第2回
「正規雇用」の「正」ってナニ?――正規雇用と非正規雇用の分断の正体
[ 更新 ] 2022.11.18
女性の労働問題に関する集会で、ある参加者がこのように語ってくれたことがある。 正規 雇用、 非正規 雇用などとあまり深く考えずこの言葉が使われている向きがあるが、いったいぜんたいこの「正」とは何を意味しているのだろう? 誰が、どこから、どんな目的で、なんのために労働のあり方を「正」と「正に非ず」に分けているのだろうか。
今の日本社会でとかく胡散臭く思われているのが「正」という概念である。正義などという言葉を使おうものならTwitter等のSNSでは「自分が正義のつもりで何様だww」「正しさを振り回すな」「戦争は自分が正義だと思うところから始まる」などなど言われる。確かに戦争は古来「聖戦」「悪の枢軸を倒す」「大東亜共栄圏を守る」などなどといった大義名分を謳って行うのが常であったから、正しさを疑いたくなるのはわからなくはない。
だが意外なことに、「労働」というジャンルで「正規労働」「非正規労働」などという言葉が使われたときにその「正」概念に正面から冷笑したり、突っ込んだり、憤るようなSNSの書き込みはものすごく少数派だ。非正規労働者から正規労働者への移行が極めて難しく、実質「身分制度」のようになっているというのに、それでも労働者を分断している「正」概念そのものを疑われることは極めて少ない。いや、「疑い」が希薄である事実こそが「身分制度」とよく似ているのかもしれない。身分制度はその制度を疑問視できないからこそ身分制度足りうるのであり、正規雇用と非正規雇用の分断とは、この「正規雇用」だの「非正規雇用」という言葉や概念そのものを人々が驚くほどすんなり受け入れてしまっていることから始まっているように感じる。
それならばあらためて正社員だの、正規雇用だのの「正」はどこから生まれたのかを調べるのが今回の目的だ、とあれこれ検索したところ、「正社員の意味と起源」という論文を発見(注1)した。その冒頭には下記のように書かれている。
「『正社員』という用語が一般的に使われるようになるのは1980年前後からであり、その原因はパートタイマーの増加であったと考えられる。時代的にみれば、『社員』というステイタスは戦前の『エリート』から戦後『ふつうの従業員』へと徐々に変化していく。そして、1980年代に入って『正社員』という雇用身分が新たに一般化する」
「雇用身分 (傍点は引用者)」として身分という言葉が当然のように使われているのにも驚くが、そもそも「正社員」という言葉が高度成長期後でバブル前という時代に生まれた比較的新しい用語だったことに驚いた。しかも「正社員」が生まれた背景はパートタイマーの増加が理由であり、「常用パート(常用雇用のパートタイマー)を析出するため」とあるのだ。
え、それじゃあパートタイマーが現れたからその差異を表すがために「社員」という言葉の前に「正」ってつけたの? といきなり答えに行き着いて愕然とした。この時代のパートタイム労働者のほとんどは既婚女性である。となれば、この連載第1回で「恒常的に賃労働をしている状態が、普通の人にとってはかつては空気を吸うように当たり前だった」と言及した上でこの「普通」とは「日本に住む日本人、日本語話者、健常者、異性愛者でシス男性、さらには首都圏出身などなどといった『マジョリティの詰め合わせ』みたいな存在だったことが明らかになっている」と書いたが、この正社員の属性がフルタイムで働くパートタイマーと分けたいがためだったのであるならば、正社員であることとパートタイム労働者の違いは能力とか実力だとかいう話でもなんでもなく、まさに最初から「マジョリティの詰め合わせ」か否かに過ぎないということになる。しかも80年代初頭はまだ男女雇用機会均等法さえ存在しておらず、「女性は募集しない」などと雇用の段階で周知してもなんの問題もない時代だったのだから、なおさらである。
