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第4話

あめ

[ 更新 ] 2023.10.20
 眠れない夜は、雨が降っている。
 小さい頃からそうだった。
 雨が、雨粒が、ずっと喋っているから、僕はうるさくて寝つけない。
 さらさらと糸のように細い雨はひそやかだけど耳元でささやき、どうどうと激しく降る雨は大声でがなりたててきて、じとじとした長雨は終わらない愚痴を僕に吐きだす。
 雨はとてもお喋りだ。とめどない言葉が降りそそいでくる。
 ベッドで寝がえりを打ちながら「うるさい」と呟く。
――うるさい、うるさい、うる、うる、さい、うるさい、うるさ、うる、うるさい……
 雨が嬉しげに僕の真似をする。まるでオウムだ。実際に見たことはないけど、オウムの大群が僕の部屋の屋根をめがけて一斉に喋りだすみたい。
「やめろって」
――やめろって、ろって、ろって、ろって、やめろ、やめ、やめろって、やめ、やめ……
 溜息がもれる。こいつらの相手をしても仕方ない。しかたない、しかたない、と強くなった雨がわめきだす。毛布をかぶっても、雨の声は隙間から入ってくる。狭いアパートの部屋で、僕はまんじりともせず雨の夜を過ごす。
 雨あがりの朝は清々しい光に満ちていて、寝不足の僕には眩しすぎる。梢からしたたる水滴さえ目に刺さるよう。「よく眠れなかったの?」とゼミの子に声をかけられて、「隣の部屋が騒がしくて」と目も合わせず嘘をつく。雨が喋るなんて言っても誰も信じない。一番後ろの席に座り、机に突っ伏した。

 僕が初めて口にした言葉は「あめ」だったそうだ。あめ、あめ、あめ、あめ、と春の雨がやわらかく囁いていた記憶がうっすらとある。
 次は自分の名前だった。雨が僕に呼びかけていたから。僕が「あめ」と呼び返すと、雨は喜んだ。うれしい、うれしい、かしこいこ、と僕に言葉を浴びせかけた。「うれし」「かしここ」と僕は叫んで、もっともっと言葉を受けたくて庭によたよたと出ていった。
 雨粒は冷たかった。肌に落ちると、雨の声が耳で聞くより深く響いた。無数の言葉が小さな僕の身体の中でわんわんと反響して、僕はどしゃ降りの庭で立ち尽くした。母が飛んでくるまで。
 僕は雨に言葉を教わった。雨の夜は興奮して眠らず、母を困らせた。暗闇の中、お祭りのように雨は喋った。あめ、あめ、と天井に向かって手を伸ばす僕を、母は「雨が好きねえ」と抱き締めた。
 父は背中を向けて寝ているか、いなかった。すっぽりと暗い穴が空いた父の布団はなんだか怖かった。それを見つめる母の眼も暗い穴のようで、そんな時は僕が「ねよ、ねよ」と母に抱きついた。雨も「ねよう、ねよう、おねむり、おやすみ」と言葉で僕らを包んだ。
 ある雨の日、保育園に迎えにきた母が変だった。笑っているのに笑っていない。僕を見ているのに見ていない。変なの、と思いながらも、新しい黄色の長靴で水溜まりを踏んで歩くのに夢中になっていた。足元で雨が小さな小さな声をあげる。その高い音がぴかぴかの長靴で跳ねるようだった。
 踏切の前で母と僕は止まった。何かを打ちつけるような警報機の音が雨の声を散らせていた。僕はつまらなくなってぶらぶらと足を揺らした。片方の長靴が脱げた。履かせてほしくて母を見たが、母は気づいていなかった。黙って踏切の向こうを見ている。
――もう、いや、いや、つらい、くるしい、いや、きえたい、しぬ、し、しんだら……
 聞いたことのない雨の声が流れ込んできた。どろり、と胸が重苦しくなる。ぼんやりと前を向いたままの母の身体がふら、と揺れた。
「だめ」と僕は母のスカートをひっぱった。母がはっと僕を見下ろし、濡れた地面に膝をついて、しがみつくように抱き締めてきた。
――ごめんね、ごめん、ごめん、ゆるして、ごめんなさい、あなただけ、たいせつ……
 その時に気がついた。雨はつたえてくる、そばにいる人のこころを。
 母と僕は家を出て、祖父母と暮らしはじめた。古い家では雨の声はますますくっきりと響いた。

 僕が東京の高校に受かると、母は再婚した。新しい父親は物静かな人で、嫌いではなかったけれど、雨の晩は家に帰らないようにした。彼のこころの声は聞きたくなかったから。友達の声を聞いてしまうのも気がひけた。
「うち、今夜、誰もいないよ」「漫喫で過ごそうよ」
 そう言って、誘ってくれる女の子は可愛かったし、やわらかくて安心できた。でも、雨は声をつたえてくる。
――すき、だいすき、すき、すき、みて、みて、ずっと、ずっと、いっしょ、すき……
 まるくて、あまい声。でも、どこかさみしそうで、僕を見ているようで見ていなくて、昔の母を思いだした。僕は雨の日に女の子に会うのをやめた。
 大学に入って一人暮らしになり、雨の夜はようやく一人きりのものになった。雨は喋り続ける。そばに誰もいないから、僕のこころを言葉に変える。知ってるよ、と僕は雨に言う。雨はもう僕の知らない言葉は喋らない。知っている言葉、知っている感情、目新しいものは何もないのに、僕は眠れない。とうとうと降る雨の声の中に一人。
 夏休み、予定のない僕はバイトをひとつ増やした。倉庫から倉庫へと荷物を移動させるだけの仕事を終え、シャワーを浴びて自転車で夕方のバイトへと向かう。
 ぱちっと頬に水滴があたった。「あめ!」とお馴染みの声が元気に響く。声の勢いから予測していた通り、にわか雨は激しかった。シャッターの下りた商店の軒先に自転車を停める。あめめめめめめ、とどしゃ降りが叫ぶ。
 晴れているのに、降っている。眩しくて、奇妙な天気。夏に雨が浮かれている。
 ふと、隣に先客がいるのに気づく。青いワンピースを着た女の子だった。うっすら口をひらき、空を見上げている。まっすぐな横顔。目が逸らせなくなって見つめていると、女の子の唇が震えた。「てんきあめ」と唇がなぞる。
「てんきあめ」
 僕が繰り返すと、はっとこちらを見た。額に前髪を張りつかせて、照れたように笑う。
 その瞬間、雨粒が発光した。歓喜がりんりんとこだまする。
――きれい、きれい、きれい、きらきら、しずく、ひかる、きれい、せかい、きれい……
 言葉と世界が輝いていた。知らない感情が流れ込んでくる。雨足と心臓の音が速くなる。
 青いワンピースの裾が揺れた。女の子が空を指す。目を遣って「虹」と声がかぶる。泡立つように一緒に笑う。
 この子と夜を過ごしたい。雨の夜を。雨音にひそむ君の声を聴きたいと思った。
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