第2話
水のいきもの
[ 更新 ] 2023.08.20
小さい頃から眠るのが好きだった。外が暗くなってくると、頭の中がとろりとして、甘い眠気がやってくる。寝つきのいい赤子で手がかからなかったと母も言う。
夜だけではない。退屈な授業中、揺れる通勤電車内、予定のない休日の昼下がり、人々の声が反響する飲食店……明るい場所でも、眠ろうという意識もなく眠りに落ちる。「まーた、寝てる」と笑いをふくんだ親しい人の声が遠く聞こえるが、すぐに私を包む音の塊に呑み込まれてしまう。まぶたの裏で感じる陽の光はやわらかく、ぼわぼわと伸び縮みして、なにかに似ていると思う。その思いも、私も、眠りに溶けて消えてしまうのだけれど。
目覚めてから、気づく。あれは水の底から眺めた景色に似ているのだと。光を受けた水面がゆらめきながら輝き、音も感触も遠く、不明瞭になる。
眠りは水の中につながっているのかもしれない。そんなことを考えるほど、よく水中にいる夢をみた。夢の世界では水中でも息ができた。体の重さもなく、ずっと、ずっと、冷たくも温かくもない水の中でたゆたっていられた。
それが、私にとっての眠りだったのに。
かたくこわばった首と肩を揉む。深呼吸をするが、肺の奥まで酸素が届いていない感じが残る。何度も浅く、せわしく、息を吸ったり吐いたりする。よけいに、酸素が足りなくなった気がした。酸素について考えるのがいけないのかもしれない。
スマホのまぶしい画面を見たら、ますます眠れなくなるのはわかっているが、ついつい触れてしまう。三時五分。夜明けは遠いが、アラームが鳴る八時まで五時間を切っている。五時間は寝たかった。せめて、四時間半。また会社でうとうとして叱られてしまう。へその下がむずがゆくなるような焦りが込みあげる。狭いワンルームの部屋がぎゅううっと縮んで私を押しつぶす、息苦しい妄想が浮かぶ。
駄目だ、と起きあがった。
寝巻きの上にコートをはおり、マフラーを鼻の下までぐるぐると巻きつける。ニット帽を目深にかぶりブーツを履いて玄関を出た。節電のため、マンションの廊下は薄暗い。エレベーターではなく階段を使って一階へ下りた。
透明な自動ドアがひらくと、冷たい外気が頬を撫でた。吸い込んだ空気はかすかに鉄臭く、鼻の奥がつんとした。家々は暗く寝静まっているけれど、街灯に照らされたアスファルトがガラスの破片を散らばせたかのように光っている。寒さがきらめく夜。靴音がひびかないボアのブーツを履いてきて良かったと思う。
コートのポケットに手を突っ込んで夜の住宅街を歩く。庭つきの大きな家の窓辺で、仕舞いそこねたクリスマスのイルミネーションが寒々しく色を放っている。その隣の低層マンションのベランダからは人型の黒い塊がぶら下がっている。サンタクロースの置き物だろうかと思った瞬間、それが動いた。
黒い塊はだらりと腕をのばし、一階のベランダの手すりに足をのせ、手を離すと同時に飛び降りた。ほとんど音はしなかった。なめらかに着地すると、フードをかぶり、なんでもないように歩きだす。肩幅がひろい。夜の闇をぬうっと割くように進むその姿は獰猛ないきものを思わせた。ふと、その足がとまる。私を見ていた。すうっとこめかみから血の気がひく。
泥棒かもしれない。ようやく思いいたる。きびすを返し、自分のマンションの方角へと向かう。ポケットの中のスマホを握りしめ、急ぐ素振りを見せないように気をつけて。
「ちょっと」と暗闇に声が響いた。心臓が破裂しそうになる。
「ちょっと待って、そこのひと。なんか勘違いしてない? あそこ、俺の部屋だから」
じゃあ、なんでベランダから出るの。こんな真夜中に。
そんなことを訊き返す勇気はなかった。聞こえなかったふりをして、歩を進める。あと五歩、路地を曲がったら走って逃げよう。大通りまで出れば交番があるはず。あと四歩、三歩――
背後で地面を蹴る音がした。ふり返る間もなく、強い力で肩を摑まれていた。声をあげようとするが、でない。ひゅうっと喉が鳴るだけだ。
「待ってってば。通報とか、やめてくれる?」
私を見下ろす顔は思った以上に若かった。
「しません。誰にも言いません」
ようやく声をだせた。どう見ても私より年下なのに敬語を使ってしまう。
「やめてよ、おどしてるみたいじゃん。ここ寮だし。この時間に玄関から出れないだけだから」
学生なのだろうか。そのわりには、しっかりした体をしている。大きめのウィンドブレーカーを着ていても、首から肩の筋肉が盛りあがり、胸板も厚いのが見てとれた。
「わかりました」
そう言うと、睨めつけるようにして私を見た。白眼が夜に浮く。波を裂く、黒と白の海獣がよぎった。似てる、と思いながら続ける。
「ほんとうです。通報とかしません。明日、仕事なので平和に寝たいので」
