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第23回

「机上芸術」と正座の人たち  清方と雪岱|2

[ 更新 ] 2021.09.13
「小説家と挿絵画家」(昭和26年) 絹本彩色 個人蔵

 「築地明石町」を「見はらしの矢来やらいの二階で、下絵の時に見」た泉鏡花は、この絵が昭和二年の第八回帝国美術院賞受賞したことを喜ぶ短い文章、「健ちゃん大出来!」を書いている。親し気に五歳ほど年下の画家を本名にちゃんづけで呼びかけた帝国的、、、な権力とはおよそにつかわしくない清方の絵を愛でるための鏡花のさわやかな言葉づかいである。
 鏡花が清方を健ちゃんと呼ぶのは、もちろん両者の作品世界の響きあいを通しての友愛の情があってこそなのだが、読者としては鏡花が使用するのが珍しい、エクスクラメーション、マークの楽し気な興奮の気配に、文章を読んだ清方がどれほど喜んだろうかと想像してしまう。それは昭和二六年に回想した場面が描かれた「小説家と挿絵画家」を思い出すせいにもよるだろう。
 庭を背景に涼し気な夏の座敷でむかいあって座る小説家(鏡花)と挿絵画家(清方)は、清方の記憶では鏡花が『三枚続』の原稿を携えて口絵を依頼するために訪れた場面を描いたものなのだが、後になって当時の日記を見て、口絵の依頼が版元の春陽堂からだったと気づいたというエピソードを紹介しながら宮﨑徹(『鏑木清方――清く潔くうるはしく)は、清方にとって出会いを思い違い、、、、するほど二人の関係が「重要な画家の原点のように思えたのではなかろうか。」と書いている。しかし、これは単なるを思い違い、、、、というものではあるまい。
 文学好きで、ことに樋口一葉や鏡花の小説を愛していた清方が、絵草子屋の美しい娘とオンドリの登場する『三枚続』の挿絵を注文されたことは、満を持して描くべく待ち望んでいた機会であったろう。今では考えられないことだが、小説家の直筆の原稿が渡され、それを読んだ画家が、単なる物語の絵解えときの説明的挿画ではなく、いわば共同の創造的なエクリチュールとして、挿絵が描かれたのであり、それが初めての出あいから始った「鏡花作、清方ゑがく」の世界だったのだから、鏡花の小説の読者であれば容易に想像が出来そうな事態が清方の内部でおきたのである。
 鏡花が書いた、原稿、、、などではなく、この場合こそまさしく「玲瓏たる玉稿」と呼ぶ以外にないものが木挽町の画室に運ばれてきたのだ。春陽堂の編集者が持って来たにしても、おろそかに受け取れるものではない。鏡花の小説の中であれば、若い挿絵画家は「小説家と挿絵画家」に描かれた日本座敷の画室を念入りに清らかに掃除し、もちろん涼し気な井戸のある庭も掃き清めて打ち水をし、夏用の青と白で織られた柄の緞通の敷物(昭和八年の作、涼し気な風が吹きとおり、その後に続く小倉遊亀の魅力的な夏の女客の姿を思い出さずにはいられない「夏の女客」にも、同じ緞通が描かれている)やこざっぱりと涼し気な団扇を用意して、小説家の魂の分身、、とも言うべき「玉稿」を受けとったのに違いないのだから、鏡花が『三枚続』を携えて画室を訪れたという記憶は、思い違い、、、、ではなく、魂的に貴重な事実、、なのだ。
 とは言え、淡い色調でデッサンのようなタッチの筆で描かれた絵の中の二人の様子を見ると、茶菓や煙草盆、団扇などが用意され、訪問者である小説家の背後には、被ってきた白いパナマ帽が置かれ、画家は両手で「三枚続」と題名が書かれて綴られた原稿を持ち、少し前のめりになって熱心に何か語っている様子で、絽の紋附の羽織であらたまった訪問であることが示されている小説家は思わず話しに引き込まれて画家を見つめ、膝元からとりあげた煙草入れときせる、、、を手にしたまま、手に何も持っていなければ、共感のあまり思わず膝を打つ、、、、、、、場面だ、という表情をしている。と言うことは、清方は春陽堂からとどけられた『三枚続』をすでに熟読していて、その読後感と、どのような口絵を描きたいと考えているかを説明をしているのだろう。明治三六年、件の『三枚続』の装丁、口絵の鏡花との初めての共同作業以来、ほぼ半世紀後の昭和二六年に「小説家と挿絵画家」は描かれているのだが、あたかもその日のうちに日記のように描かれた、、、、、、、、、、、、、、、、、とでもいった描写性が、この絵の空間に、さわやかな霊気のように漂っている。

