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第六章 戦士たち──汝の砂漠にふみまよう者ども(前篇)

[ 更新 ] 2021.12.01
 あれは、渡米後、フリーランスのジャーナリストとして、全米を飛び回っていた頃の出来事だったから、今から十年ほど前のことになるだろうか。
 野球の発祥地であり、アメリカ野球殿堂があることで知られる、ニューヨーク州中部のオチゴ湖畔の村、クーパーズタウンを訪ねたときのことだった。
 野球殿堂の取材を終え、その日、殿堂入りを果たした選手へのインタビューの前に、余った時間を潰すために立ち寄ったフェニモーレ美術館で、たまたま、アンセル・アダムスの写真展が開かれていた。
 アンセル・アダムスは一九〇二年、カリフォルニア州サンフランシスコで生まれ、十四歳のときに、両親に連れられて出かけたヨセミテ渓谷の自然を目にして写真に目覚め、以後、アメリカの大自然の風景や植物などを中心にして、モノクロ写真を撮影し続けた、二十世紀のアメリカを代表する写真家である。
 そのとき開催されていた特別展は、しかし、美しいだけの風景写真ではなく、一九四三年、日米戦争のさなかに、カリフォルニア州マンザナー強制収容所に収容されていた、在米日系人たちの様子を撮影したもので、いわゆる報道写真に属する作品群だった。彼のこの仕事の目的は、不当に抑留されている日系人たちの窮状を、アメリカ社会に向けて、訴えることであったとされている。
 おそらく、そのためだろう、アダムスの向けたレンズを見つめている日系人たちの表情は、いたって穏やかで、明るく、ユーモラスで、無邪気ですらあり、そこには「強制収容」という言葉から一般的に連想される悲惨さ、残酷さ、閉塞感などは、まったくと言っていいほど、感じられない。人々は、自分たちの置かれている状況に対して、怒りや無念さを露わにすることはなく、むしろ、現状を受け入れ、日々の暮らしを楽しんでいるかのようにさえ見える。逆境にもめげず、健気にがんばる日系人たち。アダムスの手にかかると、強制収容された人々もまた、アメリカの「美しい風景」の一部になっている、と言ってもいいだろうか。
 けれども、軽い足取りで、まるで食後の散歩でもしているような気分で、それらの写真を見て歩き、最後にたどり着いた壁の前で、私の両足は一瞬、硬直してしまった。
 足が止まり、息まで止まりそうになった。
 私の目の前にあったのは、アダムスの撮影した無数の「美しき人々の写真」の続きとして、さりげなく、何気なく、ドアの隙間からすっと、音もなく差し入れられた、一枚の小さなメモ用紙のような写真だった。
 アダムスの作品ではなかった。
 それは「太平洋戦争とは、いかなる戦争であったのか」を解説するために、美術館側が用意したと思われる歴史写真の一枚で、そこには、日本軍の兵士が訓練と称して、中国の民間人の亡骸を木の棒にくくりつけ、その胸を銃剣で突き刺している場面が写し出されていた。もちろん私は、こういった写真を今までにも何度も目にしたことがあったし、だからと言って、私自身が罪の意識に駆られるのはおかしいと思っていたし、国家は反省し続けなくてはならないし、謝罪し続けなければならないけれど、戦後生まれの日本国民に戦争責任はない、と思っていた。
 思ってはいたものの、それでも、この一枚の写真の前で、私の心臓は凍りついていた。
 人間には、こんな残酷なことができるのか、という思い。
 戦争とは人に、こんな凄惨なことをやらせてしまうものなのか、という思い。
 それらに加えて、私の脳裏に芽生えていた思いとは、こうだった。
 美術館のスタッフたちは、アンセル・アダムスの撮影した日系人収容所の写真に漂っている「罪もなき日系人たち」に対して、一石を投じるようなつもりで「日本軍の兵士たちは当時、このような冷酷無慈悲なことをおこなっていた。よって、この強制収容は、ある意味では妥当なものであった」と、主張したかったのではないか。もしもそうであるならば、この一枚の写真は、見事なまでにその主張を具現化している。
 この写真展は、成功している。そう思った。
 アメリカによる強制収容を正当化する必要は、すでにないはずだ。レーガン政権時代から一貫して、アメリカは、強制収容は間違っていたと、謝罪し続けている。
 それでも美術館では、正当化したかった、ということだろう。そうしてそれは、多くのアメリカ人たちの思いに重なっているのかもしれない。
