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第1回

カネノタメ

[ 更新 ] 2026.06.25
 「カネノタメ……カネノタメ……」
 仕事探しのために50歳を超えても縁が切れない黒のリクルートスーツに身を包み、いつまで経っても慣れないパンプスでアスファルトの上を歩く。そしてスーツの上から羽織ったトレンチコートの表面を花粉まじりの風が撫でてゆく。
 向かう先は、アルバイト講師募集サイトを通じて2度目に応募した「個別指導塾」だった。ちなみに最初に面接に行ったところは、全国に支部を持つ大手の塾だ。自宅からほど近かったので面接試験を受けたのだが、見事に落ちたようでその後何の連絡も来なかった。「見送りの結果であっても連絡します」と伝えられたはずだが、その連絡すらない。私の面接結果はよっぽど駄目だったのだろう。しかし私も私で先方からなんの音沙汰もないことに、そこはかとない安堵感を抱いてもいた。
 そもそも私がなぜ塾講師のアルバイトを探し始めたかといえば、事務職で週3回くらいの仕事(つまり自分の体力でやれそうな仕事)が年齢のせいか見つかりにくくなってきたからだ。また、鬱のせいか朝の弱い私は、朝早い仕事もしんどくなってきている。選択肢がさらに狭くなるなかで、致し方なく塾講師の仕事を探すようになったのだ。

