第6回
三田寺町のスイッチバック
[ 更新 ] 2026.07.01

北里研究所の方からくるバス通りが白金高輪の広い国道1号線を越えると、魚籃坂下の交差点に差しかかる。ここは地下鉄の白金高輪駅ができるよりずっと前から、都電が走るにぎやかな十字路だった。最盛期は、五反田から銀座の方へ行く4番、目黒から永代橋へ行く5番、それと坂上の伊皿子の方からこちらへ下ってきて四谷三丁目に向かう7番の都電が走っていたようだが、僕が三田の慶応付属中に入った1969年の秋まで7番は運行していて、S君という電車好きのクラスメート(彼とは玉電の最終運行の日も一緒に写真を撮りに行った)と学校帰りに乗ったおぼえがある。都電車庫があった天現寺橋あたりまで乗ったはずだが、この魚籃坂下から古川橋へ差しかかるまでの道がいまよりずっと狭くて、下町の商店街に紛れこんだような気分になった。
魚籃坂下交差点の三田寄りの右角(白金高輪の側から見て)には、ひと昔前まで糸井重里さんの「ほぼ日」の本拠があって、ビル自体に糸井さんが命名したという「明るいビル」の大きな看板がバスの窓越しに見えた印象が残っているけれど、いつしかビルごと建てかわってしまった。もう少し三田の慶応の方へ行ったところに立っていた木造3階建の明治牛乳の販売店もなつかしい。2000年代初めに著した『気になる物件』って本の中でこの牛乳屋について書いているが、取材時点の98年にして「この下に水脈があるらしくて、建物が傾きだしてるんですよ」と、3代目店主が語っている。
明治牛乳店主人の“水脈発言”のとおり、その裏手は高輪へ続く丘陵地(水も湧いただろう)になっていて、趣きのある寺が並んでいる。都電停の名にもなった魚籃坂の由来の魚籃寺は伊皿子、泉岳寺の方へ上る坂の途中に門を開けているが、古びた赤い山門と六地蔵がまず目にとまる。浄土宗の寺だが、祀られた魚籃観音で有名になった。竹籠に入れた魚を売り歩く、唐の時代の美少女に化身した仏の伝説にちなんだものらしい。魚籃寺は1652年の承応元年の創建というが、この一帯の三田寺町の寺院は1635年の寛永12年頃に幕府の指令によって八丁堀界隈から移ってきたところが多いそうだ。関東大震災や空襲の被災も少なかったようで、明治、大正建築の堂宇も残されている。
慶応に近い方にある願海寺は境内に英米調の木造洋館(ひと頃まで子供の英会話学校をやっていた)が建っていて、和洋折衷な景色がおもしろいが、小川画伯に描いてもらいたい……と思っていたのが、魚籃坂裏手の清久寺の門前にある“スイッチバック”型の入路だ。年季の入った石垣を切り通したもので、坂上に見える昔の木造下宿みたいな建物も雰囲気がある。この感じは昭和も戦前、1ケタくらいの築ではないだろうか。実際、現場で目撃したわけではないけれど、往年の夏の中元商品のCM(カネボウ絹石鹸の中野良子のような)を思わせる和服美人を小川画伯が描き込んでくれた。
このスイッチバックの入り口がある崖際の路地をちょっと北進するとT字路に行きあたる。T字、というか、少しズレた感じで十字に交差する地点なのだが、ちょうど丘の頂きのようなポイントで、四方とも道が下っているのがおもしろい。そして、どの角もお寺だ。
桜田通りの方から聖坂へぬける坂道は、東京に何箇所かある幽霊坂と名づけられているが、この道の一角に構える玉鳳寺の門脇の堂に通称・おしろい地蔵(御化粧延命地蔵尊)というのが祀られている。
決められた開帳日だけ拝観できる、といった大そうなものではなく、通りすがりに眺められるのでここを歩くたびに寄っていくのだが、暗がりに赤提灯の火を入れて、真っ白けのお地蔵さんが鎮座されているショットはいつもゾクッとくる。江戸の時代に土中から泥まみれで発掘されたとき、当時の住職が手厚く白化粧してやったところ、住職の頬にあったアザが消えた……というのが発端で、以来、参詣者が地蔵に白粉を塗りながら病いやケガの回復祈願をする……という、塩地蔵とか、しばられ地蔵とかと同パターンの供養が根付いていったようだ。
江戸の昔は千住の汐入あたりでよく作られたという貝がらの胡粉……なんかでお化粧されたのかもしれないが、いまは地蔵の横にベビーパウダーが置かれている。