 鏡花の側から清方の画室訪問を書いたのが冒頭に引用した「築地明石町」の帝国美術院賞受賞を祝う文章なのだが、清方が大正期に自らの作風について語った「卓上芸術」という概念――展覧会場の人ごみの中で、距離を置いて、場合によってはガラス越しに見ることになる大作ではなく、本の装丁や雑誌の口絵などの印刷物や江戸以来の木版版画の持つ、細やかに手に取って眺める絵を見る者との親密な関係の魅力――が、ここでは鏡花流に語られている。鏡花の見た下絵は図版(『鏑木清方――清く潔くうるはしく』所載)で見るかぎり、背景の外国船のマストなどがはっきりしていて、前回に引用した谷崎潤一郎の書いている明石町の感じ――鹿鳴館的な事大主義とは違う身近な、中学生がイギリス人の四人の娘が営む学校で英語を学ぶといったことを通しての、ロマンティックなあこがれの西洋である。ちなみに、鏡花も清方も今でいう最終学歴にあたるのは、英語学校であった――に近いだろう。ペンキ塗りの丈の低い柵と草花と木造の西洋館と、風を受けるマストと蒸気エンジンが共存していた商船を背景に、実在のモデルと言われる女性(清方の妻の同窓で、鏡花の紹介で清方に絵の手ほどきを受けていたという江木ませ子夫人。’77年の「太陽」1月号の清方特集では、当時、未亡人だったませ子夫人の双児の暁星の中学生のフランス語家庭教師のアルバイトを外国大の教授に紹介された高橋邦太郎――日仏交流史――の回想が載っている)は、存在するものの、後に取り組むことになる清方的リアリズムで描かれた肖像画とは異る夢幻的で甘美な淡く濃密、、、、な気配(心地良く鏡花の小説の世界が、絵画としてひろがっているような)が漂う。
 清方の「卓上芸術」に深く共感する鏡花は、軸物の大作(後に描かれる「新富町」「浜町河岸」と三部作の軸物。173.5×74.0cm)の「築地明石町」の完成作を見ずに、「健ちゃん大出来!」を書いている。
 「小さなりんの朝顔の、浅葱あさぎの色も目に見えるようです。/下絵では水は見ませんでしたが、朝霧とともにぞしっとりとして、あれならば、焼あとを歩いてもつまはきれいにさばけましょう。き込んだ廊下を伝いながら褄のにごって見えるのとは違いますね。(略)健ちゃん大出来である。会場は群集にほこりが立っても、明石町のおんなの褄には、水際が立って居ましょう。」

 鏡花はもちろん、展覧会(評判になって人が押すな押すな、、、、、、状態の)の混雑を好まなかっただろうから、展示された絵を人の肩ごしにアゴを載せるようにしたり、人によってはオペラグラス持参で離れた舞台のように絵を眺めたりする様を、群集のたてるほこり、、、を物ともせず水際立って濁りのない絵の中のおんなつまさばきとくっきりと対立させている。と、書いていて思い出したのが、調べてみれば1971年のことだったが、切手趣味週間というものの一枚となって「築地明石町」は切手になっていることだった。たて長のサイズの小さな切手になったのだから、おんなの顔といわず褄といわず郵便局では無神経に日付と局名のスタンプが押されたことになる。太平洋戦争が始まる前に亡くなった鏡花の知らぬことだが、1972年に九三歳の天寿をまっとうした清方は、スタンプの押された切手の明石町を見て、鏡花先生だったらなんとおっしゃったか、と、ふと考えたかもしれない。

 ところで清方の絵の中の美女たちは、「清方三部作」と呼ばれる物をはじめとして、鏡花流の言葉でいうならば「水際立った女」と言うべきだろう。鏡花が考えるそうした、、、、女は、小説と芝居という人工的フィクショナル新派の役者である初代喜多村緑郎(1871-1961)と河合武雄(1877-1942)のような存在だったのだろう。二人の女形役者の演技の力強いまでにしっかりしてそのうえ「随分こまっかい所へ注意を払って」成立する「美人」というものについて、「水際立った女」(大正三年)の中で語っているのだが、この文章を思い出したのは、太田記念美術館で「鏑木清方と鰭崎ひれさき英朋 近代文学を彩る口絵――朝日智雄コレクション」を見た後で、銀座の村越画廊の櫻井美穂子さんに大冊の「鏑木清方画集」(ビジョン企画出版社、平成10年)と画廊所蔵の清方の小品「野崎のお光」「霜の朝」を見せていただいて、絹という冷たいぬくもりを持つ画布に描かれた清方の絵の美しさをガラス越しではなくほんの目近に見るという滅多にない機会を持てたのだったが、それはそれとして、めくってもめくっても様々な美しい衣装に身をつつんだ美女ばかりのページのうちに、そうした美女とはまるで趣きの異なる樋口一葉の肖像が現われる事には、以前からこの絵は知っていたので驚きはしないとしても、ページをめくっていて、不意にというか突然の「女役者粂八」(昭和二九年)出現には驚かされたのだった。
「女役者粂八」(昭和29年) 絹本彩色 鎌倉市鏑木清方記念美術館

