第14回
『ピーチガール』『ピーチガールNEXT』~憎みきれない悪役
[ 更新 ] 2024.10.25
これまでの検討で、意外に主人公のライバルには完全な悪役は少なく、ほんとうにひどい意地悪をしてくるのはむしろ雑魚キャラであることが判明した。しかし中には、一条ゆかり『プライド』の緑川萌のように、主人公の対照的な対となり、主人公と正面から敵対するキャラクターが描かれることもある。そうした中でも、突出した悪役であるにもかかわらず逆に人気もある特異なキャラクター、それが上田美和『ピーチガール』(1997~)の大敵役・柏木さえである。なにせ、本編終了後、さえを主人公とした『裏ピーチガール』(2004~)が描かれているほどなのだ。
◆とんでもない策略家
『ピーチガール』の主人公・安達ももと、その敵役・柏木さえは対照的なタイプに描かれている。主人公のももは、比較的背が高く、黒い肌にツリぎみの目、塩素で傷んだ赤い髪(ももは元水泳部)。その外見から「遊んでいる」と誤解され、街で援交目的のおじさんに声をかけられるのも日常茶飯事。「キツそう」「ナマイキ」「遊んでる」――「いつも見た目でソンをする」【図1】。それに対し、「さえは小柄で華奢で色白で」「男ウケもすこぶるよくて…」【図2】。
左:【図1】上田美和『ピーチガール』4巻(講談社)34頁
右:【図2】上田美和『ピーチガール』1巻(講談社)12頁
右:【図2】上田美和『ピーチガール』1巻(講談社)12頁
ところがこのさえ、バッグからヘアピン、メイク、靴やソックスにいたるまで、なんでもももの真似をする。ももが買おうと思っていたバッグを先に買ってしまう程度ならまだしも、ももが東寺ヶ森(とーじ)を好きなことがわかると、とーじを自分のものにしようと、とんでもない策略をめぐらす。
しかもその前に、ももがさえにバレないように、自分が好きな人は岡安カイリだと嘘をつくと、さえは岡安をターゲットとし、教室の黒板にももとカイリの相合傘を落書き。そのため、ももはカイリの親衛隊にヤキを入れられるという前菜つきである。じつはカイリは中学2年生のときに海で溺れたとき、ももが助けてくれたのを覚えていて、しかもももが人工呼吸をしてくれたと誤解しており、このことがまた事態をややこしくする。
実際、このあと、岡安は再びプールで溺れ、今度はほんとうに人工呼吸しているところをとーじが目撃。しかし逆にこれがきっかけとなって、ももととーじはお互いの気持ちを確認し、付き合い始める。
だが、これが面白くないのがさえである。さえはももに、とーじがいきなりキスして押し倒してきたという嘘を吹き込んだうえで、とーじの財布にこっそりコンドームを忍ばせる。それを発見して「まさか…」と思うもも。一方、さえはとーじに対する嘘も怠らない。ももちゃんがとーじに人工呼吸を見られたことを気にしている、ともちかけ、その不安を解消するためには「何もいわずにキスしてあげればいいの♡」。とーじがキス未経験だと知ると、「ね、あたし練習台になったげよーか」。
なんてことを! 抵抗するとーじにかまわずキスをして、その現場をももに目撃させる。ここで、とーじに対するわずかな疑惑が頭をもたげかけたももだったが、さすがにすぐには信じず、さえを問いただす。「あたしにはさえのほうからキスしたように見えたけど?」。うろたえるさえ。ここで逆転か⁉
しかしさえはすぐに体勢を立て直す。ももがとーじを好きだと岡安に打ち明けていた時、自分ととーじはそれを聞いていた。「とーじったら、やりたい盛りなんだからァ」「ももちゃんならすぐやらせてもらえるとでも思ったのかしらァ」。
