第3回
西新宿「ゆでめん」通り
[ 更新 ] 2026.04.01

西新宿の町の端っこの方には80年代、いやいや90年代くらいまでは、湾曲した道ぞいに軒の低い店が並ぶような裏町じみた商店街がいくつもあった。いまの新宿税務署通りのどんづまりのあたりとか、十二社通りの裏筋とか。その十二社通りから山手通りの方へぬける「けやき橋通り商店街」というのが2000年代に入る頃まで存在していて、車のヌケ道で何度か通ったはずだが、あるとき神田川に架かる橋(相生橋)のあたりにフェンスが忽然と設置されて、いつしか丸ごとタワマンエリアに変貌してしまった。そんな往年のけやき橋通り商店街のちょっと南方に、昭和中頃の雰囲気を留めた商店筋がかろうじて残っている。十二社通りの方からも入っていけるけれど、電車を使う場合は大江戸線の西新宿五丁目が近い。
地下の駅から方南通りの口に出ると、道向こうに台湾料理の山珍居がいまも健在だ。方南通りの道幅が広がる前からの老舗で僕も何度か行ったが、赤塚不二夫のかなり年季の入った色紙が飾られていたのを覚えている。
山珍居を向こう側に見て、1つ新宿寄りの信号の横道を左に入っていくと、やがてY字が三又になったような辻に行きあたる。左手の角に赤提灯を掲げたいい感じの庚申堂があって、郊外の旧道風情を漂わせている。辻の正面側に理容室やセトモノ屋などの古商店が軒を並べているが、この通りは十二社通りの方から延びてくる道で、街灯などに表示は見あたらないが、ひと頃は「みのり商店会」とか「庚申通り」とか呼ばれていたようだ。
この道を西方に進んだところに「柳橋」という昔の神田川支流に渡されていた橋跡がある。残された橋柱に「昭和七年九月廿日成」と読みとれる彫り込みがあるから、1932年の9月(廿日は20日のこと)、東京市が拡大されて35区になる頃だ。この辺が豊多摩郡から淀橋区に昇格するのを機に、ちっぽけな木橋からコンクリート橋に架けかえられたものなのかもしれない。
柳橋というくらいに、ひょろっとした柳が1本橋際に植わっていたはずだが、枯れてしまったのか、見あたらない。古橋や暗渠探しのマニアには知られた場所のようだが、もう1つ、Jロックバンドの草分け・はっぴいえんどのファーストアルバムのジャケットに描かれた「ゆでめん 風間商店」のモデル地として、そちらのファンにも伝わっている。
僕も高校時代、発売よりは2年ほど遅れてこのアルバムに親しんだが、僕よりかなり下世代の小川画伯もコアなはっぴいえんど愛好者のようで、ここにはもう何度かやってきているらしい。ちなみに、その「ゆでめん 風間商店」は柳橋の西詰に実在、廃業して看板がなくなった後も、面影を残す平屋がけっこう最近まで存在していたはずだ。
この「ゆでめん」のジャケを初見した当時はウドン屋を思い浮かべていたのだが、何かで読んだ作者の林静一画伯のコメントによるとここは製麺工場のようで、屋根のエントツから煙が噴き出す様子が描かれている。新井薬師の回でも書いたが、やはり中野近辺は製麺工場が多かったのかもしれない。さらに、このジャケをよく見ると、質屋の看板に「池の下」「交和通」の文字が読めるが、これはバス停にもある十二社池の下(かつて池があった)と近辺の交和通り商店会のことで、池の下の下に半分見えている字は「熊野神社」に違いない。その横の貼り紙にある「成子映劇」という映画館も、このアルバムが出た70年代初め頃まで成子坂下で営業していたらしい。
さて、今回の絵はそんな柳橋の「ゆでめん」前あたりから新宿方面を眺めたショット。低い家並の先に都庁と高層ビル街がひょこっと入りこむ新旧のコントラストが面白い。が、実は左側の飲み屋の並びが取材当日スコンと消えて、サラ地になっていた。そこがサラ地じゃサマにならないので、半年ほど前に僕が撮影した写真をベースに描いてもらった。ここにも、いよいよ再開発の波が押し寄せようとしているのだ……。
ところで、橋際の風間商店は消えたが、その隣りに風間の表札を出した民家が存在し、棟続きの道角のところに去年、カフェがオープンした。カウンターの女性がひとりで営む小さな店で「KEMURISOU」という名が、ふと「ゆでめん」ジャケのケムリを連想させる。はっぴいえんどのことは知らずにここで店を始めた……と伺ったが、この日たまたまなのかリトル・フィートの曲が流れていたのは、あの時代っぽかった。
そう、ケムリソウというのは珈琲の焙煎のケムリにちなんだもので、店の外壁に排出する管とエントツが備えられていたから、時折ここから「ゆでめん」ならぬ珈琲豆のケムリが吐き出されるのかもしれない。

