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第11回

塩豚=高山なおみ

[ 更新 ] 2022.06.01
 あっ、高山なおみ! と、はっとした。
 沖縄は那覇の「うりずん」にて「スーチキ」という茹で豚料理を食べたときのこと。一昨年の冬だった。
 「うりずん」のメニューを開くと、こうある。
 「かつて沖縄の家庭では、豚肉を塩漬けにして保存し、大切に食べていました。この塩漬け豚肉がスーチキ。ゆがいて塩抜きしてあります。せん切りキャベツと一緒にどうぞ」
 そのとおりキャベツが敷いてあって、くし切りレモンが添えてあり、縦に薄くスライスしたきゅうりが載せてあった。「品ある脂っこさ。パンにはさんだりしてもいいかも。地域によっては『スーチカー』と呼ばれるとのこと」と、そのときの私は感想をメモしていた。
 「うりずん」では、盛り付けられた器も重たくてごつっとした印象のやちむんで、高山さんのレシピ本にもそういう姿をした器が登場している。それもあるけど、そうでなくとも、私にとって、高山さんのレシピで真っ先に思い出すのは「塩豚」だ。はじめてつくってみたのは高山さんのレシピ本を見てのことだった。
 オリオンのノンアルビールをコップに注ぎながら、その塩豚をしばらくつくっていなかったことも思い出した。それもあって、余計にはっとしたのだとも。
 たいていはスーパーの豚肉コーナーの上段に並べられている、分厚い豚のバラ肉もしくは肩ロース肉全体に塩を馴染ませ、冷蔵庫で数日ねかせる。スライスして焼いたり、茹でたり、茹で汁でスープをつくるなどして使う、それが塩豚。
 高山さんのレシピ本で塩豚を知る少し前、私は豚の角煮づくりに熱を上げていた。仕上がりがどうとかいう以前に、両手に余るくらいに大きく分厚く切り分けられたお肉を自分の台所で料理するということそのものに、わくわくしていた。同じ材料を使いながらまた別の方向性の一皿を提示してもらえたことが、単純にうれしかった。当時の私にとっては。
 しかしその後、いろいろな料理研究家が編み出した塩豚レシピを見知りつつ、幾度かつくっているうちに、私の塩豚の仕込みかたは高山さんのレシピを正確になぞったものではもはやなくなっていた。
 レシピ本で知りおぼえ、その後つくり続けているうちに、だんだん当初の設定からずれた、自分なりのやりかたに落ち着いていく、というメニューは、家庭内料理人の誰しもがひとつやふたつ、いやそれ以上、手札として持っているはずである。むしろ、完全に忠実にコピーしたレシピしかつくらないという人はどれくらいいるのだろうか。
 1995年に刊行された高山さんの1冊目のレシピ本『諸国空想料理店』には、塩豚はタイのレシピとして登場している。豚バラかたまり肉500gに対して塩は大さじ3。使う前に塩抜きするようにとある。
 それから8年後に世に出されたレシピ本『高山なおみの料理』に登場する塩豚レシピは、部位は肩ロースで、塩の量は、お肉500gに対して大さじ半分とぐっと減っている。つまり1.5%ということ。
 私が選ぶ部位は豚バラ、お肉に対して塩は1.5%より気持ち多め、キッチンペーパーで包んだその上からラップで包んで冷蔵庫にしまう。
 そうやって、塩の比率と包みかたが高山さんのレシピとは違うようなところに落ち着いてもやっぱり、私にとって塩豚は高山さんのことを思い出させるメニューであり続けている。
 高山さんの数あるレシピ本でも最も直截なタイトルの『高山なおみの料理』は、全体に大陸的なレシピが主だ。「すり鉢であたる」「粉をねる」「鍋でコトコト煮る」と、大きく3つの章に分かれている。その合間にはごく短いエッセイが何篇も収められている。
 この本にある言葉は印象深いものが多い。というよりむしろ、幾度も読み返しているせいもあり、その度に台所に向かう自分の気持ちを再確認したり、変わったところを意識したりさせられる、鏡のようでもあるからかもしれない。
 『高山なおみの料理』が刊行された2003年、20代の後半という年頃だった私の身に染みて、今でも響いている、料理をする上での気の持ちようについてのふたつをここに挙げてみたい。


