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第3話

森をさまよう

[ 更新 ] 2023.09.20
 眠れない夜は、ばけものになる。
 闇がぬるぬるとまとわりつく熱帯夜、密林よりもずっとずっと深い森をさまよう。すると、めきめきとばけものになっていく。
 森にはいろんなばけものがいる。流行の色で爪や顔面を装飾した美しいばけもの、誰かれかまわず牙を剥きだし噛みつく攻撃的なばけもの、深夜に高カロリーな食べものを見せつけてくる暴食ばけもの、日常の輝きを惜しみなく放出するキラキラばけもの、ダイエットと無添加食品を推奨する意識の高いばけもの、バズることだけを目的に他のばけものの投稿を真似る承認欲求ばけもの、共通の趣味で集っている楽しげなばけものたちもいれば、ネガティブな空気を垂れ流している自称瀕死のばけものもいる。名の知れたばけものたちは作品や自分の宣伝ばかりで、ばけもののなまなましさがなく硬質で、彫像めいて見える。
 汗を吸ったべたつくシーツに寝そべり、財布ほどの大きさの薄い電子機器を覗き込み、ばけものたちの言葉がこだまする森をうろつく。数分おきに、遠吠えのように言葉を放つ。誰でもない誰かに向けた、ちょっと痛い言葉を。なれなれしいコメントは無視、幸せアピールもスクロールで飛ばす。ときどき流れてくる広告にはコスメも服も家具も痩せるサプリもなんでもあるけれど、今すぐ触れられるものはなにひとつない。森にひそむやからには体温がない。においもない。もしかしたら実体のない、アカウントをいくつも持つばけものが生んだ亡霊かもしれない。
 それでも、あたしは森に入るのをやめられない。目が冴えてしまうこともわかっているのに、ひたすら森をさまよい続けてしまう。気になったばけものの過去の言葉や画像をさかのぼり、馬鹿にしたり憐れんだりする。あたしは今、ばけものだから、似たばけものがいるとうれしくてたまらない。あたしみたいにひとりぼっちで、くさくさしていて、退屈な夜が永遠に続くような絶望感に浸っている同胞はらからが欲しい。
 昔、好いた男とばけものになった。森の中ではなく現実で、互いのからだがなくては生きていけないと言い交わす、一心同体のばけものになったつもりだった。けれど、それは勘違いで、それぞれ別のばけものになっていた。相手の愛情を、時間を、関心を食いつくさんとするばけものたちは、愛し合っているつもりで血をすすり合っていた。からだはいつも相手につけられた生傷だらけで、会えないと気もそぞろになり、ちょっとした疑念で凶暴な雄叫びをあげた。疲弊したあたしたちは散り散りになった。
 森でその男を探す。もう会いたいとも思わないのに、こんな眠れない夜は昔の男の足跡を辿ってしまう。愚痴ばかりのうらさびしい日常を期待したのに、男は八重歯の可愛い子と赤子を抱いて笑っていた。「新米パパになりました」なんて、らしくない書き込みに眉根が寄る。結婚したことも、彼女との写真も見たことがなかった。子供が欲しかったんだ。そういうタイプだったんだ。むくむくとからだが黒くふくれあがる。
 つまらない。つまらない。つまらない。
 森の中で吼える。誰も見ていない深夜だからと、昔、男にされた忌々しいことを思いだしては呪詛じゅそを吐く。
 毛穴から黒く濡れた羽毛が噴きだし、背骨の関節は鋭い棘になり、脇腹にばきばきと鱗が生え、長く伸びた牙が顎を変形させる。ああ、あたしはいったいどんな醜いばけものになっているんだろう。
 歯止めがきかなくなって、どんどん昔の知り合いを探す。ちょっと関わっただけの、ふだんは思いだしもしない人を。学生の頃にすこし気になっていた人、思いを告げられたけれど断った人、お酒の勢いで一晩だけの過ちを犯してしまった人……どの人にもあたしの痕跡はもうない。ここ最近、森に入った形跡もないと虚しくなる。教室であたしより地味だった子が華やかな仕事に就いていたり、しばらく連絡がなかった子が二人分の食事の写真をあげていたりしたら落ち込む。
 さみしい。さみしい。さみしい。
 あたしはあたしより不幸なばけものを見つけたいのかもしれない。それは、さみしいよりかなしいことだ。
 目の奥が痛い。森の中はもうずいぶん静かになっている。足跡を嗅ぎまわるあたしは飢えたけだもの。
 そのとき、ぐううとお腹が鳴った。現実のからだがあたしを森からひき剥がす。
 迷ったけれど、空腹はあまりに獰猛どうもうで抗えない。台所へいって、鍋で湯をわかし、インスタントラーメンを放り込む。付属の粉末を溶かし、しばらく煮たら卵を落とし、湿気かけたドライオニオンをどっさり入れて、がりがりと黒胡椒をひく。最後にバターをひとかけ落とす。
 カーテンからもれる朝の光とジャンクなにおいのアンバランスさに笑ってしまう。
 写真を撮って、森に落とす。ぱらぱらと、まばらな拍手のように、森のばけものから称賛がとどく。
 汗をかきながらぞぞぞと麺をすすり、「朝から最悪」ともらして、でももうさみしくないことに気づく。このばけものは嫌いじゃない。
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