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第5回

白金・雷神山界隈

[ 更新 ] 2026.06.01



 渋谷から田町の方へ行く都バスに乗ると、恵比寿3丁目の交差点の首都高をくぐった先から北里研究所のあたりにかけて、背の低い昔ながらの商店街が続く。いまは「白金北里通り商店会」という表示が街灯に出ているが、ひと頃までは「三光豊沢商店会」といったはずだ。このバスには三田の慶応大学に通っていた70年代の頃からたまに乗っていたが、薄緑色の制服を着た聖心の女子中高生や北里病院に通院する年配客で混み合う車内の窓越しに垣間見える、その当時からして“昔にタイムトリップした”ような町の景色が印象的だった。
 ちなみに、三光や豊沢というのはこの辺の旧町名(港区の白金三光町と渋谷区の豊沢町)で、大正時代の古地図を見ると、恵比寿3丁目の交差点のところに豊沢という市電の停留所がある。天現寺から分かれて恵比寿ビール工場の裏手まで行っていたコアな支線の停留所だ。電停が置かれたように、大正の頃にはすでに商店筋らしき表示が北里研究所の前あたりまで認められるが、いまも健在の木造2階屋の多くは関東大震災後の昭和初めの建築だと、以前聞いたことがある。90年代あたりからは、レトロな建物だけ借り受けたバーやカフェ……といった業態が増えてきたけれど、「ハチロー」という素朴な幌看板を出した洋食屋はかなり古い。10年ほど前、さまぁ~ずが町ぶらをする番組で、ここに彼らが入っていくとなかで細野晴臣がひとりで洋食を食べている……なんてシーンを観たおぼえがあるけれど、細野さんは確かこの辺の生まれ育ちだ。
 進行方向右側の清水畳店というのはおそらく戦前からの店だろうが、その少し先、大久保だんご店と川越屋豆腐店の2軒並びは実に良い。バス通りを挟んだ向かい側には三越湯という銭湯があって、銭湯の角の路傍に古町の証しともいえる国旗掲揚台が残されている。
 〈國威宣揚 三光協和會
  昭和十二年十一月三日建之〉
 側面に刻まれているが、昭和12年11月3日と日付まで記されていると、戦時態勢になっていく当時の町の空気感が生々しく想像される。三越湯の開業は昭和初めというから、この国旗掲揚台が建った当初はすでに風呂の客が寄り集まるような場所だったのだろう。銭湯や豆腐屋の近くに昔の水流あり……みたいな話を暗渠マニアの本で読んだことがあるけれど、先の大正時代の地図を改めて眺めると、北方の慶応幼稚舎裏の湿地の池に続く小川が表現されている。水源はそのすぐ南方に「雷神」と記された雷神山の裾あたりかもしれない。
 豆腐屋の横に隠れるような小路があって、突きあたりの階段を上ると小公園の中央に雷神のオブジェと由緒書きが建っている。どことなくSFチックなオブジェはともかく、昔はここに雷神社が祀られ(現在は東方の氷川神社に合祀)、これは平安時代に疫病よけに置かれたものらしい。大正の地図の境内に独立した高木の印があるから、この木に雷がよく落ちたのではないだろうか。
 雷神山の地名は界隈に浸透していたようで、先の清水畳店の脇道に20年ほど前まであった明治牛乳の店看板には「雷神山販売所」とあったし、大久保だんごがひと頃まで軒に提げていた暖簾にも「雷神山下」と記されていた。
 大久保だんごも豆腐の川越屋も店は閉まっていて、近くこの道も拡幅工事が始まるというからもうこういう町並も見納めなのかもしれないが、川越屋の横の路地の先にかつて「白金ホール」というミルクホールの面影を残すシャレた店があったのを思い出す。僕が「アド街」に出ていた95、96年頃は健在で、番組で紹介した記憶があるけれど、この一帯は裏側の雷神山の麓にかけて高層マンションが建っている。90年代の地図を見ると、この一角に「両角ジャム工場」と記されているが、両角と書いてモロズミと読むこのジャムは僕が通っていた新宿区立落合第一小学校の給食に使われていた。パンのお伴のようにイチゴジャムの小袋が付いてくるのだ。北里研究所の先のバス通り左手のマンションビルに小さな事務所が残されているが、本拠は長野(創業者の出身地らしい)に移ったようだ。
 そう、うっかり書き落としそうになってしまったが、大久保だんごの大久保は徳川家康の重要参謀・大久保彦左衛門に由来するのだ、と前に店のおかみさんに伺った。田町行きのバスの白金志田町から近い立行寺は彦左衛門が建立、墓所もあることから俗に大久保寺と呼ばれていた。本店が昔の門前通りと思しき国道1号脇の一角にひっそりとあるが、って感じのこちらの店もシブい。
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