 美術館の外には、うららかな秋の田園風景が広がっていた。
 裏庭から見える湖面には、思い思いに色づいた木立が映っていた。風が吹くと、舞い散る木の葉が湖面の樹木に落ちて、まるで万華鏡のように揺れた──。
 十年前の秋の陽射しと色の洪水を思い浮かべながら、私は「渡良瀬千尋」というひとりの戦士について、書き始めようとしている。美しい作品になるのか、残酷なものになるのか、今はまだわからないけれど、できるだけ精密な、叶うことならば静謐な、モノクロ写真を文字で創り上げ、人々の目に見せたい。そんな思いに取り憑かれている。


 一九七一年(昭和四十六年)二月の終わりだった。
 前年の三月には、日航機よど号が赤軍派の学生九人に乗っ取られ、韓国の金浦空港に着陸し、乗客・乗員百三人を解放したあと、北朝鮮へ向かった。これは、日本で初めて起こったハイジャック事件であった。同年の十二月には、京浜安保共闘に属する学生三人が東京都板橋区にあった交番を襲撃し、犯人のうちひとりが射殺されている。そして、一年後の七一年の暮れには、警視庁警務部長の自宅で小包爆弾が爆発し、部長の妻が死亡している。
 それから約二ヶ月後に、千尋はひとり、日本を飛び立った。
 向かった先は、レバノン共和国の首都、ベイルート。
 レバノンは、北と東にシリアとの、南はイスラエルとの国境に囲まれ、西には地中海をはさんで、キプロスがある。アジア大陸で最も小さな国ではあるものの、七千年以上もの歴史を有するアラブ世界の中心的存在であり、ベイルートは「中東のパリ」とも称される美しい都会で、当時は、世界中からの観光客を集めていた。ただしその後、一九七五年から一九九〇年まで続くレバノン内戦によって、政治的、経済的な安定はことごとく瓦解するわけであるけれども。
 二日遅れて、沢開風里もベイルートに到着し、その翌日にふたりは、千尋が予約してあった観光タクシーで市内観光をしたあと、在レバノン日本大使館に在留届を出しに行っている。
 「観光ですか? それとも、ビジネスか研究か何かで?」
 と、尋ねた大使館員に対して、
 「いえ、新婚旅行で来ています」
 風里は笑顔で答え、千尋ははにかんでうつむいていた。
 日本を脱出する前に、ふたりは日本で婚姻届を提出し、法的には正式な「夫婦」になっていた。逮捕歴のある風里が日本から出国するためには苗字を変える必要があった、という、ただそれだけの理由によって。
 「結婚してくれる?」
 風里にそう問われたとき、
 「ええよ」
 と、うなずいて見せた千尋の理由は、決してそれだけではなかったはずだ。彼は彼女にただ戸籍上の名前を与えただけではなくて、風里に人生を明け渡した、ということだろう。千尋は、生を生き切るために、あるいは、死に場所を発見したような思いで、風里の形式上の夫となったに違いない。
 それはその後の千尋のすべての行動によって、証明されている。
 のちに千尋が日本から呼び寄せた三人の仲間たち──「京大パルチザン」と名づけられていた活動組織のメンバーに対して、千尋は口癖のように、こんなことを言っていた。
 「訓練の内容については、沢開さんには伝えないように。彼女を心配させるだけやから」
 「今度の作戦については、絶対に、彼女には内緒や。俺らの行動に、彼女は無関係いうことにせなあかん。彼女の身に危険が及ぶから」
 「彼女を守らなあかん。何があっても、彼女に危ない橋を渡らしたら、あかん」
 マスコミ曰く「赤軍派の女傑」であった彼女を、千尋はひたすら「守ろう」と、考えた。そういう意味からすれば千尋は、悲しいまでに彼女の夫であり、下僕であった。
 日本大使館を訪れた翌日、ふたりは、タクシーの運転手に紹介してもらった家具付きの簡易アパートに移った。ホテル形式のアパートである。フロントのスタッフには「兄と妹です」と言った。なぜか「夫婦です」とは言えなかった。夫婦らしいふるまいができないとわかっていたから、きょうだいで通そうと考えたのだろうか。
 風里は二十四歳、千尋は二十五歳であった。
 千尋はチェックインを済ませるとすぐに、あらかじめ情報を得ていた、仲介役を務めてくれる人物に電話をかけた。男の指示に従って、指定された街角の通りに立っていると、一台の車が迎えに来た。
 風里と千尋を乗せた車は街を離れ、小高い山をどんどん登っていく。
 やがて、ジャスミンの木々と塀に取り囲まれた邸宅に着いた。
