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第289回

天からの啓示。

[ 更新 ] 2025.05.12
三月某日 晴
 単行本が少し前に出たので、編集者数名と共に、打ち上げ。
 いろいろな話を編集者が聞かせてくれて、とても楽しい。
 そのうちに、一人がひじのしびれ(ずっと座りつづけてのパソコン仕事の多い編集者及び物書きにしばしば見られる症状)についての悩みを語りだしたので、みんなで頷きあいながら、聞き入る。
 鍼灸を勧める者、整形外科の理学療法士の治療を勧める者、人から聞いたという「血流増進法」を伝授する者、など、さまざまな対処法で、盛り上がる。
 わたしと、もう一人の編集者は、たまたま同じ整体師さんにかかっているので、いかにその整体師さんが「ゴッドハンド」であるかを、主張。
 けれど、二人が述べるその整体師さんの特徴――マンションの一室が診療所なのだが、たいへんに雑然としていて、とてもゴッドハンドの診療所とは思えない安らぎがある――若いころ、何週間もかけて徒歩でアメリカ大陸を横断した、途中お金がなくてお腹をすかせていると、必ず食料をくれる人がいて助かった――ものすごく筋肉質で偉丈夫で、古代の帝国の帝王のよう――などを、聞けば聞くほど、
「そんな怪しい整体師のひとには、決してかかりたくない」
 と、全員が身を引く。
 ほんとうに効くのにねえ、と、一緒にその整体師さんをほめたたえた編集者(ほめたたえてなどいない、と、わたしたち以外の全員が反駁しているのではあるが)と、二人でしょんぼり。


三月某日 曇
 少し前に五十肩になった時も、そのゴッドハンド整体師さんに治してもらったのだけれど、ふたたび肩が痛くなったので、予約して施術してもらう。
 すぐさま治り、身も心も軽く、家路をたどる。
 ひじにしびれのある編集者も、来ればいいのに……と思いつつ、ここでさらに勧めるのは、やはり何かの勧誘じみているので、決して勧めてはならないと、自戒。
 寝る前に、ベッドの中で、「勧めてはならん、勧めてはならん」と、十回繰り返す。

三月某日 晴
 スマートフォンのメモ欄を見たら、
「インドネシア湖店でお茶を買うこと」というメモがあり、驚く。
 インドネシア湖店。変換の間違いだと思うのだが、それはいったい、何を変換しようとしてのことなのか。あるいは、記憶から抜け去ってしまった「インドネシア湖店」が、どこかに本当に存在するのかもしれないという可能性も。
いろいろ考えているうちに、どんどん、ときめいた気分に。

三月某日 晴
 桜が咲き始めている。枝に鳥がたくさんとまっているので、咲いている満開の桜の花ごと、枝が大きくしなっている。
 桜が、今にも歩きだしはじめそうで、少しこわい。

三月某日 晴
 以前住んでいた町を散歩。
 いつも行っていたスーパーマーケットがなくなっていて、無常を感じる。
 突然、また、ひじのしびれに悩む編集者に、ゴッドハンド整体師の施術を受けるよう、勧めたくなるが、今月の常にない感情のゆれ――ときめきや、恐怖や、驚き、そして今日の無常観、などなど――のせいだと、なんとなくわかっているので、速足で家路をたどる。
 家に着き、散らかった室内を見て、ようやく落ち着く。整体師さんのところに行った時と、うりふたつの安らぎようである。つまり自分は、雑然とした場所が好きなのだなあと、天からの啓示のように理解する。
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