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第4回

子育てを通して出会った、ぶっきらぼうな優しさたち。

[ 更新 ] 2024.04.29
 とある日曜日の朝に、キッズサッカークラブの練習に向かうため息子とバスに乗ったときのことです。

 全席埋まっている車内を目にし、「座れないな。まあ、しょうがないか」と思ったその瞬間、私たちの一番近くに座っていた、見るからにデロンデロンに酔っ払っている恐らく朝帰りであろうイケイケなファッションの若者が、ヨロヨロッと立ち上がり、「座れよ」みたいなジェスチャーで席を譲ってくれたのです。

 若者はドア近くになんとか移動をし、ビール缶片手に目を閉じたまま手すりにしがみつき、体を大きく揺らしながら姿勢を保っていました。が、何かのはずみで姿勢が崩れ、缶の中身をブワーッとぶちまけてしまいました。バス中に立ち込めるビールのにおい。「くさい!」とブーイングする乗客たち。当の本人は立ったまま寝ていたからか、乗客たちの苛立ちも気がついていない様子で、次の停留所でフラッと降りていったのです。

 あんなにへべれけだったにもかかわらず、太古の昔から身体に深く染みついた本能のようにサッと席を譲ってくれるなんて。
 「あの人にすっごいサンキューだね」と息子と話しながらサッカー場に向かいました。

 ベビーカーお助け忍者たち。

 思えばロンドンでの子育てって、特に幼少期は毎日のようになんらかの形で誰かに助けてもらうような日々だったな。

 その日々の中で、私の中にあった「街での助け合い」という行為へのイメージが変わったような気がします。
 以前は、「優しい雰囲気を醸し出した人が、にこやかな声掛けで困っている人を助ける。助けられた人は申し訳なさそうに笑顔で感謝をする」みたいなイメージをなんとなくもっていたのですが、親として過ごすロンドン生活の中で、そういったイメージを覆す「ぶっきらぼうな優しさ」みたいなのものに何度も触れたのです。
 いや、ぶっきらぼうというか、「当然すぎて笑顔も別に必要ないでしょ」というテンションだったかもしれない。

 ロンドンは築100年以上の建物がざらにあるので、エレベーターがない駅がたくさんあります。そういった駅では「よっこいしょ、よっこいしょ」とベビーカーを運びながら階段を上り下りするしかありません。
 けれど、ベビーカーで階段の前に立ち止まった瞬間、たいてい「忍者?」ってくらいすばやく四方八方から人が寄ってきて「手を貸そうか?」と話しかけてくれるので、移動が大変だったという記憶がないのです。
 世間話をしながら手伝ってくれる人もいれば、ゼロ笑顔で流れ作業のように手伝ってくれる人、無言でバッとベビーカーを持ち上げて階段下まで運んでそのまま無言で立ち去った寡黙なスーパーヒーローのような人もいました。

 お店も自動ドアではないところが多く、ベビーカーでの入店に手こずるときもあったのですが、やっぱり誰かがちょっと離れたところからでも駆けつけて、ドアの開け締めをサポートしてくれることが多かったです。
 こういったことはいつも当たり前のように行われて、お礼と笑顔を交わし合うこともあったけど、助けてくれた側から「わざわざ礼を言われる筋合いはない」みたいな心意気を感じることもけっこうありました。
 助けられているほうも過度にお礼をせずに、サラッと受け止めているような光景をよく見ました。

 特別な優しさからする行動じゃなくて、普通のことなのかも。

 こういった経験から、私が漠然と抱いていた「人助けは優しい誰かの思いやりの心から発生する、特別な行動」みたいなイメージに対して、ちょっとクエスチョンをするようになったのです。
 確かに、優しさが大きな動機の場合もあるとは思います。でも「特別に優しい人だけが、困っている誰かを助ける」という感覚だけで成り立っている社会だと、助けるほうが相手に施すという関係性にどうしてもなってしまって、助けられる側はつねに低姿勢で感謝しないと失礼であるかのような構図ができてしまうのでは?

 私の場合だと、子育てでベビーカーを使用する期間は限られているとわかっていたので、助けてもらうたびに「ありがとう」と毎回お礼をすることを気にせずにできていました。でも、期間限定だったからこそ、「助けてもらう側」としての振る舞いをとくに負担に感じずできたのかもしれない。
 だけど、たとえば期間限定じゃなく、日常的に車椅子で移動をしなくてはいけない人の場合はどうだろう。どこにお出かけをするにもずっと「ありがとう」と低姿勢でお礼をしなくてはいけないとしたら、それって大変だよね。
 誰かの手を借りないと移動ができないのはその人のせいではなく、バリアフリーに街を設計していない社会に問題があるはずなのに。

 だから私は、助けるという行為にそこまで「親切」「優しさ」に重きを置かないロンドン民の姿勢が好きだなと思いました。必ずしも笑顔や過度なお礼はいらない、もし気が向いたらチットチャット(世間話)なんかをすればいい、みたいな対等な関係性がいいなと思ったのです。

 誰かの「なんとかなるさメンタル」を作り上げる一人になりたい。

 「街にいる知らない人は、自分に関係のない人」という感覚をどこかもっていた私でしたが、子育てをしているといろいろな人がカジュアルに話しかけてくれるので、見ず知らずの人と会話をすることへの抵抗感が格段に下がり、様々なロンドナーと他愛もないおしゃべりができるようになりました。そのおかげか、この街をもっと深く味わえるようになった気がするのです。
 一見コワモテに見えるおじさんが実は孫を溺愛している、とかそういった個々のストーリーをたくさん知ることができ、世界は私が思っているよりも愛にあふれているのかもしれないと思ったり。

 赤ちゃんだった息子が、電車の中で大きな声で泣いてしまったときに、見ず知らずの誰かが「私の子どももこういう時期あったよ」とサラッと声をかけてくれたり、バスでぐずりそうな息子をあやすために愉快なステップでダンスを踊ってくれた人がいたり、実はけっこうな数のロンドナーが子育てってものを応援してくれているんだ、という心強さを感じられるような経験をいくつもしました。

 だから、「お出かけ先で困っても、助けてくれる人がきっといるはず。なんとかなるさ!」のメンタルで子どもと街に繰り出せていた気がします。この感覚は、精神的に大きな助けになりました。

 私も誰かの「なんとかなるさ」メンタルを作る1人でありたいと思う。
 「困っていそうな人を見たら、忍者のように駆けつけてサラッと助けられる人になるぞ!」なスピリットで、今日もロンドンの片隅を闊歩する人間、それが私です。

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