 ひとつは、鶏ガラスープのレシピの前にある短文。
 「身も心もくたびれて弱気になっていると、ごろごろと大きく切ったものは、野菜でも肉でも、味の個性が強すぎて食べられません。そういう時はいくら大ざっぱな私でも、細かく細かく刻んでしまうことに、この間、気がつきました」
 材料の切りかたは、その料理によっておおよそ決まっているのだと漠然と捉えていた私の頭に、料理というのは気持ちの上がり下がりと切り離せないものだと、たしかに刻み込まれた。根菜を俎板に載せてみて、大ぶりに切り分けたいなという気持ちが湧くとき、私は今、元気なんだなあとにやりとする。その逆も然り。
 もうひとつもごく短い文章で「それをしている自分が好きかどうか」とタイトルがつけられており、本文は「料理って、そういうものだと思います」とはじまる。タイトルから、もう話ははじまっている。そして、さやえんどうの筋取りなど、野菜の下拵え作業が幾つか例に挙げられ、この一文で締めくくられる。
 「それをしている自分のことを想像してみて、もしも嫌いだなと思ったら、そういう時はべつに料理なんかすることはありません」
 面倒くさいからやりたくないという気持ちを肯定しているのだろうか、それとも、そんな気持ちで向かうのは料理に失礼、と、突き放しているのだろうか。初見では後者だととったのだけれど、近頃、巷では前者のような意味合いの文言を見かけるようになっているから、その時勢に私も引っ張られているのかもしれない、と、立ち止まる。やはり同書にある、じゃがいもを洗う水の温度についてのエッセイを読むと、後者だと捉えるのが自然だろうか。
 そう、料理研究家の側から、自分達だってごはんをつくりたくなくなるときがあるよ、とのやさしげな言葉が発信されることが以前よりも増えたように思う。けれど、その心情は、料理を生業としていない普通の人の暮らしには単純にぴったり重なるものでもないとも思う私。
 高山さんの文章に立ち返ると、「それ」は料理以外にも当てはまることでもある。


 一昨年、高山さんが5年のブランクを経て刊行したレシピ本『自炊。何にしようか』には、『高山なおみの料理』と対になるような本だ、との感想を持った。十数年をこえて、少しの暗がり、揺らぎを内包し、整理整頓されすぎていないところが共通している。他の高山さんの本は、もちょっときっちりした枠がはめられているものや、食卓の照度をぐっと上げようとしているものもある。それは別に悪いことではないのだけれど、前述の個性は世にある他のレシピ本は持ち得ないもので、私はそこに惹きつけられる。
 この2冊は、装丁、写真、編集をそれぞれ同じ人が担当しているというところでの印象の重なりもあるかもしれない。ただ、座組みが同じといえども、時間の経過も考慮すれば、そんな風に響き合っているとの感想が持てること自体が稀有なようにも思われやしないか。


 「クックパッド」で長く仕事をしている小竹貴子さんのレシピ本『ちょっとの丸暗記で外食レベルのごはんになる』で、塩豚についてふれられているくだりがある。
 「塩豚は料理研究家の高山なおみさんのレシピ本でもよく登場する」
 塩豚といえば高山さん、とのイメージは広く共有されているのだと分かる。
 『ちょっとの丸暗記で外食レベルのごはんになる』のまえがきには、栗原はるみさんが1992年に刊行したレシピ本『ごちそうさまが、ききたくて。』に載っているレシピ全てを丸暗記できるまで繰り返しつくり続けたとある。小竹さんが20代のときにしたというその反復練習は台所の土台となり、この本のタイトルにつながっている。とはいえ料理研究家の名前が頻出する本ではなく、見つかるのは、有元葉子さんの「油は調味料のひとつと考える」との言と、監修したまな板のよさ。水野仁輔さんとの仕事をきっかけにスパイスについて知った、ということくらい。だから余計に、塩豚のくだりに、おっ、と目がとまった。
 これまで、レシピ本をまるごと制覇した経験は私にはない。高山さんのレシピ本は持っていても、載っているおかずをどんどんつくろうという方向は目指さないまま、本全体の編集の妙を味わうというか、そのページが織り成す雰囲気にふれて安堵して、本棚にしまう。それを繰り返してきたと振り返ると、高山さんのレシピ本は実用書とは括れない存在としてうちの本棚にあるのだった。


