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※試し読み
第一章 おのれ自身と水泡と鉄塊の重さ

[ 更新 ] 2020.06.10
*『乱れる海よ』は2022年秋に単行本化予定です。ご予約はこちらから。


 記者は走った。
 暗闇の中を全力疾走で。
 あのビルの中で、何かが起こっている。
 今までに目にしたことのないような何かが。
 二十八歳の新聞記者の暮らすアパートメントに通報があったのは、午後十時五十分。
「大変なことが起こっている! ただちに空港へ行け」
 通報者は叫ぶようにそう言うと、電話を切ってしまった。
 会社の上司だったのか、同僚だったのか、それとも、どこかで連絡先を交換し合った知人なのか、電話回線の調子が悪くて、確かめることもできなかった。相手がそれ以上、話すことのできない状況に置かれているのは、火を見るよりも明らかだった。
 記者は部屋を飛び出した。
 市内のアパートメントから空港までは、高速道路に乗って十八キロほど。
 走行中、彼は数え切れないほどの救急車とすれ違った。空港内で大事故が起こったに違いないと思った。
 着陸に失敗した飛行機が炎上したのか?
 それとも、墜落?
 空港まであと一キロほど、という地点で、道路は封鎖され、彼の車は停車を命じられた。警察官ではなくて、物々しい国境警備隊員たちの姿が見える。
 彼はそこで車を乗り捨てた。あとは自分の足で走っていくしかない。
 空港ビルの近くまでたどり着いたとき、腕時計の針は、十一時半を指していた。通報から、四十分ほどが経過している。泣き叫ぶ人、逃げ惑う人、呆然としている人、右往左往している報道陣、なんとかして、人々の流れをコントロールしようとしている警察官。あたりは騒然としている。
 人々をかき分けて進んでいるさなかに、記者はひとりの男に追いついた。五、六歳くらいの子どもを連れている。
「あなたはなぜ、ビルに向かっているのか?」
 と、記者はたずねてみた。
 ふたりは、空港ビルから逃げようとしている多数の人たちとは逆方向を目指していたからだ。
「空港へ、ロンドンからもどってくる予定の私の母を迎えに来た。夢中でここまで逃げてきたが、母の安否を確かめるために、引き返している」
 記者はさらに問いかけた。
「あなたはなぜ、夢中で逃げてきたんだ? あそこで、何があった?」
「私たちはついさっき、死から、わずか一メートルのところにいた」
 記者にはその言葉の意味がわからなかった。
 問い詰めるように、彼は言った。
「もっと、わかるように話してくれないか」
 はっと我に返って、男は記者の顔をまじまじと見た。そうか、こいつは何も知らないんだな。そんな表情が見て取れる。
「つまり、われわれは日本人から一メートルしか離れていないところに立っていた。そういうことだ。ああ、本当に、なんてことが起こったんだ!」
 日本人?
 この仕事をするようになって以来、記者が現場で「日本人」という単語を耳にしたのは、それが初めてのことだった。


