第1回
水道タンクが見える場所(中野・江古田)
[ 更新 ] 2026.02.02

小川真二郎さんは鉄道を入れ込んだ味のある東京風景画を描く人だ。谷内六郎、あるいは原田泰治のような雰囲気もあって、なんとなく気にかけていたイラストレーターではあったのだが、画集の帯の推薦文を頼まれたのをきっかけに知り合った。そんな小川画伯を連れて、僕好みの東京のスポットを巡り歩いてみたい。
まず思い浮かんだのが、中野の哲学堂のそばにある水道タンクだ。行政的な名称は野方配水塔(ひと頃までは「給水塔」だったはず)というらしいが、どことなく鉄人28号の頭部をイメージさせるドーム型コンクリート建築のこの建物は、いまの落合南長崎駅の近くで生まれ育った僕にとって“地元のランドマーク”のような存在だった。
ミステリアスな牢獄とか悪党一味のアジトとかを連想させる不気味な印象もあって、江戸川乱歩の少年冒険モノの挿画なんかにもこの種の塔楼が描かれていたはずだが、自転車で走っているときに、ヌウッと水道タンクが道の先に現われたりすると、おもわずゾクッとしたものだ。好みの水道タンクのポイントはいくつかあるのだが、あーここ、小川さんに描いてもらいたいなぁ……と思ったのが、旧中野通り(哲学堂通り)の芳花園住宅というバス停のあたりから南方を眺めたショット。ゆるやかに湾曲する道を走るバスは、赤いカラーが目をひく関東バスで、傍らの木立ちの緑とのコントラストも良い。
ところで、この「芳花園住宅」というバス停の名称は昔から気になっていた。読みはホウカエンでいいようだが、近隣にわかりやすい看板などを掲げて、何戸かの住宅が塀で仕切られていたりするわけではない。地図に表示されていることもないのだが、あたりを何度か歩いていたら、バス停西方の古道風の横道にある「深野」という大きな家の表札に「芳花園商事」と記されているのに気づいた。
中野区立中央図書館のジモティーな郷土史の棚に見つけた文献によると、この深野家は江古田地域草分けの名主さんで、なんでも日蓮上人が佐渡へ流されていく道中(1271年頃)、ここに宿泊、深い森の中の家ということから「深野」の姓を授かったのだという。さらに、何代目かの芳三という方が花卉草木の栽培に興味をもって埼玉・安行の植木屋に通って技術を習得し、大正2年に家の周囲に開園した6000坪に及ぶ花園を芳花園と名づけ、その後この一帯は関東大震災後の昭和初めに芳花園住宅として宅地化されたようだ。iPadに仕込んでいる古地図アプリ「東京時層地図」の大正時代(関東地震直前)の地図を眺めると、深野家と思しき大きな民家を取り囲むように果樹園や茶畑らしき記号群が認められる。
そうか、このすぐ南方に野方配水塔が建設されるのが昭和3年のことだから、ここももとは深野家の農地だった可能性はある。
ところで、この辺で野方といわれてもピンとこない(駅から離れすぎている)人もいるかと思われるけれど、これは当時の広い意味での「野方町」を指す(もう一つの「中野町」と合併して戦後、中野区となる)。塔の高さは33メートルらしいが、竣工の昭和3年に絡めたところもあるのかもしれない。昭和33年にできた333メートルの東京タワーの10分の1ということだ。
半球型の屋根の少し下にアールデコ調カマボコ型の窓を並べた望楼のような部分が外見できるが、取材絡みで1度そこまで上らせてもらったことがあった。側壁の少し突き出した一角の扉からなかへ入って、内壁に張りつくように備えられた非常階段のようなのをヘコヘコと上っていったはずだが、真ん中は円型の貯水槽を置いただけのがらんどうで僕が入った当時は水も貯まっていなかった。そして、子供の頃「1度あそこへ上ってみたい」と夢に見ていた望楼からの眺めは、想像していたよりずっと低い視界だった。
震災時の水供給のために残されることになった水道タンク──いまは地下に水がプールされていると聞くが、水源は多摩川岸の砧浄水場で、一直線の荒玉水道、東高円寺を北東進して、中野通りの地底のパイプラインを通って水が送られてくるようだ。
哲学堂の西側、蓮華寺の石垣の手前で寸止まりになっている中野通りの新道が、やがて野方配水塔の横を通って、この絵の木立ちあたりで旧中野通りと合流するようになるらしい。
この“なつかしき昭和SF”ムードの景色も、もうすぐ変貌してしまうのだろう。