 私はいわゆる氷河期世代と呼ばれる時代に就職をしようとしたものの「正社員」と呼ばれる立場にはとんと縁がなかった人間である。縁がないというか、ありていに言えば正社員という立場からはあぶれたのである。そもそも就職活動の前に大学院を中退して修道女になろうとしたものの修道院さえも受け入れてくれなかったのだから、企業になど入れるわけもないと気づくべきだったのか。いや、そう考えるならば、さらに遡れば私は中学時代からいわゆる学校に行ったり行かなかったりの「五月雨登校」をしており、高校からは本格的に「登校拒否(不登校)」(注1)、その後中退をした。登校拒否しているから正社員になれないというのは暴論極まりないが、登校拒否をし、自殺未遂をした後、キリスト教の洗礼を受け修道女になりたいなどと願うあたりも含めれば、私は「普通」の仕事などおおよそそぐわない人間であったかもしれない。
 だがたとえ、会社勤めにそぐわない人間であろうとも生身の人間である以上、他の人と同様に寝て食べて生きていかねばならない。独身で自分以外の生計の担い手がいないのであれば手段はどうあれ住まいや食事を確保せねばならない。したがって、その後派遣社員や非正規労働者として職場を転々としながら日銭を稼いで生きてきたのだった。
 10代の頃から経験した仕事を数えあげれば最短1日(!)で挫折したものを含めて数多ある。古いものから郵便局のゆうメイト(年末の年賀状の仕分けを含めれば3回ほど経験)、病院の看護助手、ラーメン屋の接客、祭りの出店の売り子(ヨーヨーすくい)、旅館の住み込みスタッフ、家庭教師、データ入力、写真展の搬入搬出スタッフ、ベビーシッター、外務省の事務員、梱包用の袋を作る工場ならびにシートベルトの製造工場労働者、宅配便の事務、厚労省管轄の研究所内にある図書館のスタッフ、市民メディア記者、NPO職員、電話相談員、大学のTA(ティーチングアシスタント)やチューター、中学校の事務員、編集校正……。
 さてここまで読んで私の学歴を確認した人がいるだろうか。「大学院博士課程中退」とあるが、そのような学歴を重ねてなぜ先生になりたくなかったのか? と疑問に思う人がいるかもしれない。
 まず大学院は何のために行ったのか? という疑問が浮かぶだろう。私に関して言えばはっきり言って将来のためではなかった。本来なら大学院は学問のプロになるための修業の場所、それこそ「先生」と呼ばれうる身になるための場だったのかもしれないが、私にとって大学院は、自殺未遂をし洗礼を受けたのちも、自分が生き続けるための言葉を見出す場所だった。この時期についてはシモーヌ・ヴェイユを研究していたとプロフィールで説明をしたこともあるが、私にとってはヴェイユの語る「神の愛」や「不幸」、あるいは彼女にとって大いなるトラウマとなった「工場経験」について考えることは、自分自身が生きていく手掛かりを探ることだった。
 他方でもし自分が大学の教員になると考えると、その教員イメージはかなり白昼夢的なものとなっていた。「大学の教員」について考えた際にぼんやり浮かぶイメージといえば、学生を指導している姿でもなく、大教室で教師をしている姿でもなく、ましてや何百人の学生のレポートを確認する姿でもない。また、学会で発表をしたり、大学内の運営の仕事に携わるイメージでもない。本がたくさんある部屋にいて、ゼミと称して少人数で本を読むイメージで、そんな様子を頭に浮かべると「いいなあ」と思える、そんな程度だった。それは私が哲学専攻で、フィールドワークも実験も行わない学問を専攻していたからでもあるだろう。2026年現在の大学はそんなのん気な状態ではないし、正直、私が通っていた頃の大学でさえ、そんなのんびりと大学教授が過ごしていたようには思えない。おおよそ「職業としての学者」のイメージは限りなくぼんやりしたまま大学院に入っていたのである。今のように大学院の入学願書提出時に研究計画書提出が必須な時代には私のような人間は大学院に入学することもできなかった可能性もあるのだ。
 また、たとえば大学の頃2回ほど「家庭教師」を経験したことはあるのだが、どうにも勉強を教える気がまるで起きないトンデモな家庭教師であった。小学生の女子生徒を教えていたはずだが、その生徒のことを悲しいくらい思い出せない。親御さんは小学生に家庭教師をつけるくらいとても教育熱心で、やる気の出ない私に「成績を上げてもらえないと困る」とお金を出している側からすれば当然の注意をした。そしてその後即座に私は家庭教師を辞めた。注意されたことが嫌だったのではなく、ほとほと自分が先生として子どもと対峙するのが嫌だったからだ。そして、この経験を人前で語ったことはほとんどなかった。なぜなら私は、大学院を飛び出した後は先生と呼ばれる仕事に就くことはないと思っていたからだ。それからずっと、2024年まで先生という職種にはまったくかかわってこなかったのである。
 考えてみれば家庭教師、そして塾の講師など学部や院の学生ですでに「先生」と呼ばれるアルバイトをしている人はかなり周りにいた。なんならその生徒たちとの出会いによって人生の方向性を決めている人たちもいた。彼ら彼女ら(he/she/they)に私が特段思うところはなかったのだが、自分にとっては子どもの人から「先生」と呼ばれることほど違和感のあるものはなかった。そんな人間が先生になろうとしている!! 冒頭の「カネノタメ」という言葉は私が塾の講師職を探す唯一の理由であった。だからこそ金がないというのはすごいことだ、こんな私が先生になろうとしてるのだからと呟きながら、うちから1時間半弱かかる埼玉県S市の駅に到着した。駅前はそれなりに栄えた場所だが、それでも何かの用事がなければ降りることなかった駅である。駅から歩いて5分。小さなビルの2階にその塾はあった。ドアを開き、面接を受ける。塾講師となる志望動機を訊かれて「カネノタメ」と答えたら一発で弾かれそうだなと思ったことを覚えているが、肝心のなにを言ったかはあまり記憶がない。国語と英語と数学の試験を出されて解いたところ「文系なんですね」と言われた。1回目に受けた塾ではそこで解散になったが、ここの塾では「それでは、よろしくお願いします。契約書をお渡しします」という流れでその場で「合格」が決まってしまった。実にあっけなく採用となり、次からは研修、その後授業という流れになっていった。こうして私は塾講師になってしまったのである。


(注1)私が学校に行かなかった/行けなかった時代(1980年代)は「登校拒否」という言葉が一般的に使用されていた。1990年代頃から「不登校」という名称が一般化したが、その背景には、子どもの「怠け」あるいは母子の心理的問題としてのみとらえられてきた「登校拒否」に対して「どの子でも起こりうる」ものであるという当時の文部省の方針転換の影響がある。心理的な言葉の「登校拒否」ではなく状態を表した「不登校」という言葉がメジャーとなり、更には1998年度から「学校ぎらい」という長期欠席の分類が廃止され、「不登校」という名称に変更された。

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