ウェブ平凡 web heibon




第1回

エブリデイ惑いまくり

[ 更新 ] 2022.01.17
 今年、40歳になった。成人してから20年が経過した。成人のダブルスコア。つまり40歳は大人だ。押しも押されもせぬ、有無を言わさぬ、どこに出しても恥ずかしくない大人だ。そのはずだ。孔子も「四十にして惑わず」という有名なリリックをプッシュしているくらい、40歳は大人だ。そういうことになっている。

 しかし実際はどうだろう。40歳の私はちゃんと大人をやれているんだろうか。大人っていうか、もう中年というグループにジョインする年齢だが、ガワはともかく中身はぜんぜん“そういう塩梅”になれていない気がする。今日もガリガリ君とマックのポテトがぜんぜん美味いし、いま着てる服はカレーの染みの落ちないTシャツと尻の部分が擦り切れたスウェットだし、眉毛の描き方がずっと分からないし、税金や保険のこともよく分からず、確定申告は「とりあえず出してみて怒られたら直す」という方式で通しているし、仕事はあるが、締め切り前に納品できたことなんてほぼなくて、おそらくいくつかの出版社の暗殺リストの上の方に載っているし、プロット通りに書くこともできない。片付けができず、ゴミ屋敷状態になったアパートから死ぬ思いで引っ越した先の新居をまた散らかしている。マッチングアプリをダウンロードしては削除するのを繰り返し、別れた相手からはしみじみと「恋愛向いてないよ」と評価され、年に20回はダイエットと禁酒と禁煙を思い立ち、ゲームのやりすぎや漫画の一気読みで寝不足になり、通販で無駄遣いをし、貯金ができず、冷蔵庫できゅうりを腐らせ、サボテンを枯らす。ようするに20歳のときと全く変わらない態度と生活様式と精神で生きている。変わったのは徹夜ができなくなったのと陰毛に白髪が出現したことくらいだ。

 昔から、一秒でも早く大人になりたい子供だった。30歳を過ぎても35歳を過ぎても「昔に戻りたい」とは一瞬も考えなかった。今もそうだ。歳を取るのが嬉しい。だって大人になれるから。しかし40になって、「これ、大人か?」という根本的な疑問にぶち当たってしまった。年はとった。しかし、なんか違う気がする。「大人です!」と胸を張って宣言できる要素があまりに少ない。人生80年と考えると、もう折り返し地点だ。そんなとこでまだ「あたし、大人……なのかしら……?」なんて惑っていていいのだろうか。あんまりよくない気がする。いやだ、あたしゃ大人になりたい。マジで。
 そして周囲の同じ年頃の友人知人に話を聞くと、みんなやっぱりいい年こいて「大人になりたい」と感じているようなのだ。なんなら家庭を持って己の子まで成しているやつまで「大人になりたい」と言っている。みんな惑っている。21世紀になって私たちは確かに少しずつ自由になっているけれど、人類史において初めて「どうやって年をとったらいいのか分からない」世代になっているのかもしれない。敷かれたレールを走りたいわけじゃないが、灯りも地図もない荒野に放り出されるのは不安すぎる。

 じゃあまずそもそもの話、「大人」って、どういうものなのか。子供のころ、将来自分がどんな大人になるのかよく妄想した。その時思い描いていた己の姿は、経済的に自立し、都内のオシャレなマンションで一人暮らしをし、シュッとしたスタイルでモードなファッションを着こなし、あとはこう、友達とかいっぱいいて……週末はパーティとかクラブに繰り出しているような……書いてて恥ずかしくなってきたな。バブル全盛期に田んぼと山とパチンコ屋とヤンキー文化しかない田舎で育ったので、当時のルサンチマンにより、「バブリーできらびやかなシティライフ」に対する憧れが人一倍強いのだ。そんな私の理想の大人像は、わたせせいぞうやパトリック・ナゲル(デュラン・デュラン『Rio』のジャケ画の作者)のイラストに出てくるようなアーバンでヒップでバッチグーな肩パッドギャルである。ああいう感じの大人に、時を経れば自然となるもんだと思っていた。
 ちなみにわたせせいぞう先生のバブルを代表するトレンディ・コミック『ハートカクテル』(もちろん全巻持ってます)の中で渋くて意味深でオトナな会話を交わしている登場人物たちはだいたい20代半ばとかせいぜい30歳程度の設定なのだ。80年代は「ハタチ過ぎたら大人」だった。今は20歳くらいだと、まだコドモの箱に入れておいてもいいんじゃないかくらいの感じで周囲も本人も見ている気がする。

 さすがに今は、大人になるというのはそういうブランドスーツとか肩パッドとかオーセンティックなバーみたいなガワの話だけじゃないのは理解している。大切なのは精神性であろう。大人の精神……。イメージとしては、落ち着いていて思慮深く、清濁併せ呑む包容力があり計画性がある、みたいな感じがする。
 ここで一番身近な大人、すなわち自分の両親を思い浮かべてみたが、これがまた二人とも私の30倍くらい元気でチャラい人たちなのだ。少なくとも40年間、「うちの親は落ち着いているなあ」と思ったことは一度もない。それでも年齢的には当たり前に私よりかなり大人であることは間違いない。ああいう人の「大人観」というのはどうなっているのか?

 さっそく母にLINEで「大人ってどういう状態だと思う?」という曖昧なインタビューを投げてみると「責任感を持つことと、過去を振り返って反省することかしらね」というネタにしにくいくらいまっとうなご意見が返ってきた。チャラくともさすがにアラウンド古希。どちらも確かに「大人として重要な要素」っぽくはある。なるほどねとは思うが、ふと辺りを見回せば、そこをクリアしてる大人は(自分含め)そんなにいないんじゃないの……? と感じる。特にニュースに出てくるような偉そうな面してスーツにネクタイ締めてなんか知らないが税金をジュルジュル吸って暮らしているオッサンたちにはその要素が欠けに欠けている気がする。気のせいかしら? 彼らは大人じゃないのかしら。だとしたらなんで税金払って大事なことを任せなきゃならないのか……。とくにこの数年は、政治のニュースに何度「まともな大人だったらこんなことしないだろ!」と絶望の悲鳴をあげさせられてきたことか。

 いや待てよ。政治家や行政のリーダーが大人らしくないってことは、それを選んでる側、つまり私やあなたが大人じゃないからかもしれない。だとするとこれは思ったよりもややこしい問題なのかもしれない。
 10代から30代前半くらいの時期、私はもっとふざけた人間だった。若くて体力があったのもあるが、無軌道に酒を飲んではチャラチャラ遊んでいたし性格も今よりチャラかった。しかし近年の私は、締め切りを破る以外はとってもまじめ。別に心を入れ替えるようなエピソードがあるわけじゃなく、自然とそうなっていた。たぶん、若いころは社会がもうちょっと真面目だったのだ。だから気楽にふざけることができた。でもいま、この世はメチャクチャだ。ふざけきった世の中でふざけることほど退屈なものはない。大人になりたいとこんなに強く考えるようになったのも、このふざけた世界をなんとかしたいという気持ちの表れなのかもしれない。もし大人になりたい年だけ中年ズが大人になれたら、それで世の中ちょっとマシになったら、またあのころみたいに気楽にふざけちらかすことができるのかな……?

 あれこれ考えているうちに、また母からLINEがぴろんと来た。そこには「でもまだ自分の中にガキの部分があるのを感じる」という恐ろしいメッセージが記されていたのだった。我々は本当に大人になれるのだろうか……?(以下次回)

※続きは書籍『40歳だけど大人になりたい』でお楽しみください。
SHARE