 こんなもの!
 忌々しさと情けなさに駆られて、私は思うさま、手にした数枚の書類を破った。
 びりっと縦に引き裂いたあと、今度は重ねて横に破ろうとしたけれど、その厚さに阻まれて、破り切れなかった。
 いったいいつまで、いくつになるまで、こんな理不尽な目に遭わされなくてはならないのか。無名だから? 女だから?もう若くはない女だから? それも、少しはあるのかもしれない。いや、もしかしたら、それがすべて、なのだろうか。要は、足蹴にされた、弱い者いじめに遭った、そういうことだろう。
 声をかけてきたのは、向こうからだった。
 昨年の秋の日本帰国時に出席した、友人の児童文学賞受賞パーティの会場で、私はその男と知り合った。
 中堅どころの出版社に、引き抜かれて移籍したばかりだという編集者。私の見立てによれば、三十代後半くらいか。温厚で、誠実そうに見えた。第一印象は決して悪くはなかった。
 名刺交換をしたあと、
「中嶋さん、ぜひ、弊社でも、作品を書いていただけませんか?」
 と、いきなり依頼を受けた。
「長くアメリカで暮らしておられる日本人ジャーナリスト、ということで、前々からご相談したいと思っていたエッセイ集の企画があるんです。まずはご検討いただけたらと思います」
 翌日、メールで送られてきた企画書には『老後が不安な日本人、老後が楽しみなアメリカ人』という書籍のタイトルと共に、十二章分の見出し、各項目の内容の梗概、新進気鋭のジャーナリスト「中嶋果林」のプロフィールや顔写真──インターネット上に出ているものを引っ張ってきたのだろう──まで掲載されていた。判型やページ数や想定価格や発行部数まで。ここまで決まっているなら安心だと思った。
 滞在中のホテルから、すぐに返信した。
「喜んで、お引き受け致します」と。
 即決で引き受けた理由は、この企画に興味があったから、ではなかった。今は仕事を選んでいる場合ではない、と思ったから。
 お金が欲しかった。
 それに尽きた。
 フリーランスのジャーナリストとして、かつては全米を、ときには世界を駆け巡っていた時期もあったけれど、四十代の半ばを過ぎた頃から、仕事が減り始めた。ガクン、ガクンと、階段を踏みはずすように。同時に、体力的な限界も感じるようになっている。日本からアメリカに帰ってきてからの、時差による疲れが以前は二週間ほどで治っていたのに、このごろでは、一ヶ月以上もかかってしまう。
 三十六のとき、アメリカ人の夫と離婚して以来、ひとり暮らしをつづけているマンハッタンの、アパートメントの家賃を払うだけで精一杯の日々。ここ数年は「ジャーナリスト」と名乗るのは詐欺なのではないかと思えるような仕事しか、できていない。生活費を稼ぐために、掛け持ちでアルバイトをしている。使い捨てのトイレットペーパーにも等しい、雑誌や新聞の細切れの仕事ではなくて、増刷されれば印税が入るかもしれない書籍の仕事、というのもありがたいと思った。
 さしずめ私は「老後が不安な在米日本人か」などと思いながらも、しかし、このタイトルはいただけないなと思っていた。いくらなんでも、アメリカ人の老後は楽しみで、日本人の老後は不安、と、一刀両断にまとめてしまうのは、いかがなものか。どうしても使いたいなら、このフレーズは帯に載せればいいのではないか。
 かねてから、日本人がこうで、アメリカ人がこうだ、と言い切ることに疑問を感じていた。アメリカ、とひと口に言っても、北から南まで、東から西まで、実にさまざまな州があり、田舎があり都会があり、そこには、さまざまな人種の、さまざまな民族の、さまざまな宗教を信じる人たちが生活している。日曜の午前中は欠かさず教会へ行く人もいれば、英語を話せない人もいれば、大富豪もいれば、路上で生活するホームレスの人もいる。むろん、日本だって、そうだろう。住んでいる土地によって、就いている仕事によって、家族構成や経済力やライフスタイルによって、実にさまざまな老後があるはずだ。老後が不安なアメリカ人もいるだろうし、老後が楽しみな日本人だっているはずだ。
 二日後、都内の喫茶店で会って、打ち合わせをした。
「中嶋さんと仕事ができることになって、本当にとてもうれしいです。こんなに早く話がまとまるなんて、思ってもいませんでした」
「私もうれしいです。帰国中に、こんないいお話をいただけるなんて」
 いい感じで打ち合わせが進んでいる。そう確信できたので、私は思い切って、こんな提案をしてみた。
「アメリカ人、日本人、合計百人くらいの人たちに話を聞いて、インタビュー集という体裁でまとめるのは、いかがでしょう? 通り一遍のエッセイ集ではなくて」
 打てば響くように、色好い答えが返ってきた。
「ああ、それ、いいですね。具体的な発言や肉声を読んでいるうちに、テーマがじわじわ炙り出されてくるわけですね。非常に理想的な展開です」
「タイトルは、原稿が揃った段階で、ほかにいいものがあったら変えませんか?」
「そうですね、ぜひ!」
 願ったり叶ったりの方向へ進み始めた、と思った。
 インタビューは得意だし、一時期、アメリカ人作家、スタッズ・ターケルのインタビュー集に夢中になり「いつかこんな本を書いてみたいものだ」と、あこがれていたこともあった。
 アメリカにもどったあと、さっそく、人脈を駆使して、五十人ほどのアメリカ人とのアポイントメントを取りつけた。うち半数は、マンハッタンと近郊在住の人たち、および、ニューヨーク州とその近隣の州に住んでいる人たちで、この人たちには実際に会いに行って話を聞かせてもらう段取りをつけた。残りはメールと電話で。
 取材日程を固め、原稿の脱稿日まで決めていた。
「できれば、来年度内に出版したいと思います」
 という編集者の言葉を信じて、ほかの依頼を断ってまで、この仕事に没頭していた。
 信じていた自分が浅はかだった。
 何も見抜けなかった自分が馬鹿だった。
 今にして思えば、兆候はいくつか、あった。
 メールを送っても返事がすぐには届かなくなり、催促してからやっと届いた返事には、私からの質問に対する答えが何も書かれていなかったりする。それまでは、誠実さの表れだと思えていた思慮深そうな言葉が、煮え切らなさのようにも思えてくる。慇懃無礼なお詫びの言葉の空疎さにも辟易させられていた。
 取材を始めて、二ヶ月くらいが過ぎていたか。
 すでに、アメリカ人五十人の声は集め終えていた。一ヶ月もあれば、原稿は書けるだろう。日本人にインタビューするための帰国の計画を立て始めていた頃「実はこれまで別の仕事に手一杯で、返事が遅くなってしまって申し訳ない」という前置きのあとに「この企画はいったん白紙にもどして欲しい」と書かれたメールが舞い込んできた。白紙とはすなわち、没である。理由は「編集長の最終的な承認がどうしても得られなかった」からだという。
 唖然とするしかなかった。
「弊社は実用書を得意とする会社なので、インタビュー形式はいかがなものか、と言われました」
 メール画面に釘づけになっている自分の目を疑った。
 今ごろになって、この人は何を言い出すのか。そもそもこの人は、編集長の承認なしで、私に仕事の依頼をしていたのか。おめでたい私は、成立していない仕事にせっせと励んでいた、ということなのか。
 アメリカでは、あり得ないことである。
 もと夫で、今は友人のアンドリューに話したら、一笑に付された。
「契約書なしで仕事を始めたきみの方に問題があると、ボクは思うね」
 正論としては、確かにその通りだと思った。けれども日本では、契約書なしで仕事を進めるのが当たり前、と言っても過言ではない。良し悪しは別として、それが社会の慣習なのだから、どうしようもないではないか。
 アンドリューは、もと妻を慰めることも忘れていなかった。感情的な慰めではなくて、彼の得意な「有効なアドバイス」だった。
「メールが残っているだろ。メールの文面というのは法律上、契約書と見なされるんだよ。契約不履行、名誉毀損、パワーハラスメントで訴えてやれ」
「ありがとう。励ましの言葉として、ありがたく受け止めておく」
 お礼を言って電話を切ったあと、虚脱感に襲われた。
 日本では、こんなことでいちいち訴訟を起こす人などいない。国内で雇える弁護士もいない。私にはそんなお金も時間も余裕もない。第一、訴えたって勝ち目はないだろうし、せいぜい笑い者になるのが落ちだろう。
 泣き寝入りをするしか、道はないのか。
 くやしい。この男の上司に事情説明をしてみるか。いや、それも空しい。日本の会社では、上司が部下をかばうことが多いと聞く。特に男同士の場合にはそれが顕著だという話を、以前、会社員の友人から耳にしたこともあった。
 あとにつづく作家たちのためにも、泣き寝入りをしないで、出るところへ出て、きちんと抗議をするべきではないかと、葛藤はしたものの、結局、泣き寝入りに甘んじることにした。一刻も早く忘れて、悩んだり、くやしがったりしている不毛な時間を、生産的なことに使おうと思った──。
 