 邸宅内には、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)の主要メンバーが一堂に会していた。熱砂の戦場で、闘いを戦い抜いてきた、幾多のゲリラ戦士たちのトップに立つ男たちである。PFLPは、パレスチナ解放機構(PLO)に属している組織の中で特に急進的な存在として知られている。
 海千山千の革命家たちを前にして、千尋は怯むことも、臆することもなく、自分たちがはるばる日本からアラブへやってきた目的を語った。彼の英語は、風里も舌を巻くほど、流暢だった。千尋はかつて京都のアパートを訪ねてきた風里から「いっしょにパレスチナへ」と誘われ、即決で承諾して以来、日夜、英会話の猛勉強に励み、アラブ人と丁々発止のやり取りができるほどまでに、会話力を上達させていたのだった。
 「我々は、あなた方のパレスチナ解放闘争に参加し、支援し、世界同時革命の根拠地づくりをするために、ここへやってきた。我々の同志たちも、あとからやってくる予定だ」
 これに対して、PFLPの幹部たちはこう答えた。
 「あなたたちの同志がハイジャックをして北朝鮮へ渡ったことを知っている。あなた方の同志が北朝鮮でどんな活動をしているか、知りたいなら、情報の提供も不可能ではない」
 すかさず千尋は言葉を返した。知りたいのは「情報」ではない。激しい剣幕と言ってもいいような英語でそう言った。
 「われわれ日本赤軍派には、これを機に、世界同時革命軍を作りたいという構想がある。そのためには、戦士として、実践行動を具現化できる軍事訓練が必要であり、まず私自身がそれを受けたいと願っている。私を、あなた方といっしょに闘える戦士にして欲しい」
 居並ぶ幹部全員が声を上げた。
 「けっこうだ。すぐにやろう」
 軍事訓練?
 風里にとっては、寝耳に水であった。無論、そういう流れになることはある程度、予想していたものの、こんなに早い展開で「軍事訓練」が議題にのぼるとは、思ってもいなかったのである。また、ミーティングが終わる頃には、風里がPFLPの出している機関紙の編集部で仕事をするという話まで、千尋はまとめてしまった。
 帰り道、不安を隠せない風里に、千尋はいつもの優しい日本語の口調に戻って言った。
 「心配せんでもええよ。沢開さんは、編集部で働きながら、アラブと日本の連絡係、それから、アメリカ、西ドイツ、フランスの仲間たちとの連絡係をやる。俺は訓練を受けてゲリラ戦士になって、あとから加わってくれる戦士たちの先導役を務める。これが俺たちの任務の分担として、理想の形やろ? 俺たち、ふたりとも、闘いの場所は別々でも、戦士であることに変わりはないやろ? それぞれの砂漠で、それぞれの闘いをやる。せやけど、革命の砂漠はひとつなんや」
 いつのまに、こんなに頼りになる男になっていたのだろう。それとも、もともとこういう人だったのに、私がそれに気づいていなかった、ということなのか。
 風里は、千尋の横顔、削げた頰に視線を当てながら、努力家で、実直で、まじめで、誠実な千尋の別の面──荒々しく、猛々しい、いっそ獰猛と言っていいほどの闘志を垣間見たような気がして、少しだけ、恐ろしくなった。しかし、その恐ろしさ、畏怖の念とはつまり、彼女がのちに獄中で語ることになる「愛」の芽生えであった、ということに他ならない。
 
 ごく短いあいだ、ふたりは、同じ部屋で暮らした。
 千尋は三日にあげずPFLPと連絡を取り合い、今後の訓練の計画を練り上げながら、日本国内の赤軍派のメンバーに「ベイルートへ来い」と書いた手紙を送り続けた。軍事訓練のプランが急速に形になっていくのとは対照的に、日本の同志からの反応は、梨の礫であった。千尋はいらいらした。いったい、同志らは何をもたもたしているのか。自分はここに骨を埋めるつもりで来ているのに。世界同時革命の国際根拠地を、俺ひとりで作れるはずなどないではないか。
 一方、風里は、日本語の文書を英語に翻訳して、PFLPの機関紙に載せたり、PFLPの文書を日本語に翻訳して、仲間たちに送ったりしていた。日本からの反応はやはり、皆無に近かった。彼女はまた、千尋の圧倒的な英語力に感銘を受け、自身はアラブ語とフランス語の習得に熱意を燃やした。
 表面的には実に穏やかな時間が流れた。風里と千尋の関係を兄妹と信じて疑っていないアラブ人男性が風里にアプローチをしてくることもあるほど、ふたりはひとつ屋根の下で、潔癖と言っていいような「夫婦生活」を送っていた。
