第299回
忘却の沼。
[ 更新 ] 2026.03.10
近所の神社まで、初詣に行く。
昨年のお守りや、お札などをおさめる場所があるのだけれど、以前そこにほかの神社で買ったものをおさめに行ったら「うちで買ったもの以外は、お金を払っておさめてください」と言われて以来、なんとなく足が向かなくなっていたのだけれど、久しぶりに行ってみたのである。
久しぶりに行ったのは、正直に言うならば、なぜこの数年間初詣に行っていなかったのか、実はすっかり忘却していたからだった。小さなお札をおさめるために、お札を買った時よりも高いお金を払わなければならないと告げられた時の驚きは、日々もの忘れをしてゆく間に、一緒にすっぽりと抜け落ちていたのである。
今年はおさめるべきお守りなどはないので、お参りした後もなぜずっとお参りに来ていなかったのか、全然思いださず、「こんな気持ちのいい神社に、どうしてずっと来なかったんだろうか」などと、呑気にしていた。
お賽銭もあげ、柏手などもうち、さて帰途につこうかと神社の横手を歩いてゆくと、何やらパンフレットのようなものが置いてある。新年の縁起など書いてあるのかもしれないと、一枚もらってゆく。
家に帰ってからゆっくり読み始めると、そこにはこんな内容が。
「当神社はお飾りのおたきあげはしません、なぜなら、そもそもお飾りはそのあたりの商店でお清めやお祓いなどはまったくされないまま売られている、ただの商品だからです、おたきあげをする意味がありません」
商品、という言葉のインパクトに驚愕しつつ、でも、うちのお飾りは近所の400年前から続く鳶の衆の作ったお飾りを、受け取る時には火打石でカチカチ清めてもらったものなのに、と、内心で言い返すも、神社パンフレットの迫力に負けて、うなだれることしかできない。
玄関の外にさげてあるお飾りのところまでゆき、
「きみは商品などではないからね、大切にするからね、そして決してあの神社におさめることはしないからね」
と、ていねいに話しかけ、ようやく心の平安を得る。

一月某日 曇
新聞を読んでいたら、こんな文章が。
「タフなネゴシエーターとは、相手を負かす者ではなく、相手の利益を求める心を満足させつつ、自分も利益を受ける道をめざす者のことです」
おおっ、と思い、手帳にメモする。
メモした手帳を手に、また玄関前までゆき、お飾りのえびに、
「大切に思ってるからね、商品なんかじゃないからね、あの神社とは互いの利益を求める心を満足させあえない気がするから、きみをおさめることはしないからね」
と、話しかけに行く。
一月某日 曇
関東ではお飾りをはずす日だけれど、今年はことにお飾りと仲よくなれた気がしているので、関西ふうにあと一週間飾りつづけることにする。
えび、まだ一緒だよ、と、また話しかけに行く。
一月某日 晴
いよいよ関西式でも松がとれる日。
お飾りをそっとはずし、そこからまずえびをはずし、しばらく拝んでから、橙や藁やウラジロや干した海藻でできた部分は燃えるゴミの袋に、えびは燃えないゴミの袋に、迷わず投入。
「あんなに仲よくしてたのに、ずいぶん冷たくない?」
と、家人に聞かれるが、とりあわず、粛々とゴミの袋に押しこむ。

一月某日 晴
お飾りのえびのことを思いだしながら、仕事で大手町まで。
仕事が終わり、同じ方向の人と一緒に電車に乗る。なぜだか大腸内視鏡の話題になり、
「ともかく検査の前は消化のいいものを食べるのが肝心、知りあいはごく注意深く消化のいいものだけを三日間食べつづけたけれど、ほんのわずかに油断して、おでんの糸こんにゃくを二筋ほど食べてしまったら、それが腸内に残ってひっかかっていて、再検査になった」
とのこと。
糸こんにゃくのねばり強さに感じ入り、えびのことはすっかり忘却。
夜、ほんの少しえびのことを思いだし、ごめんえび、と、謝りながらも、明日にはえびは忘却の沼に沈んでいるだろうことを、強く予感。