 引き裂いた企画書をリサイクル用のごみ箱に放り投げると、私は、書棚の整理作業に移った。
 住み慣れたダウンタウンにあるこの部屋を引き払って、来月から、家賃の安いニュージャージー州、ジャージーシティで暮らすことにしている。
 ハドソン川を渡るだけで、月2800ドルだった家賃が750ドルまで下がる。これなら、本業が暇なときでも、日本料理店での夜の仕事と、ときおり入ってくる日本人観光客のガイドや、日本人ビジネスマン・ウーマンの商談のための通訳のアルバイトで、なんとか凌いでいけるだろう。
 マンハッタンまでは電車で三十分以上かかるし、部屋数も減ってひと部屋になるし、バスタブはなくなって、シャワーだけになる。
 治安も少し悪くなるけれど、背に腹はかえられない。
「いわゆる都落ちってやつだね」
 飲み友だちからはそう言って、笑われた。
「でも、落ち着いて物を書くためには、いい環境かも」
 と、言ってくれた人もいた。
 とはいえ、目下のところ、私には特に書きたい物などないのだけれど。
「すぐ近くにインド人街があるよね。あの駅に降り立つと、カレーの匂いがするよ。きみにはぴったりの町じゃない?何か手伝えることがあったら、声をかけて」
 アンドリューは再婚後、セントラルパークを見下ろせる高級アパートメントで暮らしている。その財源は、今の奥さんの方にあると聞いている。
 インドへは、三十代の初めに、アンドリューといっしょに貧乏旅行をした。そのときの体験を本にまとめて出版した。売れもせず、話題にもならず、返品の山を築いただけの結果に終わった。それでもインドは今でも、私の好きな国のひとつでありつづけている。
 ターメリックとコリアンダーの香りの漂っていた、ジャージーシティのビルの階段を思い浮かべながら「そういえば」と、私は思い出す。
 エレベーターなしの物件では、フロアを一階、上がるごとに引っ越し料金も上がると言われた。私の借りる部屋は、五階にある。
 引っ越しの荷物は極力、少なくしたい。
 アンドリューと別れる前までは郊外の一戸建てに住んでいたから、マンハッタンのアパートに移るときに一度、身辺整理は済ませてあった。それ以降、できるだけ質素な生活を心がけてきたし、物には執着していない方だと思っている。けれども、本だけは贅沢に集め、好きなだけ溜め込んできた。
 それらをここで一気に処分しなくてはならない。
 紙の本を捨てるのは忍びないけれど、仕事の資料の大半は、インターネットでも得られる昨今、大切な本だけを残して、あとはリサイクルするか、古本屋に持ち込むか、図書館への寄贈などで処分しよう。
 最初は一冊、一冊を手に取り、しげしげと眺めたり、ページをめくったりしてから「残すか、捨てるか」と思案して選別していた。愛着を感じるか、仕事の資料として残すべきか、この二点を根拠にして。
 次第に、愛着と資料、それぞれの基準が曖昧になってくる。
 そのうち、四、五冊をまとめてつかんでタイトルだけ見て、ぱっと判断できるようになっていた。
 
