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第1回

電線とのなれそめ

[ 更新 ] 2021.08.02
 私は電線の恋人だ。気づいたらもう好きだった。
 電線愛好家という言葉を英語にすると「Electric Wire Lover」となり、それをまた日本語に訳し直すと「電線の恋人」になる。世界から電力が追い出される機会は今のところなさそうだし、私たちはこれからもずっと一緒にいられる気がしている。
 外へ出ればいつも電線がいて、家の中でも壁や天井の裏の屋内配線や、電子機器のケーブル、自前の電線コレクションなどたくさんの電線たちがそばにいる。どこにでもいるということは、いつも一緒にいることと実質的に同じだ。
 電線は微笑みかけてくれないし、優しい言葉をかけてもくれない。電線は私だけを気にかけてくれることは絶対にない。ただ私が一方的に愛を呟いている。
 でも私は電線が好きだ。電線は電線だからこその良さにあふれている。


見上げるといつもそこにいる。見れば見るほどときめいて目が離せない。

 小学三年生の頃、ものすごく算数ができなくて、学校をよくさぼっていた。
 同級生が学校で授業を受けている昼間、自営業を営む父の事務所があった赤羽に遊びに行ってお絵かきしたり、漫画や本を読んだりしていた。
 普段の生活とはすこし離れたところで、他人の生活の気配を感じながら散歩すると、ありふれたものに対しても目が開いていくのが好きだった。

 算数は嫌いだったけれど、理科の授業で植物を観察しながら写生をする時間は好きだった。明るい光の中で目を凝らし、葉や茎の表面の細い毛を、一本一本描いていくのはぞくぞくする。
 頭上の電線も舐めるように見てみれば、真っ直ぐな線だけでなく、すこしずつ曲がり方や繋がれ方に個性があり、植物の茎や生き物の血管のようなところがあるのに気づいた。電線にときめきを感じるようになったのはこの頃だった。

 まず、私の惚気(のろけ)話を聞いてほしい。

 電線は都市の血管であり神経だ

 街を動かす電気を運ぶ電線、人と人とを繋げる通信線は、それぞれ街中の末端まで張り巡らされ、都市にとっての血液を届け、都市で生きる人間と都市そのものを生かしている。つまり事実として、電線は都市の血管であり神経だ。

 そして、電線が中空に描く線は、人の生活の軌跡そのものでもあるんじゃないかと思っている。
私たちは電線によって、飲み屋街や住宅街など、人々が密集している場所がどう使われてきたかという生活の軌跡と、場所に堆積した時間とエネルギーの流れそのものを形にして目で見ている。
 赤羽の飲み屋街の電線でいえば、この場所に人がたくさん来てたくさんのお酒を飲み、人と関わり合う時間が繰り返されていることが電線の形になって現れているということだ。これって、なんだかSFっぽい。
 電線の寿命、つまり一般的な耐用年数は20年ほどと言われている。超タフだ。
 もしかしたら小学校をさぼりまくっていた私や、大人になってからお酒を飲んだ締めに水タバコを吸ってぐでぐでになっている私を、赤羽のどこかの電線が見守り続けているかもしれない。

 見飽きない表情

 なんと言っても私の都合だけで、いくらでもマイペースに愛でられるのも楽でいい。
 一見すると電線は超ポーカーフェイスだが、こと恋人の私との時間ではさまざまな表情を見せてくれる。あるときは力強く、あるときはすっきりとしていて、たまに隙のある電線の表情は、こちらが能動的に電線の良さを見るためにぐるぐると線の周りを歩き回ったり、カメラのレンズを使って近づいたりすることで発見される。
 まだ多くの人が気づいていない電線の表情を見てしまったとき、好きの気持ちがぼろぼろとこぼれ、やさしいミルクの津波が襲ってくるように私をのみこみ、一瞬言葉が消えてしまう。
 自分の中心が「電線、好き」で完全に呑み込まれてしまった瞬間は静かだ。
 それは、言葉を発しない電線の感覚にほんのすこしだけ触れられたということなのかもしれない。


夜の電線が光っているのは、自分が運んだ電気に照らされているからだ。黒い被覆が闇に浮き上がってちょっとなまめかしい。

 生まれながらの完璧な博愛主義者

 ものを言わない電線は、どんな人間にも平等に、自分のスペックに対して疑いも持たず、ただただ電気を配る生まれもっての博愛主義者だ。いい人にも悪い人にも、私の好きな人にも嫌いな人にも知らない人にも、送電された地点と地点の間でどんな人にも同じように電気を送る。MacBookを使って打ち込まれるこの原稿も電線のひたむきな仕事によって成り立っている。
 ちょっとむかつくことがあるとすぐ人を嫌いになる私は、電線のこの博愛っぷりには足元にも及ばない。

 しかし電線はその博愛を選んだのではなく、生まれた瞬間から健気で平等でしかいられないように作られている。電線が自由なのかどうかで考えてみると、あまり自由ではないのかもしれない。誰かのために電気をとうとうと流すことが電線の本質で、見た目のことや街に布設された際の景観のことなどは、本当は二の次だ。とは言いつつ、電線がインフラとして使われていることを考えてみても、どちらか一方だけを切り取って話すことにも少しためらいがある。

 本当はこんなにベラベラと日本語を使わずに、電線のことを黙ってただ見ていたい。電線の良さは電線愛好家の私が、電線の恋人の私がこれからも私のペースで見守り続けたい。
 しかし電線は誤解されがち、というか寡黙すぎてその良さが伝わっていないというのも事実だ。

 圧倒的片想いのすすめ

 電線の恋人になって良かったことの一つは、私と電線の間のことであればすべて自分で決められるところだ。
 人を相手に気持ちを膨らませると、近づきすぎて重くなったり迷惑をかけてしまうことがある。
 電線の恋人、と言っても電線との関係は圧倒的に私の片想いで、心と心の繋がりはない。心の繋がりが生まれない相手なら、好かれることがない代わりに嫌われることも絶対になく、だからこそ私が自由に愛せる。

 電線についてはどんなに好きを語っても相手に迷惑をかけないし、破局とか結婚とか、苗字を変える云々みたいな社会システムから来る面倒さもない。
 私は電線を見たり写真を撮ったりと、頼まれてもいないのにその良さについて人に語ったり前のめりに褒め称えたりしている。もちろん電線から何の反応も返ってはこないのだけれど、今日も私は電線が送電してくれた電気によって生きていて、死ぬまで電気と電線とは離れない。心は繋がらなくともすでに私たちは深く繋がっていて切っても切れない関係にある。

 死なない恋人と暮らそう(リサイクル率99%以上)

 さらに、電線は死なない。
 耐用年数はあるけれど、現役引退した後の銅はほぼ百パーセントがリサイクルに回されるから、十円玉や銅鍋などに形を変えて私と暮らし続ける。
「恋人」になると大抵の人たちは別れる。どうしよう、うっかりと電線の恋人を名乗ったばかりにいつか私は電線と別れてしまうのかもしれない。でも相手が人じゃないから別れないでいられるはずだ。電線は、物だからこそ愛せる。
 私は電線を愛好している。みんなの電線の、自称恋人としてその愛を前のめりに語っていきたい。


タイで川沿いの電線を撮影する私。電線への前のめりな愛が姿勢にも表れている。

※この続きは書籍『電線の恋人』でお楽しみください。
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