自分がそういう目で見られがちなことを日々意識させられているももの心に、わずかな疑いが兆す。まさか、とーじも? しかし、あくまでとーじを信じようとするもも。放課後、ももととーじがプールサイドで待ちあわせをしたことを知ったさえはとーじに、待ち合わせは食堂に変更になったと伝えてふたりをすれ違わせ、待ちぼうけのとーじをプールサイドにつれていく。そこには、待っている間に岡安と話しているももの姿が。ここで間髪入れずさえは、じつはももちゃんは、とーじよりカイリの方が楽しいと言っていた、ととーじに告げる。焦ったとーじはももの腕をひっぱって昨日さえとキスをしていた場所へ。よりにもよってそこでいきなりキスしようとしてくるとーじを、思わず拒否してしまうもも。(ここまでの一連の流れはすべて周到に準備されたさえの策略である。ここに至るさえの策謀の詳細は『裏ピーチガール』参照。)
しかしその夜、わざわざ家を訪ねてきて説明しようとするとーじの姿に、ももは再びとーじへの信頼を取り戻す。しかしさえは先手を打って、とーじの前で涙目になり、「ももちゃんに怒られちゃった。バレちゃったの。とーじとキスしたこと」。その顔には殴られた跡(さえのメイク技術よ!)。二人の姿を見て危機を感じたももはとーじに、「さえとはもう喋んないで!!」「何吹きこまれたか知らないけど、あのコのいうことは、一切信用しないで!!」。しかし、さえは弱そうに見え、ももは強そうに見える。この外見のギャップをどこまでも利用していくさえ。
【図3】上田美和『ピーチガール』3巻(講談社)109-110頁
上は、岡安の巧みな言葉にさえが手の内をさらけだす場面だ。「たとえば、あんたの目の前にライオンがいて、その横に傷ついた鹿が倒れてたらどう思う?」「じゃあ、あたしとももちゃんがいて、あたしが泣いてたら? 同じことよ。要は最初に泣いたもん勝ち。人間だれだってか弱そうに見えるほうが被害者だって思うもの」【図3】
「みんな上っ面でものを見てんのよ」――まさにその通り。外見で判断することの恐ろしさ。あの手この手で主人公を陥れる少女マンガの敵役は、じつはそれを知らせてくれる存在でもあるのだ。
さえはとーじの前では誤解に悩む友人の姿を演出しつつ、ももを挑発。掃除モップをもったももの前で、派手に倒れてみせる。さえの本性を知っているももはさえを責めるが、とーじはそれを、キスを目撃したから怒っていると思い込む。「ケガ人にむかってわざと転んだとか、本性だとか…。ちょっと思いやりがなさすぎるんじゃないのか…?」「柏木はずっと安達のこと気遣ってくれてる友だち思いのいいコだよ…」「安達がこんな友だち甲斐のないヤツだと思わなかった…。―――見損なったよ」【図4】
【図4】上田美和『ピーチガール』2巻(講談社)44-45頁
ももが電話で今までさえが何をしてきたかを説明しようと思っても、とーじは「わるいけど、いま柏木の悪口聞く気分じゃないんだ…」。じつはとーじはこのとき具合が悪く、そのまま盲腸で入院してしまう。そうとは知らないももが思い悩んで眠れず、遅刻して翌朝登校すると、クラスの雰囲気がおかしく、どこからか「ヤリマン」の声。
ももは知らないが、とーじが欠席し、ももが遅刻している間にさえが、ももは「親友(=さえ)の彼を色仕掛けで奪い取ろうとしている」とクラスメートに話し、「ももちゃんがきても、とーじが入院したことは内緒にしておいてください。せめてとーじの入院中くらい彼女の妨害を受けず、彼の看病をしたいのです」(まあ、なんというか、おみごと!)
もちろんさえは、とーじ対策も怠らず、とーじの伝言はももには伝えないし、とーじの前では「ももちゃんに誤解されて辛い親友」を演じ、ももちゃんと岡安の仲が噂になっているととーじに告げる。(このへんの演技力はほんとにすごい!)