 これは?
 手放す方の箱に入れようとした手がふと、止まった。
 これは、誰の書いた本?
 ずっしりと重い一冊の本を手に取り直して、表紙、背表紙、裏表紙の順に、眺めた。
 かなり古い本だ。
 色とデザインと匂いでわかる。
 タイトルは『カイエ──名も無い革命家の残した断章』。
 もともとは白っぽかったと思われるカバー──英字新聞記事のコラージュで飾られている──は変色して薄汚れ、帯の掛かっていた跡だけが妙に白い。「天」と呼ばれる本のページの上部と、模様のない裏表紙には点々と、無数の茶色い染みが散らばっている。
 自分で買った覚えのない本だ。
 奥付を見ると「1978年12月25日 初版第1刷発行」と出ている。
 三十年あまり前に出た本の、定価は2500円。三十年前にしてはかなり高価である。版元の名前にも見覚えがない。売るために作られた本ではなかった、ということなのか。
 著者名は、表紙には記されていない。
 かわりに、タイトルの左横にごく小さな活字で「渡良瀬千尋・遺稿編集室」と印刷されている。
 渡良瀬千尋──わたらせ・ちひろ、と、私は胸の中でつぶやいた。つぶやきながら「ああっ」と思った。
 もちろん、この名前を覚えている。
「千尋さん」
 思わず口に出して、名前を呼んだ。
 大学時代につきあっていた人の呼び方だった。彼は渡良瀬千尋のことを「千尋さん」と呼んでいた。ふたりのあいだに交流があったわけではない。ただ、勝手に親しみをこめて、そう呼んでいた。あるいは、渡良瀬千尋には「高志」という名前の弟がいたからだろうか。弟と区別するために、ファーストネームで呼び分けていたのか。そのあたりの記憶は、曖昧模糊としている。
 ただ、このことだけは、はっきり覚えている。私も彼の呼び方を真似て「千尋さん」と呼んでいた。彼の敬愛している人だから、私も敬愛しなくてはならないと思っていた。彼の心酔する思想に、私も心酔するのだ、と。
 お尻に卵の殻をくっつけた、恋に恋するお子様の、実に無様で、実に不恰好な恋だった。何もかもに体当たりでぶつかっていった。頭の中が空っぽだったから、体を張るしか、なかったのだ。
 彼に愛されていない、彼の眼中には私などないと、誰よりもよく知っていながら、あきらめ切れずに、追いかけつづけた。
 あれを恋と呼べるのかどうか。七十年代の終わり。私は十八歳。
 巷では『あんたのバラード』という歌が流行っていた。

