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第4回

コドモガオモシロイ(大人であるということ)

[ 更新 ] 2026.09.26
 私は今も集団で群れている若い男性(中高校生含む)がとても苦手だ。すれ違うだけで緊張するし、いわゆる「陽キャ」グループが笑いながら自分の脇を通り過ぎる時はいまだに自分の悪口を言っているのではないかと疑心暗鬼になる。
 その理由は、10代の頃から今に至るまで、何度となく男性のグループに絡まれてきたからだ。特に10代の頃は「陽キャ」、もといイケイケの「ヤンキー」男子たちがゲラゲラ笑いながら、ただ歩いているだけの私に対してすれ違いざま間髪入れずに「デブ」だの「ブス」だのといった罵声を浴びせかけてくる。私1人の時だけではなく、友人と一緒に歩いている時に酔っ払った若い男が「このブス!」とニヤニヤ笑いながら叫んできた時もある。また電車に私が乗ろうとした時、「体重オーバー!!」などと騒ぎ立てられたこともある。大学時代にも「太り過ぎ」と罵倒してきた男子学生がいた。この手の嫌がらせは若い頃だけの話ではない。10年近く前になるが(10年前だってとっくに40代だ)外を歩いていたら自転車に乗った10代と思しき男子数人が、すれ違いざま「胸は何カップあるのー!」と叫んできたのである。ちなみに今はサイゼリヤで原稿を書いているが、ひっきりなしにどこかのテーブルに座っている男性たちの集団から「デブは来るなよ!」などという声が聞こえてきて、実に居心地が悪い。
 連載第2回で高校生男子を教える際に、今までの人生で接点がなく怯えた経験について(その後の面白い展開も含めて)書いたが、この怯えは単に接点がなかったゆえのみならず、この手の悪意を若い頃から多くぶつけられてきたからだろう。
 また私が中学生の頃、男性の教師よりも女性教師の方が圧倒的に「舐められる」ことが多かった。女性教師に対して彼らは非常に残酷で、「ババア」に類するようなあだ名をつけて平然と笑っていた。男性教師と女性教師で態度を使い分けるのは女子生徒よりも男子生徒に多かった記憶がある。特に私にとって目の敵であったヤンキーや陽キャの男子は、女性教師を舐める一方で、体育教師などの男性教師とは「男同士の絆」で結ばれているようだった。つまり男性教師から叱責や体罰を受けたとしても、いやそのような暴力を振るう相手をこそ男子たちは尊敬しているように見えた。そして「男同士の絆」を見せつけるように卒業式などでは肩を抱き合って泣いていたのである。
 私がその時代(1980年代−90年代)に最も流行っていた芸人のとんねるずやダウンタウンをほぼスルーしてきた理由は、彼らの笑いとこの手の男子の笑いがとても似ていたからだ。不細工な人間や不器用な人間をひどく攻撃する、あるいは丸ごといないものとして扱う。そして美女に対しては極端にチヤホヤするかセクハラまがいのことを行う。芸人はテレビやラジオをシャットアウトすれば触れずに済む。だが、それらに類似した(あるいは影響を受けている)一般男性を完全に世界からシャットアウトすることは不可能であった。しかし塾講師になるということは、すれ違う以上に、その手の男子ともやりとりしなければならない確率が格段に上がるということを意味していると当初は思っていた。そして、こういう男子から絶対馬鹿にされるだろうなあ、と思って恐れていたのである。
 それでは実際のところどうであったのか。
 結論から言えば、今のところ私は彼らに恐怖や脅威を感じたことはほとんどない。その理由はいくつかある。
 まず考えうる理由としては、私が勤めている塾は「個別指導」であり、私が男子の集団に向き合うことはほとんどないからだ。最多でも相手にする生徒数は2人である。そしてイキってくる男子は大概1人になるととても静かだ。それは昔から気がついていた。
 1人では静かな男子も男子同士のグループだと気が大きくなり、馬鹿騒ぎもタガが外れたようになる。性暴力やセクハラを集団で行う輩やからも多い。集団心理(みんなでやれば怖くない)と男性にありがちな心理(強い奴が偉い)は時に掛け算となり暴力が生まれる。それは私がその昔(そう、うんと昔!)男性と付き合っていた頃に感じたことでもあった。私と一対一で話している彼と、男子の集団の中にいる彼はまるで違う人のように見えたことをもぼんやりと思い出したのだった。