しかも日本ではパートタイマーという働き方が本当に短時間労働だったわけでもない。それは和製英語ここに極まれり、というべき「フルタイムパート」という言葉が証明している。パートタイム労働者が増えた時点で、同一労働同一賃金、あるいは同一価値労働同一賃金という賃金システムに踏み切らなかったことはのちの時代まで深く影響を及ぼすことになった。1980年以降はパートタイム労働者が増えたというものの、それ以前は圧倒的に専業主婦が多く、しかもアメリカやヨーロッパでは景気が悪くなっていたが、日本はバブル景気でいわばイケイケの時代に突入していったために既存の制度を反省し変革する必要を感じていた人は少なかった。労働条件におけるジェンダー面の改革もこの時代に徹底的になされることはなく、多くの人が指摘しているように1985年にほぼ同時に成立した「男女雇用機会均等法」「派遣労働法」「第3号年金」という制度によって、それぞれごく僅かな「男性並みに働く女性」、「派遣労働者」あるいは「有期契約で働く女性労働者」、第2号年金受給者(実質サラリーマンの夫)を補助する専業主婦たる「第3号年金受給者」といった女性像を作り上げ、女性同士もまた制度的に分断されていった。もちろんこれは大まかなイメージであり、女性同士の分断はさらに巧妙に作られている。
私の母親は80年代、それこそフルタイムパートとして某大手企業で設計図を描く仕事をしていた。その頃彼女がこんなことを話してくれた記憶がある。
「正社員の女性たちが、私たちの仕事を羨ましがるのよね。手に職があって、やりがいがある仕事で羨ましいって。正社員の女性たちは2年もやればもうその職場にいられなくなるから」。またあるいは「正社員の男性と一緒に仕事を長くするのは私たち(フルタイムパート)で、正社員の女性たちはコピーしたり、お茶を汲んだり、雑用ばかりなのよね。やっぱり手に職をつけないと」
なにぶん小学生だったので母の言わんとしている意味はほとんどわかっていなかった。わからないからこそなるべく覚えておくことにしているのは私の性分なのかもしれないが、そもそもこんなことを小学生相手に話す母も母である。だが私の労働への疑惑の原点にもなってくれているので、今は感謝してはいる。
……と、話が逸れたが、この話から垣間見える企業の奇妙な、というか巧妙なやり方を指摘したい。つまり多くの女性正社員の雇用(男女雇用機会均等法以降は「一般コース」と呼ばれる)は、給与はそこそこでも、その女性たちの担う仕事はいわゆる「やりがい」を感じられずすぐに辞めても問題なく、なんならそこに勤める「正社員」の男性と結婚すればなお年金制度的にもよし、といった扱いにした。他方で既婚女性のフルタイムパート労働者にはやりがいのある長く続けられる仕事を与える代わりに、月給が20万に届くことは決してなく、また既婚者でもあるので社内結婚を暗に望まれることもない……。男女の分断の前にまず女性間での巧妙な待遇の違いを示すことで、男女雇用機会均等法以降ならばいわゆる「総合職」の正社員の枠組みにまで疑念を抱かせないようにする……そんな手口のように思える。正社員の枠組みを疑う前に正社員間にも違いをつけ、さらに女性正社員とフルタイムパート労働者のどちらも条件が十全でなく「酸っぱいまんじゅうか辛いまんじゅうのどちらかを選べ」みたいな選択になっている。そして当の「正社員」の働き方を支えているのは「専業主婦」と呼ばれる女性だ。そしてこの専業主婦の立場も、この資本主義社会の中で「稼働能力のない存在」としてとかくバッシングの対象となる代わりに第3号年金だの税控除だのの制度によって「メリットもある」ということで声を上げにくくする。そうした専業主婦の人たちの多くは正社員でも軽視されるという経験をしてきた女性だったのかもしれない。そうであれば仕事に活路を見出すビジョンも見つけられない。
何という巧妙な分断だろう。女性の分断とはいわば「正規労働」の「正」概念に疑念を抱かせないための罠なのではないだろうか。
そして結局のところ正社員たる男性が専業主婦、あるいは安い賃金で働くパートタイムの女性を養うというかたちの「性別役割分業」は未だにはびこり、年金制度もその性別役割分業を根元に据えてしまったことこそが現状の正規労働者・非正規労働者の分断の理由の大きな原因なのである。言ってみれば正規雇用・非正規雇用の分断の根っこにはジェンダーの問題が横たわっており、この「正」はまさに男性……というか前回で触れたような「マジョリティの詰め合わせ」を表す「正」なのだ。新自由主義の経済においては、この「正社員」の良い待遇の部分も隙あらばどんどん切り崩そうとしているものの、今なお労働条件で有利なのは「マジョリティの詰め合わせ」であることに変わりはない。
