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第279回

こっそり自分を肯定。

[ 更新 ] 2024.07.10
五月某日 曇
 電車で、荒川洋治さんの『詩とことば』を読んでいる、わたしよりも少し年下とおぼしき人がいる。
 電車で紙の本を読んでいる人が近年少ないうえに、図書館の本でもなく文庫本でもなく単行本を、カバーなしで読んでいるという、奇特な人なので、じっと見入る。けれど、視線を感じたのか、その人は次第に落ち着きがなくなり、だんだん内股になり、最後には大きなため息をついて、本をかばんに入れてしまった。
 凝視して申し訳なかったと思い、目をそらそうとするが、どうしてもそらせない。
 三つ先の駅でその人が降りてゆくまで、結局凝視し続ける。
 家に帰ってから、たくさん後悔し、心の中で、
「いい本を読んでいるから嬉しかったのです、お許しください」
 と、見知らぬその人に念波を送る。

五月某日 曇
 新聞を読んでいたら、「人からよく見られます。いやです。どうしたらいいでしょう」という悩み相談が載っていて、びくっとする。

五月某日 雨
 編集者の人と打ち合わせ。
 手帳の話になり、使っているT橋の手帳で、今年から各都市の路線図が消えてしまい、かわりに「いただいたもの控え」などという無用なものが登場し(友だちや知り合いが少ないので、「いただきもの」など皆無に近い人生)、困っていることを訴える。すると、編集者の人は、Nリツの手帳には今も路線図が載っていると教えてくれる。
来年からは、もうT橋は打ち捨てて、Nリツの手帳にのりかえることを決意。
 ネットの路線図を見ればいいかと最初は思っていたのだが、老眼につらいのと、全体感がつかめないのとで、どうにも見づらいのだ。
 長年お世話になっているT橋には申し訳ないような気持ちだが、路線図を廃止するという大きな裏切りがあったので、しょうがない。
 冷酷な気持ちで、就寝。

五月某日 曇
 また新聞を読んでいたら、「老人は自動レジでもたもたしていて、困る」という投書があり、びくっとする。
 老人として老人を弁護させてもらうなら、なぜもたもたするかといえば、説明の文字が老眼で読みにくいで、ものすごく時間がかかるのだ。
 昨夜の冷酷な気持ちが自分に跳ね返ってきた心地。老眼の人間は、家にひっこんでいろ、と叱られた心地でもあり、いろいろ黒くて凶悪なものが心にたちこめる。

五月某日 晴
 実家の母と電話。
「おはがあわない」(「東京日記」第277回参照)について、本を読んでいたらその漢字を発見した、という報告を、母がしてくれる。
 いわく、岡本綺堂の『半七捕物帳』文庫版四巻、311ページのおしまいの方に、「お歯にあわない」という言葉が出てきたとのこと。わたしも手元にその本があるので、電話しながら開くと、なるほど、載っている。
 ということで、「おはがあわない」は、「お歯にあわない」が正解らしい。
 今年九十歳になる母の、老眼非難も自動レジも何も気にかけることなく好きな捕物帳を日々読む姿勢にうたれ、今月の自分の黒くて凶悪な心を反省。
 でも、たまに凶悪な心になるのは、結構いいものかもと、内心でこっそり自分を肯定。何か、アドレナリンが出て、日常が活性化するような。
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