多くのハラッサーはハラスメントをしながらしっかり収入も確保している……と思ったときにあまりの理不尽に膝から崩れ落ちそうになった。
そういえば私の知人はあるNPOの相談員として、相談者の病院探しをサポートしていた。のちに知人自身がうつになって病院を探す必要があった際、心身の調子が悪いこともあって、よっぽど苦労したらしい。それにもかかわらず「自分のこととなるとお金は出ないんだよなあ」と話してくれたことがある。
早稲田大学のセクシュアル・ハラスメント裁判の件について今ここで書いている私だって、「自分ではない誰かのことを書く」ことで原稿料というお金を得るわけで、この有償/無償、あるいは支援者/当事者の歪んだ仕組みに無関係ではない。私自身にもブーメランは突き刺さっている。
そんなブーメランを抱えながらも、考えてみればこの社会を動かしてきたものは、たいてい無給が出発点であることに思いを馳せる。
2021年12月、NHKのBS1スペシャル「河瀨直美が見つめた東京五輪」というオリンピック公式映画を撮影する河瀨直美を密着取材する番組が放送された。その中でインタビューに応じた男性に対して「五輪反対デモに参加しているという男性」、「実はお金をもらって動員されていると打ち明けた」との字幕がつけられたが、その後の調査で男性が反対デモに参加していた事実を確認できていないことが判明するという事件があった(注4)。こんな不適切な字幕が平然とつけられた背景には、無償で社会のために動く人がいることを、今の世の中では信じられない人が多くなっているからなのだろうか。2020年には愛知県知事・大村秀章氏のリコール(解職請求)署名に大量のアルバイトが動員されていたという報道もされていたが(注5)、権力的な思考の人こそがこういう偽造を画策し、お金も得られないのに社会に向けて動こうとする人の存在を信じられないのかもしれない。信じられないからこそ、無償で行われる行動をバカにするだけではなく、存在しないとさえ言いふらすのだ。
愛知県知事のリコール署名偽造は右翼的な思想の人間が黒幕ではないかと推測するが、左派にとっても他人事ではない。早稲田大学のセクシュアル・ハラスメントの加害者の渡部直己や二次加害を行った教授、さらに沈黙というかたちでハラスメントに声を上げなかった関係者はリベラル、あるいはフェミニズムに造詣が深いと思われる人たちだった。ハラスメントをしてもお金が得られるという立場は、逆にいえば、意識的であれ無意識的であれ、自分の立場を危うくするような振る舞いはしないといった保身に繫がりやすいだろう。また、自分の社会的な立場が危うくならない程度に他の運動や社会問題にコミットすることで、お金も名誉も得やすくなるというメリットもある。
アメリカの文化人類学者のデヴィッド・グレーバーのつくった「ブルシット・ジョブ」(注6)という言葉がある。これはお金を儲けることはできるが社会的な意味を見出せない仕事を指すのだそうだ。逆に社会的に意味はあるが、低賃金で不安定な「シット・ジョブ」(エッセンシャルワークが置かれている立場)と対比して「ブルシット・ジョブ」は語られる。それならば社会的には名声を得られて、ハラスメントをしながらもお金が得られる仕事についても何か命名した方がいいのではないだろうか。
考えてみれば、医療や教育など本当の意味で人々の命を支える社会福祉にでなく、「軍隊」や「戦争」の方に莫大なお金を回すという矛盾。その「軍隊」や「戦争」のイメージが労働とも結びついているように思えてならない。日本軍には理不尽ないじめやビンタが横行しており、かつて「従軍慰安婦」と呼ばれた戦時性暴力被害者が後を絶たなかったわけだが、日本の労働事情はそのような日本軍的な価値観に近いものを感じる(いまだに上層部が男性ばかりというのも象徴的だ)。
「わたし」や「わたしたち」で動く抵抗や行動に対してお金が支払われる仕組みを作るのは難しいし、今の社会に流布する「お金をもらったなら言うことを聞け」という価値観のままでは今度はスポンサーに縛られ自由な行動ができなくなる恐れもある。それならば少なくとも「金を稼げない/稼がないこと」を見下し、「金を稼げない/稼がない存在」を社会から抹殺しようとすることをまずはやめてくれ。某政治家が語る「生産性」やGDPで測りきれないが、この社会を支える労働はいくらでもあるのだ。