 そんなある日、
 「ねえ、海を見に行かない?」
 背中を丸めて熱心に、武器の解説書を紐解いている千尋に、風里は声をかけた。
 ふり向いて、千尋は微笑んだ。どこか遠い目をしている。
 この人の眼中には、世界同時革命しかない。そのことを嬉しく思っていいのか、寂しく思うべきなのか、風里には自分で自分の気持ちがよくわからない。
 町外れにある地中海の海岸線まで出ると、ふたりは崖の上に並んで腰を下ろして、大と小、ふたつの奇岩が並んで海面から突き出している「ピジョン・ロック」という名の岩を眺めた。小さい方の岩が鳩の形に似ていることから付けられた名前のようだった。もう片方の岩は、アーチのような、馬蹄のような形をしている。
 千尋はこのふたつの岩を見るたびに、日本の「夫婦岩」を思い浮かべた。中学生くらいのときに、家族旅行で訪れた伊勢で目にした一対の岩だった。日本の岩は、縄で結ばれていた。縄をかけるという行為がどこか「日本的だな」と、思えてならない。日本人は「結ばれる」とか「縁がある」といった言葉に弱い、と、そんなことを思っている。俺とこの人は、結ばれているのだろうか。
 鳩と馬蹄の岩から少し西へ歩くと、砂浜が広がっている。
 砂の上に足跡を付けながら、ふたり、無言で歩いた。
 三月。陽の光は、夏を思わせるように強かったけれど、足を洗う海水は、ひんやりと冷たかった。
 風里は、隣を歩く千尋に、ぞっとするような冷たさを感じていた。この人の内面には、革命と、闘いと、そのための訓練しか存在していない。それは、自分がそうなるように仕向けたことでありながらも、風里はそのことを寂しく思っている自分を今、はっきりと、自覚した。自分がこんなことで寂しくなる女だとは、思ってもみなかった。もしかしたら私は、本気でこの人を──
 その続きはたちまち、黒々とした思いに塗りつぶされる。
 黒々とした思いの正体は、つい先ごろ、日本のある大手新聞にスクープ記事が出たことであった。記事の見出しは【赤軍派の女傑、アラブゲリラと接触か】で、記事にはいくつかの間違いはあったものの、千尋と自分がPFLPと連携して、近く、なんらかの過激な行動に出るのではないかと書かれていた。この記事をもとにしてクウェートの新聞が報じたニュースは、レバノンにも入ってきた。そのせいで、ふたりはPFLPから「離れて生活してはどうか」と、提案されていた。提案は、ほとんど命令に近かった。
 「ねえ、千尋」
 ふいに、風里から名前で呼ばれて、千尋は、見つめていた水平線から視線を風里に向けた。気持ちとは裏腹に、どこか、怒りを含んだような目つきになっている。そんな甘い声で呼ぶなよ、という怒りとは裏腹に、胸にこみ上げてくる甘酸っぱい感情がある。が、風里と違って、千尋はその感情に名前を付けることができない。切なさとか、寂しさとか、愛おしさとか、そんな言葉は、千尋の辞書には載っていない。
 「なんや?」
 「ううん、なんでもない」
 「なんでもないって、なんや、それは?」
 笑顔に、男が滲み出ている。
 「だから、なんでもないって。ごめん」
 「謝らんでもええやないか、悪いこと、なんもしとらんのに」
 そこで言葉が喉に詰まって、千尋は何も言えなくなった。思わず、華奢な体を背中のまんなかまで伸びている長い髪の毛ごと、抱きしめそうになる両腕の衝動を抑えて、その続きを口にした。ゆっくりと、自分に言い聞かせるようにして。
 「短かったけど、楽しかった。部屋の壁にな、沢開さんの女らしい色合いの洋服が掛かっているのを見るたびに、幸福って、こんなもんなんかな、思うたよ。ははは、自分でも、なんか、みみっちくて、笑えるけど。否定しても、否定しても、自己っていうか、特権的な自己ってものは、消えへんのやね」
 千尋の寂しげな笑い声を聞くともなく聞きながら、風里はひとつの確信を得、その確信によって、その場に倒れてしまいたくなるような衝撃を受けていた。
 この人は、遠からず、私を置いてひとりで、どこかへ行ってしまう。それは、日本とアラブのあいだに横たわる距離など遥かに凌駕した、宇宙的なまでに遠いところなのだ。
 それがその日、ゆっくりと膨らみながら落ちていくオレンジ色の夕陽を、吸い込むようにして受け入れながら、一糸乱れぬさざ波を立てている地中海のそばで、沢開風里の抱いた確信であり、外れようのない予感であった。
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