第4話
私が長身で筋骨隆々のハンサムでないことが諸々の困難の原因であることは間違いない
[ 更新 ] 2024.02.13
アメリカでは、皿やマグカップ、椅子、冷蔵庫、電子レンジなど、あらゆる物が日本の物と比べて頑丈で重い。冷蔵庫や電子レンジであれば動かすことがないため、特に不便を感じることはないが、問題は「扉」である。しばしば、異常に分厚く頑丈な扉に遭遇するのだ。設計者はアメリカの平均的な体格の男性が使用することしか想定していないのであろう。実際、小柄なアジア人女性が、扉を開けられずに困っている様子を見ることもたびたびある。扉は開閉することで機能するものだ。それにも係わらず、開閉を拒むかのような重量を持たせるとは一体どういうつもりか。さらに悪いことに、扉が開けられない女性がいると、どこからともなく長身のハンサムな男がスッと現れて扉を格好よく開けるのである。ほぼ自作自演ではないか! こうして、扉へのやり場のない怒りは増幅され、長身のハンサムな男たちへと向けられるのだ。
大きくて強いことが求められているのは、物だけではない。人間も同じである。読者諸賢は、ドウェイン・ジョンソンというアメリカの俳優を知っているだろうか。世界で最も稼いでいる俳優の一人であり、「最もセクシーな男」として羨望の眼差しを一身に集めている男である。もしジョンソン氏を知らないなら、まず「最もセクシーな男」という言葉からその姿を想像してみてほしい。その後にジョンソン氏について調べてみるとよい。想像したジョンソン氏と現実のジョンソン氏の乖離に腰を抜かすであろう。確かに、この人物の実績と体格は形容しがたいほどに立派である。しかし、仮に日本の雑誌などが同様の企画を立ち上げたとして、身長2mの筋骨隆々の元プロレスラーで首の太さが私の腹ぐらいありそうな男性が「セクシーな男」という枠に収まり、数多の二枚目俳優やアイドルを抑えて「最もセクシーな男」に選出されるであろうか。ジョンソン氏が選ばれるあたり、いかにもアメリカである。物も人も、大きくて強いことが求められているのだ。こうして、アメリカでは、私を含む無数の貧相な男たちが、不幸にも、その外見だけを理由に軽蔑されているのだ。内面まで見えないことが不幸中の幸いである。
夏になると、どこへ行っても冷房の設定温度の低さに苦しめられる。長身かつ筋骨隆々の男が快適に過ごせるよう設定されており、発熱量が小さい貧相な人間の存在は想定されていないのであろう。妻は週に1日か2日程度、アパート内の共有スペースで在宅勤務をしているのだが、共有スペースの空調はアパートによって管理されており、例に漏れず、その設定温度の低さは尋常ではない。あるときなど、妻は冬服を着て行ったにも係わらず、寒さに堪えられず、すぐに部屋に戻ってきたのだ。管理者に言いたい。上司が急に戻り、慌てて忙しいふりをせねばならない私の身にもなってほしい、と。
このように、身近な話題に限っても、改善を要する由々しき問題で溢れている。特に、背が低く貧相で顔がのっぺりした男性の地位向上は待ったなしである。しかし、幸い、これらの問題は直接的に人の生死に関わる問題ではない。ニューヨークには、もっと深刻な問題がある。
ニューヨークが抱える最も深刻な問題の一つは、桁外れに多いホームレス人口であろう。ニューヨークには「シェルター」なる施設があり、ホームレスの人々の多くは、ここで夜を過ごしているらしい。シェルターで眠る人の数は日々変動するものであるが、ここ数年は約4万から6万人という凄まじい人数を維持している。さらに2022年の夏頃から、テキサスなどのアメリカ南部の州に国境を越えて入ってきた移民たちは、バスに乗せられて次々にニューヨークへと移送されるようになった。彼らの多くが仕事も家も何も決まっていない状態で送られてくるので、まずはシェルターに保護される。その結果、シェルター利用者が急激に増加し、2023年の夏には約10万人に達したそうだ。現在、シェルターの収容能力はすでに限界に達しており、新たに設置される見込みとなっている。