(注1)1968年2月2日からニューヨークで行われたゴミ回収業者のストライキは9日間に及び、「私たちはゴミを扱っているが、私たちはゴミではない」という主張のもと、さまざまな妨害を受けながらも待遇改善を勝ち取った。その後ゴミ回収業者のストライキはメンフィスではアフリカ系の人々を中心に、さらにボルチモア、ワシントン、アトランタやマイアミなどにもストライキは広がった。
参照:MUNDO OBRERO WORKERS WORLD "Sanitation workers’ strike 1968 — solidarity and resistance"
(1968年のごみ収集作業員のストライキ――連帯と抵抗)
https://www.workers.org/2018/02/35662/(英語サイト)
(注2)裁判の内容や深沢レナさんの発言は「大学のハラスメントを看過しない会」(以下、「看過しない会」とする)によるウェブサイトから引用したものである。
参照:「第一審・東京地裁判決 記者会見の報告」
http://dontoverlookharassment.tokyo/2023/04/09/20230406/
この会は、「2020年夏より活動している早稲田大学文学学術院元教授の文芸批評家からハラスメント被害に遭った原告A/深沢レナさん、その支援者たちからなる団体」であり、私自身は深沢レナさんからインタビューを昨年夏に受けたことをきっかけに、裁判の傍聴をするようになった。インタビュー内容も同ウェブサイトに掲載されている。
http://dontoverlookharassment.tokyo/2023/02/08/kurita1/
(注3)アンペイド(不払い)であるか、もしくはNPOなどの福祉的な労働を「半ペイドワーク」(半分の賃金≒低賃金)と語る学者もいる。
参照:シンポジウム 上野千鶴子『活動と労働のあいだ――半ペイドワークをめぐって』「共生社会研究」no.4、2009年、大阪市立大学共生社会研究会発行。
(注4)「河瀬直美が見つめた東京五輪」の字幕問題について、NHKは誤りを認め番組を制作した大阪放送局のディレクターとチーフプロデューサーを停職1カ月とするなど、計6人を懲戒処分にした。しかし、デモを行ってきた人々に対して金で動員しているかのような印象操作を行ったことに対する謝罪はなされなかった。2022年9月、BPOの放送倫理検証委員会からこの字幕問題に対して「重大な放送倫理違反があった」と公表。「結果として五輪反対デモや、それ以外のデモ全般もおとしめるような内容を伝えてしまった。あえて声を出している人の尊厳を傷つけることになってしまったことの重大さをNHKはかみしめてもらいたい」という指摘がなされた。
(注5)2019年8月に開幕された「あいちトリエンナーレ2019」での企画展「表現の不自由展・その後」が戦時中の「慰安婦」を象徴する少女像をめぐって名古屋市長の河村たかし氏が抗議の座り込みを展開し、「あいちトリエンナーレ2019」の負担金の一部を支払わないことを決定。負担金の一部を名古屋市が支払わないのは不当として、愛知県などでつくる芸術祭実行委員会は2020年5月に名古屋地裁に提訴した。提訴後、「高須クリニック」経営者の高須克弥院長が6月1日、大村秀章愛知県知事のリコール(解職請求)活動をすると発表。2日に自身を代表とする政治団体「愛知の未来をつくる会」(仮称)の設立を県選管に届け出て、リコールに必要な署名を集めるものの43万人分にとどまり、さらに2021年2月には愛知県選挙管理委員から提出された約43万5000人分の署名の83.2%となる約36万2000人分が無効との調査結果が判明。その後中日新聞と西日本新聞の共同取材で、多数のアルバイトが佐賀市で愛知県民の名前などを署名簿に書き写していたことが発覚した。
参照:中日新聞「イチから知りたい~リコール署名偽造問題~」
https://www.chunichi.co.jp/article/214140
(注6)デヴィッド・グレーバー著 、酒井隆史・芳賀達彦・森田和樹訳『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』岩波書店、2020年