岡安のおかげでとーじの入院を知ったももだが、張り巡らされたさえの陰謀で、とーじとの間に亀裂が入る。それを力づくで(どんな力づくかはコミックス参照)取り戻すもも。
やるかやられるか。さえの策略が勝つか、ももの信頼が勝つか。スポーツの試合ではないが、あちらに点が入ったり、こちらに点が入ったり。『ピーチガール』ではさえともも、丁々発止のはらはら展開が続く。
ももととーじの信頼が回復したのもつかの間、岡安ともものキスの事実(岡安がふいうちでキス)を知ったさえ(この時の顔がすごい)【図5】 は、そのことをとーじに注進。
【図5】上田美和『ピーチガール』2巻(講談社)147-148頁
ついに決裂するとーじともも。それでもさえの嫌がらせは収まらず、ももはクラス中から孤立し、無理やり出させられた水泳大会でも、誰かに水着の肩紐を切られてしまったりする。クラスの怒号の中で、全種目出場を強制されて泳ぎ続けるもも。
さえにあおられて、ももは衆目の中で、さえをひっぱたく。この時、とーじとのいきさつは、まだクラス中に誤解されたままの状態である。声をあげて泣くさえに、ももへの非難の空気がまたたくまに伝染し、周囲から飛ぶ「土・下・座」コール!! この中で、ももがどう振るまったか、そしてさえの悪事がついにバレる瞬間! このどんでん返しの醍醐味は、ぜひぞんぶんに作品で味わってほしい。まさに「水戸黄門!」的な快感なのだから。
◆ぺらぺらになったさえ(Cute!)
さて、悪役も悪役、こんなにとんでもないキャラクターのさえがなぜ、『裏ピーチガール』まで描かれるくらい人気があるのか。
それは、さえのたくらみ顔が印象的なのもあるが、それ以上に、一連の悪事がバレたあとのさえの描かれ方にあるだろう。すべての悪事がバレて、クラスメートに見放されたさえ。いったん「風の前の塵」と消えたそのあとで、さえの存在感はぺらぺらに薄くなる。水着を取り換えて復活した、ももの後半の活躍のおかげで優勝した水泳大会。その祝賀会ではじめて目撃された(見落とされた?)存在感ぺらぺらのさえ【図6】。
【図6】上田美和『ピーチガール』4巻(講談社)15頁
うってかわって立場が弱くなったさえが逆にいじめられるようになり、ももが助け舟を出すところも印象的に描かれる【図7】。
【図7】上田美和『ピーチガール』4巻(講談社)114頁
これ以来、もものことを「ももさま」と呼んでお仕えするようになるさえ。
しかしもちろん、これしきで潰されきってしまうさえではない。ももと一緒の時に雑誌のストリートスナップを撮られ、「背後霊!!」「マフラー!!」「ピョン吉――」(『ド根性ガエル』わかんない人はググってね♡)と、その存在感の薄さをアピールしたさえは(【図8】) 、逆に面白がられて読者モデルをすることになり、トップモデルのジゴローと知り合って気に入られる。この瞬間、さえの顔は「パン」「パンッ」と、張りを取り戻し、体の存在感も戻ってくる。
【図8】上田美和『ピーチガール』4巻(講談社)134頁
このあともさえはしばしば、ぺらぺらに薄くなるのだが、ここからは、その薄さを逆利用して建物に侵入したり、幟のように風に吹かれながら自動車につかまって移動したり。このあたりがじつ に楽しいのだ。まさにエンタテインメントとしての敵役。
しかし、このように外見がかわいく(?)なったからといって、さえの企む悪事の質もかわいくなったわけではない。後半のさえの企みはもっとえぐさを増しているとも言える。
さえは、仕事で知り合ったトップモデルのジゴローに、もものバージンを奪うように仕向け、ももを睡眠薬で眠らせてベッドで写真を撮る。目覚めたもものショックも相当なものだが、この刃はむしろとーじに向けられる。さえはとーじに、ももと別れて自分の彼氏にならないと、このときのももの写真をジゴローのドラマ制作発表の記者会見でばらまく、と脅すのだ。いったん週刊誌などの記事になれば、ジゴローはともかく、一般人のももには、一生消えない傷が残る。