2022年に始まった移民の移送がシェルターの収容能力を圧迫しているのは事実であるが、ホームレス問題はそれとは無関係にずいぶん前から続く問題であることに注意せねばならない。ニューヨークには常時、数万人のホームレスがおり、ニューヨークよりもさらに規模の大きい都市である東京のホームレス人口でさえ1000人弱であることを考えると、ニューヨークの状況が桁違いに酷いことが分かる。実際、街を歩けば至る所でホームレスの人々とすれ違う。その数は、特にタイムズスクエアのような観光地に近付くほど増える。某有名コンビニエンスストアや某有名ファストフード店の入口には、客から釣り銭を入れてもらうための紙コップを持った男性が立っていることが多い。また、路上や地下鉄車内で突然「釣り銭をくれ」と話しかけられることも日常茶飯事である。
昨年の夏の夜、妻が職場から帰宅するため、バスを待っていたときの話だ。ホームレスの女性から「何か食べるもの持ってない?」と話しかけられたそうだ。何も持っていなかった妻は、「そこのコンビニエンスストアで何か買いましょうか?」と言ったのだが、女性は「いいえ、マクドナルドで温かくて美味しいものを食べたい。それと、靴下もないから靴下も買ってほしい」と言う。そこで妻は、女性をタイムズスクエア近くのマクドナルドへと連れて行き、飲み物やハンバーガーを買った上で、さらにドラッグストアで長蛇の列に並んで靴下も買ってあげたそうだ。話を聞くと、女性には子どもが3人いるらしい。しかし夫の暴力が理由で家を出たという。その後、紆余曲折を経てホームレスになったそうだ。しばらくはシェルターを利用していたが、その環境は劣悪を極め、地獄のようなところだったため、今はシェルターからも逃げ出して街を放浪しているそうだ。
ホームレスの人々の中には、さらに酷い状況にある者もいる。例えば、脚がない人や見るからに不衛生な包帯を脚全体にまいている人などを目にする。冬に裸足の生活を余儀なくされて凍傷になったのか、不衛生な環境で怪我が悪化したのか、理由は分からない。いずれにせよ、想像を絶する過酷な生活を強いられていることは間違いない。
ニューヨークには、こうした人々が無数にいるのだ。私は、なるべく、現金を多少は持つようにしており、ホームレスらしき人から「釣り銭をくれないか」と言われれば渡すようにしている。
ただし、中には危険な者もいるから要注意である。私自身、過去に酷い目にあったことがある。子どもが産まれる数年前、2018年の夏、観光でニューヨークを訪れた際の話だ。ワシントンスクエア公園のすぐ近くの道を歩いていると、前から一人の男が歩いてきた。歩く速度が異常に遅く、何やら食べ物が載った紙皿を抱えている。宙を漂うような目線はいったいどこを見ているのか分からないが、獲物を探しているようにも思える。私のような呆けた人間でも、その男が警戒を要する存在であることは直ちに理解した。しかし、不運なことに道幅は狭く、このままでは男と至近距離ですれ違うことになる。不安がつのる一方、男との距離はみるみる縮む。そして、男との距離が1メートルを切った辺りで、男はそれまでとは打って変わって機敏に動いた。奇襲であった。持ち前の危機察知能力と華麗な身のこなしにより事なきを得た妻、フレンチフライを服にぶち撒けられて啞然とする私。明暗を分けたのは洞察力と俊敏さの違いであった。状況を理解しようと努める私に向かって、男は「お前のせいで俺の昼飯が台なしだ。金を払え」と言った。当たり屋であった。映画や漫画で見るような分かりやすい詐欺である。詐欺師の要求に応じるわけにはいかない。私は毅然とした態度で、そしていつになくキリッとした表情で、5ドル支払った。