おっけ、と男性は口の中で飴を転がすように呟き、しばらく私を眺めてから、ゆったりと離れていった。遠ざかる逆三角形の影を見つめて、大きく息を吐く。かすかに指先が震えている。眠気は完全にきえていた。
「なにしてんの」
諦めたように男性が言ったのは、曲がり角でぶつかりそうになったときだった。その前に二回すれ違っていた。一回目は街路樹の向こうだったので互いに知らぬ顔をし、二回目はぎこちなく会釈だけした。
「なにって……」
言いよどむと、男性は「俺もか」と呟き、「会いすぎだろ」と笑った。横柄な物言いにくらべて笑い顔はあどけなかった。
怖い思いをしたから家に帰ろうと思ったものの歩き続けてしまった。神経が昂ったままベッドに入っても眠れないし、恐怖を持ち帰りたくなかった。遅くまでやっている繁華街や車が行き交う大通りは安全かもしれないが、ネオンやライトが目に刺さる。人のいる場所は明るい。だから、何台も防犯カメラがついた屋敷のような家がならぶ高級住宅街を選んで歩いていた。男性も同じことをしている感じがした。
「もしかして明るい道を避けてる?」と訊くと、ぴたりと笑いがきえた。「まあ」と反抗期の中学生のようなふてくされた顔をする。
「なんか目ぇ、冴えそうだし」
「私も」と言うと、男性は首を傾けて私を見た。初めて人として認識された気がした。
どちらからともなく歩きだした。等間隔に街灯の丸い明かりが落ちる住宅街を進む。男性の歩幅は大きく、動きはなめらかだった。白い息が流れていく。
「あのさあ」と男性が言った。「ふつうに危ないっすよ」
ようやく私が年上だと気づいたのか不完全な敬語で訊いてくる。
「わかってる」とだけ返す。
「おねえさんも眠れないんすか」
「眠れないと思うと、よけい眠れなくなりそう」
男性はなにか言いかけ、口をひらいたまま数秒、目をさまよわすと「そっすね」と頷いた。
「俺、寝ようとか思ったことなかったのに」
「え」
「いつも、睡眠ていうか気絶だった。ベッドに転がったら、気絶するみたいに寝てた。こんなことなかった。なんか頭が邪魔」
ごつ、と鈍い音をさせて自分の頭を殴る。やめなよ、と呟くと「おねえさんは?」と横目で言った。
「溺れたの」
男性が驚いた顔をした。
「どこで」
「夢で」
笑われるかと思ったが、男性は口を結んだまま続きをうながすように私を見ていた。
「夢の中だけは自由に泳げたのに、溺れる夢をみたの。苦しくて、苦しくて。それから、ときどき眠れないの」
ストレスだとか心配事があるときの夢だと占い好きの友人には言われた。思いあたることがないわけではない。けれど、ストレスも心配事もない人間のほうがめずらしいのではないか。
溺れる夢はリアルだった。それまで自分を包んでいた心地好いものが、一瞬で圧に変わる。もがいても水面は遠く、水の底へと落ちていく。水を飲み、ごぼごぼと空気の塊を吐き、胸を搔きむしりながら目覚めると、全身が冷や汗でびっしょりと濡れていた。
話を変えたくて「お腹すいたかも」とうそぶく。道の先にコンビニが見えた。人工的な白い光を放っている。明るすぎる、と足がとまる。男性も立ちすくんでいた。
「こうしていると幽霊みたい」
「幽霊?」
「幽霊じゃなくても吸血鬼とか妖怪とかでもいい。人の世界の明かりに近づけない夜の存在」
言いながら、隣の男性は違うと思った。彼は私よりずっと輪郭がくっきりしている。
「あいつらも眠れないんだな」
男性が幽霊や妖怪を友達のように言い、のどかな笑いがもれた。
「そろそろ帰る」と向きを変える。これ以上、一緒にいたら楽しくなってしまう気がした。
男性が喉の奥で不明瞭な声をあげ、ゆらっと私の前にまわり込んだ。大きな手を差しだしてくる。ためらっていると「ほら、おやすみ」とぐいと近づけてくる。
そっと手を重ねる。強く握られた。寒い晩なのに、驚くほど熱い手だった。
「大丈夫。俺、溺れたことないから」
よくわからないまま握った手を上下にふった。互いの健闘を祈るように。もうそのときには半分眠りの中にいたのかもしれない。帰り道の記憶はおぼろで、暗い地面はぐにゃぐにゃしていた。目覚ましが鳴ったとき、私はコートを着たままベッドに倒れていた。
半年ほど経った頃、男性をテレビで見た。世界各国の選手の中でひとり、ふてくされたような顔をして、睨めつけるような目をカメラに向けていたからわかった。彼はゴーグルをつけ、襲いかかるように水に飛び込み、青いプールの中をまっすぐに泳いだ。彼の、筋肉におおわれた体のまわりで白い波がつぎつぎにうまれた。やっぱり水のいきものだったのだ。
夜の散歩をすることはなくなった。
眠れぬ夜、てのひらを闇にかざす。この手を握った大きな手の熱さを思いだすと、かすかに体温があがる心地がする。
たとえ夢で溺れることがあっても、あの手が私を水から引きあげてくれるだろう。
深い安堵の息のはざまで眠りがひたひたとよせてくる。