悩んだとーじはさえのいうなりになり、ももと別れてさえとつきあい始める。一方、わけがわからない理由でとーじにふられたももは、一見チャラいけれど、これまで何かと手をさしのべてくれた岡安カイリとつきあうようになる。しかしそれはそれで問題が発覚し(カイリの本命は、じつはカイリの兄・涼に片思いしている保健の先生の操ちゃん?)、一方、さえの方もカイリの兄・涼とあやしいムード。いったいももは最終的にとーじと結ばれるのか、それともカイリか? 『ピーチガール』は、ラストが最も予測がつかない恋愛マンガと言っていいだろう。
◆さえの、ももへの執着
さえは終始、ももに対して激しいライバル意識を燃やしている。
たとえば、読者モデルとなり、自信も周囲の評判も復活させた後、ジゴローにむかって言うセリフがある。
「なんでよ。今はあたしのほうが上なのに、なんであの女のほうが幸せそうなの⁉ あたしのほうがなんでも持ってるのに、なんで負けてる気がするの⁉」
「あの女」とはもちろん、もものことである。また別のところでこうも言う。
「人があたしより幸せになるのって許せないの」
これを聞いたさすがのジゴローも、「そんな理由で友達を傷つけたの…⁉」。
さえは物語の後半で、人を操ることに関して自分よりも上手で、ネズミ講の元締めのようなことまでしているカイリの兄・涼を好きになり、あのさえが、涼には振り回されるようになる。涼も本音を見せないキャラだが、あるとき、さえに向かってこう語る。
「なんでカイリはあんな自然に人の心に入り込めるのかな」「羨ましすぎてムカつく。あいつのこと好きだけど、いなくなればいいって思うときもある」
「ね、オレって欠陥人間でしょ」という涼に、さえも、今まで語らなかった本音を語りだす。
「あたしも……あたしもおなじ。ずっとももちゃんが羨ましかった。ひとりぼっちでも強くて前向きで、ももちゃんと関わった人はみんなももちゃんを好きになるの。あたしがどんなに悪評広めても、必ず理解者が現れるの」
「あたしの周りからはどんどん人がいなくなるのに、ももちゃんはみんなから好かれて。悔しくていつも敵対視してた。なんであたしはももちゃんみたいに愛されないんだろうって。ずっとずっと寂しかった」
さえは子供のころ病弱でやせっぽちで、しょっちゅう病気をして家族のイベントをだいなしにする疫病神だと思われていた(少なくともさえはそう思っている)。大きくなって健康になり、かわいい外見も手に入れたが、さえがほんとうになりたかったのは、周囲からの評価に左右されない、もものような存在だった。だからこそさえはももが気になり、ももを参照項として、ももが持っているものを自分も手に入れようとし、ももにしつこく絡み続けた(やりすぎだけどね)。さえのももに対する態度は、「好きな子ほどいじめる」という子供の行動であり、また親の愛に対する「子供の試し行動」であるともいえる(やりすぎだけどね)。事実、ももは、さえからあれほどの目にあわされ、「あんたのしたことを、あたし一生許す気になんてなれない」と言いながら、先にみたように、孤立するさえに体育の時間には手をさしのべ、涼に振り回されてぺらぺらになったさえを心配し、「ありがと。あたしのこと心配してくれるの、ももちゃんだけだね」【図9】。
【図9】上田美和『ピーチガール』17巻(講談社)22頁
結局、ももはさえを見捨てられないのだ。
続編である『ピーチガールNEXT』(2016~)では、ももはカイリと、高校以来10年つきあっており、一緒に住んですでに4年。もうすぐ結婚――というので、カイリがそば屋で修業後、のれん分けをしてもらって開業した店のお客の世話で、一軒家の新居を借りて暮らすことになる。
ところが、その隣に突然、ももたちの新居そっくりの家が出現‼ そこから現れたのは、なんと、さえ! しかもとーじも一緒! とーじはももをあきらめたあと、別の女性・凪沙と結婚し、かわいい娘にも恵まれたのだが、妻は事故で亡くなり、一人娘の海結も、気落ちした妻の実家にせめて……と言われ預けられたままである。ももの家の隣にそっくりの家を建てて、とーじを同居に誘ったのはさえ(そこまでやるか!)。
ももがとーじに「なんでさえと暮らすことになったの?」と問うと、とーじは「安達に会いたかったから」(!)と答えるが、さえがとーじにこう問う場面がある。
「あんたやっぱり私を監視するために同居してるんでしょ。ももちゃんを守るため?」「昔から損な役回りばっかしてたよね。私からももちゃん守るためにももちゃんと別れてさ」「それで岡安に取られちゃって、あんたなにも報われてないじゃん!!」