 あとは、私が「教師」であるということがとても大きい。「勉強を教える」という立ち位置はやはり特権的だ。特にうまく何かを伝え、相手が納得している瞬間の教師は、おそらく普段の姿より3割増で魅力的であったり、カッコよく見える可能性が十分ある。それは第2回のような男子に遭遇し肩の力を抜いていいと思えたからこそ、逆説的だがこの特権を行使する力を得たようにも感じる(そういう意味でこの生徒は私にとっては恩人そのものである)。
 また、そのような「教師」の立場になると、私自身も不思議なくらい、彼らの言葉に動揺することがなかった。彼らにとっても私は同学年の同世代の女子ではなく、「教師」なのだ。女子生徒が私に「男子が容姿をバカにしてくる」という話をしてきたこともある。私に対して抑えた態度をとっている男子生徒が女子生徒にはまるで違う態度をとっていることは容易に想像がつく。自分が生徒と同じ立場ではないと気づかされる瞬間だ。
 私はかつて幼い子どもであり、10代の女子であった。まだその頃の記憶もしっかり心の中にあるし、その記憶がトラウマ的であることも現在形である。だが同時に今の私は幼い子どもでもなければ、10代の女子でもない。ただ時間が五十数年流れたのではなく、私の中で確実に時間が重なり何らかの変化を生み、今は生徒の横に座るようになった(私の勤める塾は講師の席の位置が生徒の横なのである)。とはいえ塾講師のバイトなど大学生で終わらせ学校の先生になったり大学新卒で企業で働いたりしている人も多数いる中で、50代で塾講師のバイトに一喜一憂している自分は「老成」しているとも言い難い。
 そんな微妙に中途半端な自分であるが、横に座る生徒に対して「めちゃくちゃ面白い!!!」と思うことがしょっちゅうである。「せんせーって恋愛したことある?」と突拍子もなく尋ねられたり、図を描いて説明しようと四苦八苦していた時に「あの……代わりに絵を描きましょうか?」と言われたりなど面白いエピソードに事欠かない。面白さばかりでなく、外見的な要素ではない可愛らしさ、ある種の愛おしさのようなものを感じることもしばしばで、これも正直びっくりしたことだった。若くていいと思ったことなど人生で全くなかったからだ。おそらく今もそう感じている若い人はいるだろう。しかし若い人はどんな性格であれ――フレンドリーだろうが、人見知りであろうが、成績の上下、もちろん性別問わず――エネルギーというものを秘めている。そこにある種の可愛らしさや愛おしさのようなものを感じるのは、やはり私がそれなりに老いたせいなのかもしれない。
 そういえば中学生時代、女性教師を馬鹿にする男子学生に対しひどく憤りを感じていたのだが、女性の教師から見ればそんな男子学生は未熟さしか感じていなかった可能性もある。少なくとも同じ中学生であった私とは違う立ち位置から彼らを見ていたのは間違いない。
 それと同時に目の前にいる若い人たちは、自分とは全く違う「他者」だという感覚も抜けたことはない。そもそも私はずいぶんと「気難しい」人間であることを塾講師をやって改めて気づかされた。いや、気安い人間であるなどと思ったことはないのだが、今、塾で出会う生徒たちの多くと自分の若い頃を比べると(あくまで主観で自分比の話だが)確実に私の方が思い込みが強く、怒りに満ち、そのくせビクビク怯えて生きていたと思う。そしてこんな生徒が目の前にいたら、教師もさぞ鬱うつ陶とうしかっただろう。大学受験を目指すことにした通信制の高校生だった時代、学校帰りの制服姿の高校生が後ろの方の席に座っている中で、私服の私が教室の一番前の席に座り、(通信制高校では大学受験対策などは行っていなかったため)毎回毎回分かるまで質問を連発し、先生につきまとっていた。もはや真面目な学生を通り越し鬱陶しい高校生だったのではないかと今さらながら心配になる。元ヤンキーが熱心な教師になるなどという話が美談のように語られる時があるが、自分自身の若い頃に比べると生徒たちが反抗的でなくおだやかで接するのに楽、などという背景もありうるのではないか。
 ……そんなあれこれを考えながら、今日も夕方に家を出て、塾講師バイトに行くのである。
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