 あんたにあげた 愛の日々を
 今さら返せとは 言わないわ
 酔いどれ男と 泣き虫女
 しらけた笑いに 厚化粧ひとつ

 ラジオから、まるで不発弾が突然、爆発したかのようなひと声「あんたに」が聞こえてくるたびに、これは世良公則が「私のために」歌ってくれている歌だと思っていた。
 四畳半ひと間の彼の部屋で、もどってこない彼──私が部屋に来ているとわかっているから帰ってこないのだと、私にはわかっていた──をひと晩じゅう待って、泣き明かした夜明け前に「これで終わりにしよう」と決心した。
 彼の本棚から、彼のいちばん大切にしていたこの本を抜き取って、盗んで、自分のものにした──。
 
 また会えたね、千尋さん。
 こんなところで、会えたね。
 こんなところにいたの。
 千尋さん、今まで、どうしていたの。
 まるで旧友に話しかけるように、心の中で呼びかけた。
 考えてみれば、いや、考えてみなくても、ただ私がすっかり忘れていただけだ。この何十年間、すっかり忘れていて、思い出しもしなかった人だ。
 こんな本を自分が持っていた、ということさえ忘れていた。本に書かれている内容だって、まったく覚えていない。読んだのかどうかも、覚えていない。ただ、ここにこうして本がある、ということは、日本からアメリカに引っ越してきたときに持ってきたのだろうし、離婚後にも手放さなかったわけだけれども。
 会ったこともないし、声を聞いたこともない人なのに、なぜか、なつかしさのようなものを感じている。別れた恋人──渡米するきっかけをつくってくれた、という意味では感謝している──のことは、なつかしくもなんともないのに、なぜか、渡良瀬千尋に、親しい友人に対して感じるような感情を抱いている。
 渡良瀬千尋が私を、見つけてくれたのかもしれない。
 長いのか、短いのか、わからないような、三十年という歳月が一瞬にして縮まって、私の手もとから、今、何かが始まろうとしている。そんな予感が胸をかすめていく。
 ぱっと、無作為に、ページを開いてみた。
 見開きのちょうどまんなかあたりにある【6・24】という日付が目に飛び込んできた。
 いつの年なのか、定かではないけれど、六月二十四日に記された、ひとかたまりの文章。日付の下につづく言葉は「おのれ自身と水泡と鉄塊の重さ」。
 最初は立ったまま、それから、処分するつもりで部屋のすみに寄せてあった、ばねの壊れているソファーに腰を下ろして、つづきを読んだ。
 こんなことをしていては作業は一向に捗らない。頭ではわかっていながら、ページをめくる手を止められなくなっていた。


