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第10回

鳩ヶ谷の眼科洋館とブルドックソース

[ 更新 ] 2026.10.30



 志茂旧道の酒屋と銭湯(前回参照)の先、北本通りに出ると南北線の赤羽岩淵駅がある。
──このすぐ先に谷内六郎の壁画があるんですよ。
 僕は小川画伯のイラストにどことなく谷内六郎の雰囲気を感じているのだが、そんな彼に案内されて「赤羽」の表示が出た交差点まで行くと、一角の高いビルの狭間の小ビルの外壁に昔の週刊新潮の表紙絵と思しき谷内六郎の作品が掲げられていた。
 表参道の山陽堂書店の壁の谷内画は有名だが、ここもひと頃まで金龍堂という本屋を開いていた書店のビルらしい。ところで、JRの駅から相当離れたこの交差点に赤羽と付いているのは、50年前まですぐ手前にあった都電終点の停留所が赤羽の名だったからだろう。
 近くのカフェのような食堂のような店でカオマンガイをランチに食べてから、南北線で北へ向かった。こちら方向は埼玉高速鉄道の領域になるようだが、荒川を越えて3つ目の駅が鳩ヶ谷だ。ここは以前にも来たが、旧街道らしい古い町並がかろうじて残っている。
 地下のホームから地上に出たところは、広々としたいまの岩槻街道なのだが、200メートルほど東方へ歩くと旧道にぶつかる。旧岩槻街道あるいは旧日光御成道などと呼ばれる通りは、鎌倉時代にはすでに北へ行く重要な道の1つになっていたようで、僕が所持している鎌倉街道関係の本には「義経が頼朝軍に参加するときに通った道」とか「太田道灌の岩槻城への生命線」とかの解説がある。
 見沼代用水(東縁)の橋を渡った先からゆるやかな上り坂になって、道が左に湾曲する右手にいい感じの洋館が見える。坂下からアプローチすると、この洋館が古町の入り口のシンボルのようで印象的だ。
 もう何年も前に休業してしまったようなのだが、「船津眼科」という医院の建物で、石の門柱に「醫師 船津貞之助」と、年季の入った表札が掲げられている。三角屋根の塔屋の下、黄土色の壁づたいにカマボコ型のアールデコ調の飾窓が並び、門柱の向こうに覗き見える裏玄関の軒を支える金具のデザインまで、なかなか凝っている。関東大震災後の昭和7年(1932年)の築らしいが、地方都市などを歩いていて、医者でもとくに眼科の建物にはこういう手の込んだ洋館が多い気がする。都区内では、北千住の西口にも西洋童話の魔女の館みたいな大橋眼科の建物がほんのひと頃まであった(千住大橋の方に移築保存される、という話も聞く)。
 船津眼科の旧館の横を緑色の国際興業バスが頻繁に通っていくが、なかに「赤羽駅東口」の行先を掲げたのがある。そう、赤羽の街頭で鳩ヶ谷の行先を出したバスを見掛けると、なんとなく旅情を感じるものだ。15年ほど前に川口市のなかに吸収されてしまったが、それまでは孤島のように独立した市域で、埼玉高速鉄道ができるまでは、バスでしか行けない感じが秘境感を醸し出していた。
 船津眼科の並びには「ファミリー ファッション 藤屋」という、いかにも地方都市らしい洋品店があり、道の向かい側にはウナギの割烹、平成初めのバブル期に設けられたカラクリ時計のある小広場などが並んでいる。
 20年前くらいにアップされたネットの町並写真などと比べて、古い建物は随分減ってしまったようだが、「北西酒店」の看板を路傍に掲げた出桁造りの酒屋と店の石蔵は古町風情を感じさせる。ネットにアップされた鳩ヶ谷の町並写真でも、洋の船津眼科とともにこの酒屋が和の歴史建築として紹介されているが、少し前の写真の看板には「十一屋」の屋号が記されていて、いまの看板にも十一を丸で囲んだ意匠が冠されている。すぐそばの路傍に「三八市の市場杭」(江戸中期から昭和20年代頃まで、三と八の日に市いちが出た)という由緒書きが出ていたが、この十一屋というのはもしや三と八を足した十一……なんてのが由来なのではないかな、と勝手に想像した。
 町の一角の小さな郷土資料館も覗いたが、へーっと思ったのは「鳩ヶ谷に根付いたブルドックソース」なんていう展示。鳩ヶ谷の本町南方の農村地帯に戦前からあったブルドックソースの大工場、ごく最近(2023年)閉業して解体されてしまったようだが、グーグルマップの航空写真にまだ建物は確認できる。
 「昭和10年、ブルドックソース鳩ヶ谷工場が竣工すると、花火を上げて工場披露が行われ、鳩ヶ谷の人々を集めたパーティーが開かれました」なんてことが展示パネルに書かれていたが、あの船津眼科の洋館ができあがってまもない頃の話なのだ。
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