【図10】上田美和『ピーチガールNEXT』2巻(講談社)22-23頁
それに対してとーじはズバリ、「安達のことばっかりだな」「そんなに認めてほしかったのか。隣に越してきてまで」。
それを聞いた瞬間、さえはかあっと赤面して自分の部屋に駆け込む【図10】。図星である。さえは、ももになりたかっただけでなく、ももに自分を認めてほしかったのだ。
もう少し後の場面で、とーじは今度はももに、さえのことをこう言う。
「安達には甘えきってるからな、あいつ。なにしても受け止めてくれると思ってる。よっぽど好きなんだな、安達が」
そんなはずはない、と否定するももに、とーじは言う。「好きだと思うよ。でなきゃわざわざ隣に引っ越してきたりしないよ」
とーじはカイリからも、隣に越してきたのはももを守るためかと聞かれる場面がある。とーじの答えは、「安達だけじゃなく、柏木も。あいつ一人でじゅうぶん輝けるのに、いつまでも安達と自分を比べるよな。柏木は柏木のままでいいのに」。
『ピーチガールNEXT』でも、さえの策謀は健在である。しかし『NEXT』ではもう少し、さえの心に分け入っていくような描写がなされている。物語も後半になって、さえはももに、隣に引っ越してきた理由をこう語る。
「ももちゃんと岡安が結婚するって知って正直ムカつきました。それを私にだけ黙ってこっそり引っ越ししたことに怒り心頭でした。私を切って、知らない場所で幸せになるつもりなんだって思ったら許せなくて、ぶち壊してやりたいって思ったの」
そのあとさえは、思いがけない言葉を口にする。「本当にごめんなさい」
もちろん、かといって、これを境にさえの嫉妬や悪だくみがなくなるわけではない。
◆さえの持つ突破力
さえの持つももへのコンプレックスは理解できるところがあるとして、ではそれ以外には、さえを肯定的にみる材料はないのだろうか。じつはそんなことはない。
なにより重要なのは、さえの持つ突破力である。
『ピーチガール』にも、ももが、さらに岡安が、さえに鼓舞される場面がある。
最初は、岡安にじつは本命の女性がいるのではないかというので、ももが岡安から離れようかと悩む場面である。さえは言う。
「本当に心から好きになれる人なんてそうそう現れないよ。好きな人に自分を好きになってもらえる確率なんてもっと低いよね。ももちゃん。つらいって言うけどさァ、岡安とその本命の女、まだつきあってるわけじゃないんでしょ? だったらまだ勝負ついてないじゃん。試合放棄したらそこでおわりだよ」
「あんたに叱咤激励されるとは思わなかった」ともも。
あるいは、ももに「岡安じゃダメなの‼」と言われて身を引こうとする岡安に対し、さえは「あのねェ、電池なんて充電すりゃ元通りになんのよ! なんでそこで引いちゃうワケ⁉ 女の言うこと言葉どおり鵜呑みにすんじゃないわよ」。
岡安も、「さえちゃんに励まされると思わなかったよ」。
続けて岡安に、どうやって涼のことあきらめたの? と聞かれて、さえは「あたしはあんたたちみたいに自分の感情押し殺したり、気を遣ってやりたいこと我慢しないもん。落ち込むだけ落ち込んだら、あるときからフッと楽になって、なんだかどうでもよくなっちゃった」
この、「あたしはあんたたちみたいに自分の感情押し殺したり、気を遣ってやりたいこと我慢しないもん」というのが重要である。たしかにさえは自分の欲望に正直で、そのためには手段を選ばない。それは周囲には迷惑至極だが、一方でこの正直さは、さえの美点ともなりうるものだ。
『ピーチガールNEXT』では、妻を亡くして娘も妻の実家に奪われ、生きる気力をなくしていたとーじを現実の世界に引き戻したのは、さえの力である。
とーじは語る。「そんなときだった、柏木が来たのは」
『ももちゃんと岡安が結婚するんだって。あの二人の絆がどれほどのもんか確かめてやろうと思うんだけど、あんたも来ない?』
「最初、こいつなに言ってんだ?って思ったけど、ちっとも変わってない柏木見てたら、なんでかちょっとおかしくなって」
とーじがさえと共に、再びももの前に現れたのは、そういういきさつだったのだ。
ももは思う。<さえは自分のことしか考えてない。自分の都合で引っ張り回してるだけ。でも、あの暗闇からとーじを連れ出したのはさえだ。好き勝手に振る舞いながら、過去じゃなく今をとーじに見せてるのは、さえだ>