 午前三時十五分。
「重力と恩寵」読了(シモーヌ・ヴェーユ著作集第2巻所収)
 その興奮の中でペンを取る。
 読むたびに、読めば読むほど、俺は広げられ掘り下げられ深められ……どこまで行くのか、先は見えないし見たくもない。
 喉から手が出るほど欲しくて、清水の舞台から飛び降りる心境で買い求めた著作集Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ。一食を抜いてでも金を貯めて買った価値はあり過ぎるほどあった。ⅣとⅤも必ず手に入れたい。まだまだ彼女の言葉を読めることの幸せよ。
 それにしても無名(無知な世間では、ということであって、本当は無名ではない)の女性哲学者に、なぜここまで俺は惹かれるのか。
 ふたつの世界大戦を生き、闘い、そして三十四歳の若さで逝ったユダヤ系フランス人。俺と同じ偏頭痛持ち。彼女の思想はカミュにも絶大なる影響を与えているとされる。
 彼女の死から2年後に俺は生まれている(このことに意味はあるのか)。
 『重力と恩寵』は彼女の死後に出版されたものだ。1947年。死から4年後。つまり彼女は自分の文章が出版されたかどうかも知らずに死んだ。しかも彼女はこれを著作として著したわけでもない。この本は他の彼女のすべての本と同じで、生前、彼女の残したカイエ(いわゆる断章、文章の切れはし、寄せ集め、雑記帳ともいう?)を集めて出版されたものなのだ。つまり彼女は自分の思想がのちのちまで活字の形で残って、人々を揺さぶり、人々を変えつづけていることを知らない。
 これが意味することは何か。
 ああ、そんなことはどうでもいい。
 俺に彼女の思想が全部、理解できているのかどうか。それが問題だ。理解などできていないに違いない。まるで、理解など。
 そもそも彼女は理解や共感を求めて書いたのではないだろう(だったら何を求めて? と問いかけることがそもそも不毛だ)。
 俺には彼女の思想を理解などできない。
 なぜなら俺は、今の俺は今、ここにこうして在る俺は単なる水泡に過ぎないからだ。そうだ、俺は単なる泡に過ぎない。あるいは、ふわふわ漂ってパチンと弾けるシャボン玉か。
 俺は「俺自身」という泡を抱えている、泡のような存在に過ぎない。
 俺という水泡と、ヴェーユという鉄の塊。
 その軽さと重さに、俺は呆然とする。その卑小さとその美しさに。
 茫然として立ち尽くしながらも巨大な鉄の塊のその輝きが、その美が、その純粋な魂が、俺の腐った脳に染み込んでくるのを感じている(塊と魂という字は似ているな)。
 水泡のような俺の腹に鉄の塊を抱え込め!
 そうだ、理解するのではなくて抱え込むのだ。
 いつか自爆する装置として。世紀を超えて爆発する不発弾として。
 マルクスやエンゲルスを読んだときとは決定的に違う何かが俺の中に流れ込んできて、俺を再構築しようとしている。
 バラバラにされボロボロに解体され組み立て直される。
 再構築されることを俺は望んでいるのか?
 再構築された自分を誰かに理解されたいと?
 ああ、そんなことはどうでもいい。ヴェーユの言葉を借りれば「自分が何者であるかを自分でもわからないうちから、人にわかってもらおうなどと思うべきではない」ということ。今、わかっていることはただこれだけだ。
 千尋よ、おまえはおまえの言葉を飾り過ぎる。言葉を信じるな。言葉を捨てろ。言葉に酔うな(宣伝カーの上でアジる執行部のやつらみたいに)。
 言葉では語れないことをおまえは語れ。
 おまえは常に不幸であれ。
 不幸と共に生きよ。道はそこにしかない。
 あしたはまた子どもたちに会いに行こう。その前に髪を切りに行こう。
 授業放棄、スト、ジグザグ、ワッショイ、ワッショイにはもう疲れ果てた。しんどい。デモは単なる馬鹿騒ぎじゃないのか。スポーツだと言って憚らない奴もいるが、スポーツの方がもっと思想的だろう。くそっ、踏まれつづけた踵が痛い。
 貧しくて、家にもどってもそこに勉強をする場所すらない彼ら・彼女たちを「不幸な子」と呼ぶ輩を粉砕するのがおまえの仕事じゃないのか。つまらない大人たちのつまらない言い草に左右されるな。ヴェーユも語っている。抑圧的な正義は犯罪よりも忌まわしいと。
 まずは生きろ。不幸(=間断なく襲いかかる重力)を生きろ。穢れから解放される道(=恩寵)はそこにしかない。
 ──以下「不幸」からの抜き書き。
 
 私の苦しみが役に立つからそれを愛するというのであってはならない。苦しみがあるから愛するのでなければならない。
 
 現世に不幸がなければ、われわれは天国にいると思いこむことになろう。
 
 つとめて苦しまないようにしたり、苦しみを軽減しようとしたりしてはならない。むしろ苦しみによって変わらないようにつとめるべきである。
 
 できるだけ不幸を避けるようにつとめなければならない。自分の出会う不幸が完全に純粋で完全ににがいものであるために。
 
 不幸は、人がありえないと思っていることを現実として認めるように強いる。
 
 不幸もある点まで行くと、もう耐え忍ぶこともできず、その点を持続することも、そこから解放されることもできなくなる。
 
 あらゆる問題は時間に帰着する。
 極度の苦痛。方向のない時間。地獄への道もしくは天国への道。無期もしくは永遠。
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