 小説家の吉川トリコさんは、はじめて買ったレシピ本は高山さんの『野菜だより』とエッセイに書いている。そこから「『高山なおみかぶれ』期」がはじまったとも。言い得て妙だ。そういえば『野菜だより』というタイトルは「便り」と解釈していたけれど「頼り」とも受け取れると気付く。
 吉川さんは「こんにゃくは下ゆでするとか、茄子は水にさらしてあくを抜くとか、海老の背わたを取るとか、さやえんどうのすじを取るとか、数の子の薄皮を剥くとか」などの調理のこつをお母さんに教わった記憶はたしかにあるそうだ。お母さんが1冊だけ所有していたというレシピ本を、20歳で実家を離れるときに持ってきたものの、ひとり暮らしの台所でまずは助けになったのは『オレンジページ』だったという。
 『野菜だより』の第一印象について吉川さんはこう書いている。
 「装丁から写真からフォントにいたるまで洗練されているのにどこか素朴なかんじもあって、料理の工程を記しているだけなのに詩情の立ちのぼる文章に夢中になった」
 1977年生まれの吉川さんと同世代か、もちょっと年が若ければ、小林カツ代でも栗原はるみでもなく、高山なおみかぶれ期を入口にして台所に馴染んでいった人はきっとけっこういるのでは。
 「レシピ本というのは、著者の思想や美学や哲学を、五感ぜんぶで受け入れ味わい尽くすことのできる数少ない表現形態かもしれない。だから、人によって「合う/合わない」がはっきりと出やすいジャンルでもあるんじゃないだろうか」
 吉川さんのこのレシピ本観には私も大賛成。
 手抜きや時短を殊更に推奨することもなく、べったりとこちらの面倒をみようとはせず適宜すっと離れていく、というスタンスの、高山さんのレシピ本が、私は好きだったなと思い出す。


 これまで、高山さんが最も多くのレシピ本を世に出したのは、2000年代のこと。10年のあいだに刊行されたレシピ本のほとんどには、塩豚が登場している。先に引いた『高山なおみの料理』にはじまり、2009年刊の『今日のおかず』に至るまで。
 レシピにある部位は、肩ロースだったりバラ肉だったり。冷蔵庫でねかせる日数も、『高山なおみの料理』では3〜6日で、『今日のおかず』では2〜5日と1日ずつ早まっている。茹でて使うレシピのみが紹介される『おかずとご飯の本』ではねかせるのは一晩だったりする。
 2010年代になると高山さんのレシピは一冊の本というかたちではそれほど頻繁には世に出なくなり、その中では塩豚が登場することもなくなる。
 1958年生まれの高山さんの、40代の味なのかもしれない、塩豚は。


 塩豚を久しぶりに3、4度続けて仕込んでみて、私が達したひとまずの結論は、塩豚は茹でて食べたい、ということ。
 スライスしてフライパンで焼いたりすれば、肉そのものに塩味がついているからもちろん簡便かつおいしいのだけれど、茹でると、茹で豚と一緒に茹で汁も手に入る。そう、私はやっぱり汁物をつくりたいのだった。
 茹でるときは、塩豚と昆布1片と日本酒少々を鍋に入れて、かぶるくらいまで水を注ぎ、火にかける。沸騰したら弱火にしておよそ1時間、静かに煮る。火を止めて、そのまま冷ます。
 茹で汁には豚のおいしさと塩味とが宿る。きのことか青菜とか、野菜を入れて煮るだけでもおいしい。豆腐を入れてもいい、そうすると汁がちょっと薄まるから、味噌を足したりしてもいい。もちろん茹で塩豚をスライスして入れてもいいのだけれど、その姿の見えない豚汁として食べるのも乙だと思う私。
 茹で塩豚には、韓国のポッサムを気取ってキムチを載せて食べたいと思っていたのだけれど、買ってくるのを忘れていて、とりあえず辛子と醤油をつけてみたらそれで満足し、そうやって食べている。
 サキさんにそうやって食べてみるのを薦めてみたところ「シュウマイみたい」との感想をもらった。
 柔らかな豚肉と辛子醤油の組み合わせ、さらに、とろける脂がシュウマイの皮みたいななめらかな口当たりとなるからだろうか。なるほど面白いな、と思う。
 そういえば、茹で塩豚とは冒頭で書いたスーチキそのものである。


 当たり前のことではあるけれど、備忘録として記しておくと、いい豚肉は、塩豚にしてもおいしいし、茹で汁もおいしい。
 いまひとつの豚肉は、塩豚にしてもおいしくないし、茹で汁にもこくが出ない。それは時間、さらには手間をかけてもどうにもならない。

〈文中に登場する本など〉
『諸国空想料理店』高山なおみ 筑摩書房 1995年(ちくま文庫 2005年)
『高山なおみの料理』高山なおみ メディアファクトリー 2003年
『自炊。何にしようか』高山なおみ 朝日新聞出版 2020年
『ちょっとの丸暗記で外食レベルのごはんになる』小竹貴子 日経BP 2020年
『おんなのじかん』吉川トリコ 新潮社 2021年
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