残念ながら、これでは終わらなかった。逆に当たり屋は勢いづき、「足りない。もっと払え」と畳みかけてきたのだ。「もうない」と言っても納得する様子はない。そもそも話し合いが成立する相手には見えない。見るからに銃や刃物を持っていそうだ。ここは修羅の国である。力なき者の財布は絞り尽くされるのみだ。私が長身で筋骨隆々のハンサムではなく背の低い貧相な醤油顔だから標的になったに違いない。ここで屈しては、我が同士たちが今後も非道な詐欺師の標的になり続ける。すでに5ドル取られているのだ。これ以上の後退は断じて許されない。全世界の同士たちへの責任が私の双肩にかかっているのである! 私は20ドル札を差し出した。
その直後だ。妻の「何やってんの!」という声で我に返り、慌てて20ドル札を引っ込めた。危ないところであった。上司の決裁を経ずに高額な支払いを済ませるところであった。
いよいよ私には任せておけなくなったのか、妻は男に詰め寄り、「あんたがぶつかってきたんでしょうが!」と怒鳴り始めた。頼りになる上司である。私はすかさず加勢し、「そうだ、そうだ、まだ続けるなら警察を呼ぶぞ!」と蚊の鳴くような声を上げた。そのやりとりが他の観光客たちの目に留まったらしく、周囲の注意が一斉に男へと集まった。お陰で男は大人しくなり、私たちは無事にその場を離れることが出来た。しかし、嫌な予感がする。このまま無事に終わるとは思えない。100メートルほど歩いたところで、突如、妻は静かに口を開いた。「ちょっと何よ、あれ。なんで詐欺師にお金を巻き上げられてんのよ!」。私に対する厳しい指導が始まった。悪い予感は的中した。
この件では幸い怪我もなく、5ドルの被害だけで済んだ。しかし、相手が銃や刃物を持っている可能性は十分にある。そう考えると、こういうときにどう振る舞うべきかは非常に難しい問題である。
読者諸賢の多くは関心がないかも知れないが、最後に男性用トイレの「小便器」の問題についても語らねばなるまい。小便器を正常な方法で使用するには、腰の高さが小便器底面の縁の高さよりも十分に高くなければならない。要するに滝壺の遥か上方から用を足すのが正常な使用方法である。そうすれば、飛沫は主に太ももより下に飛び散り、添え手は無傷である(大人でも子どもでも、公衆トイレ利用後の男性のズボンには小便の滴が大量に付着していることは周知の事実であるが、これには目をつむろう)。しかし、ここでは、古の巨人文明の遺跡のごとく高々と屹立する小便器と遭遇することが稀にあり、このような小便器の前では私の腰は辛うじて底面より高い程度である。添え手は便器内の最も低い位置にあり、小便器内を散乱する滴に被弾することなく無事に任務を遂行することは極めて困難である。私のような背が低く足が短い貧相な男の存在は設計時に考慮されていないのであろう。これに対して私が取れる防衛策は、児童用の背の低い小便器または個室を使用することくらいである。しかし、どちらも使用できない場合は手が飛沫まみれになることを覚悟の上で大人用の小便器を使うほかない。絶望的なことに、ニューヨークの公衆トイレは身の毛もよだつ凄惨な衛生状態である。このような便器内面で散乱された飛沫の汚さは想像を絶するものである(※)。
先日も、私のささやかな防衛策は機能せず、大人用の小便器を使うこととなった。アメリカの便器設計者への怒りが募る(長身で脚の長い筋骨隆々のハンサムに違いない)。私は用を足し終えて考えた。頻繁に下痢をする原因は、もしかすると手に付いた飛沫かも知れない。いつも犬に吠えられるのも大量の飛沫が付着していることが原因ではないか。新しい靴でガムを踏んだのも、うんこを踏んだのも、小便器のことを考えていて注意が散漫になっていたからだ。怒りのせいか、トイレの蒸し暑さのせいか、とめどなく汗が噴き出す。頬を伝う汗を手で拭うも、その手がすでに濡れており、不快感は増すばかりだ。ふと気が付いた。まだ手を洗っていなかった。
※ここで言う公衆トイレとは、エレベーターや歩道のことではなく、「便器」という名で知られる陶器製の器具が設置された日本人にも馴染みのあるタイプの公衆トイレのことである。