岡安は言う。「毒も少しなら薬になるっていうじゃん? 今のとーじにはさえちゃんの毒が効いたんだよ」
とーじは娘の海結も妻の実家に取り上げられている。ほんとうは亡き妻が残した子供を自分の手で育てたい。だが義母の悲しみをみて、少しの間なら…と思ったのだが、海結に会いに行くにも、「孫を取り上げられるのでは」と、しだいに招かれざる客になっていく。逆に実家からは、なぜたった一人の孫に会えないのか、と責められるとーじ。しかも、ついに義母は、海結を自分の養子にしたい、とまで言い出す。
これに切れたのがさえである。とーじの義母にむかって怒鳴り散らすさえ。
「今度は養子とか、二度もとーじから娘を取り上げる気⁉ 娘を失う哀しみはあんたがいちばん知ってるでしょ!! ふざけんな、クソババア!! そんな自己中に育てられるあんたの孫の将来が心配だわ!!」【図11】
【図11】上田美和『ピーチガールNEXT』3巻(講談社)62-63頁
さえにしかできない芸当である。その後、ももと一緒にとーじの義母に会いに行ったときもさえはこう言う。
「とーじは凪沙さんのこともおかあさんのことも大切に思ってます。だけどとーじのこと、考えてくれた人っていましたか…⁉」
とーじがいつも黒い物をどこかに身に着けていることに、さえだけは気づいている。
とーじと海結にとっては、同居するさえは確実に有益な存在となっている。以前はももの彼氏だから欲しかっただけだったが、少しずつほんとうにとーじに惹かれていくさえ。しかし、ももと一緒になるというとーじ(このころカイリは介護を抱える操の家族のもとに通い、ももとは決裂している)に「柏木とはつきあえない」とはっきり振られ、さえはカイリに、ももちゃんを「今からでも取り返してよ‼」とすがるが、カイリからは「オレたちもう別れたし、それに…元はと言えばさえちゃんが望んだことだろ」。
自業自得。さえのやり場のない怒りと悲しみは海結の前で爆発し、さえにとっても耐えられないほどショッキングな出来事が起こる。再び、これまでにないほどペラペラになったさえ【図12】。
【図12】上田美和『ピーチガールNEXT』8巻(講談社)54-55頁
さえはそのまま、スポンサーの歯科医のもとに失踪するためのお金を借りに行く。ももとカイリの新居の隣にそっくりの家を建てるなどの資金は、「挑戦」とか「クラウドファンディング」と称して、この歯科医にすべて出してもらっていたのだ。
さすがに「もう二度と迷惑かけないので、最後に少しだけお金を貸してください」と言うさえに歯科医はいう。
「僕はさえちゃんのこと迷惑だなんて思ったこと一度もないよ」「僕はずっと親の敷いたレールを歩いてきたんだよね。それが嫌で、でも道を外れるほどの勇気も行動力もなくて。だからタブーをものともせず、自分のやりたいことをやるさえちゃんがうらやましかった。それって僕にはできないことだったから」
ここに、さえの突破力に自分を託していた存在がいる。これこそがさえの本領、敵役の醍醐味だろう。「道を外れるほどの勇気も行動力もなくて」、でもどこかで、欲望のままに生きてみたい、自分にはできなくとも、そういうふうに生きている人間を見たい、という欲求。
人の心はきれいなものばかりでできているわけではない。妬み嫉みの感情もある。思わず人に意地悪してしまうときもある。「さえってひどいよねえ」「さえなんか大嫌い!」と言いながら、ちょっとはそこに、自分の負の感情を仮託する部分が誰しもあるのではないか。悪だくみは度が過ぎているが、正直で、赤ちゃんや犬に対する温かい感情ももっているさえ。
物語のラストでは、犬と一緒にいるぺらぺらのさえをみつけたももは、さえと一緒に、たいへんな状況に巻き込まれる。さえはあいかわらずさえだが、生死を共にしたももとさえとの間には、新たな絆が生まれたともいえる。
ももが最終的に結ばれるのはカイリか、とーじか。
そして、さえととーじと海結はこの先どうなるのか。
『ピーチガールNEXT』で最も変わったのは、ももではなく、さえである。読者にはその変化を見届けてほしい。
※本文中の台詞の引用は、読みやすさを考慮して句読点を適宜補っています。