ちなみにこの1980年代以前は正社員という言葉はなく、ただの「社員」としか呼ばれていなかったわけだが、専業主婦率が上昇していく最中での高度成長期の流行語、「モーレツ社員」は当然男性を指し、「社員」といえばこれまたほぼ男性であるのは自明なことだろう。
ところで「社員」という言葉は法律用語では本来社団、特に社団法人の構成員や、株式会社の構成員である株主などを指すという。つまり、株主総会などで会社に関する重大事項を決定できる立場が「社員」なのだ。なぜ日本ではこれが従業員を指すようになったのか。前述の論文では「これには『企業のメンバー』であるというニュアンスがあり、それが『会社の一員』ということを短縮した形で『社員』という言葉になったのかもしれない」とある。いわゆる終身雇用が前提(しつこいけどあくまでマジョリティ詰め合わせの人のみ)の日本大手企業は社宅や住宅手当など福利厚生が存在しており、また「職場結婚」という言葉が存在していたように企業が家族形成の軸となっていた。そのような環境においては、「企業のメンバー」というのは単なる公的な関係性ではなく公私が混ざり込んだメンバーシップとなっていた。日本語はなんでもひっくり返せば本音が出ると言った人もいるが、「社会」というのは実質「会社」であることもその一つなのだろう。さらにこの社員をさまざまな社会の中心に据えるやり方は、資本家と労働者の対立という、資本主義の根源とも言うべき「労使対立」を際立たせず「労使協調」路線へと誘導し、資本主義への疑念を逸らすのにも都合が良かった。先ほど女性同士の分断を作ることによって「正社員」の枠組みへの疑念を逸らすと書いたが、本来なら株主を指す「社員」を従業員の呼称にすることで「労使関係」という資本主義のもとでの緊張感のある関係を見えにくくさせ、家族のような運命共同体として企業や株主の存在を認識させるのに良いやり方だったのかもしれない。事実「社員」という言葉が使われだした頃に、エリートを指す「社員」が普通の従業員へと変わっていったが、それは日本の労働運動が徐々に後退していった時期と重なる(注2)。
正社員とそれ以外といった分け方そのものは80年代から始まったわけではなく、たとえば大企業の工場などでは「本工」(大企業の生産工程に就労する常用労働者〔正規雇用〕)、「臨時工」(短期の労働契約で雇用されている、主として製造工程に従事している労働者)という雇用区分がなされていた。この本工という言葉は現在ではほとんど使用されていないが、労働運動の中で企業組合における「正社員中心」の労働運動を「本工主義」と言ったりするところにその痕跡を残している。そして臨時工の主要な層は減反政策などで生じた農村部の過剰労働者たちの階層であった。しかしここで注目したいのは、臨時工が多く存在していた時代には、労働供給(すなわち労働者側)の研究が非常に多かったという事実だ。そして臨時工が減少していくにつれ労働需要すなわち企業側の研究が増加したという。臨時工が減少していく時代とパートタイマーの非正規労働者が増加していく時代は重なっているが、多くの日本の労働研究は「このことを視野に入れなかった」(注3)というのだが、これはどう考えてもパートタイマーの多くが既婚女性だったからではないか。既婚女性がパートタイマーであることを当然のものと決めつけ研究すら手薄になったというのであれば、女性労働者への「軽視」の根深さは凄まじい。それこそ2000年代に時給かつ有期契約で働き出したのが大卒の日本人健常者男性だったことにより注目された非正規労働者問題だが、それは「臨時工」が注目された時代の焼き直しというか、同一線上の価値基準の発想だったといって良いだろう。臨時工の問題は60年代には廃れていたというから、もはや戦後から現代に至るまで女性労働を軽視し続ける日本の労働史に吐き気を覚えるのだが、皆様いかがだろうか。
(注1)久本憲夫「正社員の意味と起源」季刊『政策・経営研究』第2巻 2010年
(注2)たとえば三池炭鉱で1959~1960年に起きた争議以降は炭鉱労組は徐々に衰退の道を辿る。その時代からエリートとしての「社員」ではなく一般的な従業員としての「社員」が増加する。
(注3)遠藤公嗣「日本的雇用慣行の最終的確立は何時なのか?――雇用調整の機能をになう労働力の変化に注目して――」社会政策学会誌『社会政策』第8巻第1号 2016年