 茶と青の二本が霧か靄のように滲んで、壁面と床の区別がつかない背景の描き方によって、宙に浮いて座っているようにも見える女役者(絵のタイトルのように、中性的な印象の粂八は役者なのだ)は七三の割りあいの横わけの髪を何の飾りもなく無造作に後でまとめ、藍地に淡い青色で浮かびあがるコウモリ、、、、の中形の柄の浴衣に臙脂えんじの半幅帯を締めて茶色の無地の羽織(羽織の紐も同色)を着て、画面の左はしには花器の姿は見えずにただ枝の一部だけが部屋に飾られているのだろう、淡いピンクに臙脂のがくの葉桜が枝垂れた枝の先に咲き、葉っぱの何枚かは枯れかかって黄ばんでいる。
 和服を着て畳の上で座る生活をしていた時代の芸人や小説家の肖像画なのだから、当然描かれた人物は正座をしている。写生、、によるのではなく、事物のリアリズムと記憶と想像力によって描かれた最初の肖像画「三遊亭円朝像」(昭和五年)は、清方の父親の経営する「やまと新聞」に創作咄を連載するため、しばしば鏑木家で高座をもった円朝の姿であり、「小説家と挿絵画家」は肖像画のような繊細、重厚な内面的描写、、、、、とは違う軽やかな会話体、、、のエッセイのようで、大正八年の全29図の絵日記「夏の生活」や、昭和二三年の記憶の甘美さが映画のような視線で描かれた一連の作品の系列に属しているのだが、そうした肖像画の中で女性が描かれているのは、おそらく樋口一葉と女役者の粂八の二人ではないだろうか。
 幼い頃から芝居になじんでいた清方には、歌舞伎を題材にした絵も多く、小説の挿絵の発想も、物語が肉体によって演じられることによって進行する役者の動き方、、、が、大きな動機の一つになっていたと思われるのだが、そうした体の動き方がここぞという瞬間に見せる、鏡花流に言えば「水際立った女」の姿――清方の「築地明石町」の絵の中のおんなの立ち姿であり、芝居で言えば「喜多村と河合」――ではなく、粂八の肖像を描いている。
 「太陽」から清方を思い出し、何冊かの画集を手に入れて、たとえば「一葉女史の墓」(明治三五年)と昭和一五年に描かれた「一葉」との間に流れた時間と、役者の演じている舞台上の演技の形の美しさ(もちろん計算された手のこんだ独特の衣装を含めて)を描いた美人画と挿絵の物語性の混りあった世界(役者の衣装の描写などは、写実といってもよいだろう)と粂八の肖像との間に流れた時間が生み出した画面の持つ厳しさに眼を向けることにしよう。

 その前に、ちょいと触れておきたいのが「鏑木清方と鰭崎英朋 近代文学を彩る口絵」展(太田記念美術館)に出品されていた鰭崎英朋の『さぬなか』(大ベストセラーだった柳川春葉の大正二年の作品)の挿絵である。春葉は尾崎紅葉の門下で鏡花の先輩にあたるのだが、鏡花の『歌行燈』の山田五十鈴と花柳章太郎の成瀬巳喜男版を『日本映画作品大事典』で調べていたら、偶然、1932年に『生さぬなか』を成瀬が映画化している記述を見つけた。サイレント時代の成瀬の、素晴しいとしかいいようのない呆然とするばかりの甘美な夢のような移動撮影が衝撃的な『君と別れて』の前年に撮られた映画は、生さぬ仲の母と子のきずなの強さを主題とするところは原作と同じだが、二十年の時間があるとはいえ、原作小説と挿絵をいかにも古めかしいものと思わせてしまう新時代の表現となっているのだが、同じ成瀬が撮った鏡花の『歌行燈』(’43年)のクレーン撮影の素晴しさにくらべ、戦後、衣笠貞之助の撮ったリメーク(’60年)は凡庸で通俗的な印象。鏡花の原作の、異る時間が同時進行的に語られる、いわば映画的とも言える小説の手法が生かされていないせいである。
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