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第1回

私の好きなお米

[ 更新 ] 2021.08.02
 ご飯茶碗を、ひとまわり小ぶりのものに替えたのはおととしのことだった。
 なぜかというと、私はつくづく白いごはんが好きなので。好きが高じて度々お腹が苦しくなりもし、容れ物を小さくすれば、ごはん欲も縮まるかなと考えての策だった。
 しかし、長続きはしなかった。1年経つか経たないかのうちに食卓からも食器棚からも小ぶりのご飯茶碗は退場した。代わりに、以前使っていた、薄手の磁器の、口が広くて平べったいご飯茶碗が復帰した。というのも、ご飯茶碗を替えて程なくしてから、身に感ずるところあり、晩酌の回数と量も減らすことにした。するとお酒が入っていたぶんだけ余裕ができる。そしたらやっぱり、白いごはんをもっと食べたい。
 白いごはんも酒量も減らし、こうやって飲んだり食べたりする量を細らせていく年頃なのかもしれないな、と、達観したようなつもりだったけれど、思い直した。そう、まだ枯れるには早かった私の食欲。
 はたから見ていても、よっぽど白いごはんが好きらしい。
 そう指摘されたことは、これまで2度ある。
 20歳のとき。
 自分、ひとり暮らしやろ、それなのに米、米って、贅沢やろ。
 咎めるような口調で、ふたつ年上の、当時の彼氏に言われたときには心底驚いた。貧乏学生といえばつつましく麺を啜るもの、と、詰られて、そのときは、私はよっぽどぼんやりしていて、彼の言葉の真意が分からずじまい、なにひとつ言い返せなかった。しかし、その後お別れをし、さらに1、2年経ってから、ようやく腹が立ってきた。その、当時の彼氏は、田んぼからはかなり遠い街なかの実家に住んでいた。田んぼの畦道がいつもの通り道、という土地で18まで暮らしていた私の背景についての問わず語りを、聞いているようでいてもちっとも理解してはいなかったのだ、と、分かった。当時は、祖母の親類が分けてくれるお米を実家から小包で送ってもらっていて、私にとってお米は、いつもうちにあるものだった。祖母が世を去って何年も経った今になってみればそれはたしかに贅沢である。しかし、四畳半で麺を啜っているのが正しい大学生、という、どこかで聞きかじったイメージをおっかぶせられても困るのだ。
 ただ、見過ごせないくらいのお米の食べっぷりを見せていたわりには、20歳前後に使っていたご飯茶碗がどんなものだったかはおぼえていないのだった。実家から持ってきたもののはずなのだけれど。このときは、容れ物ではなく、その中身ばかり気にしていたのか。
 2度目は25歳を過ぎて間もなく。
 私が上京してすぐ、いっときルームシェアをしていた、奈良の生まれ育ちの、3つ4つ年下の女友達にも、こう言われた。
 木村さん、ほんまに白いごはんようけ食べはるなぁ。
 これまた、後から振り返ると、私の食卓にはおかずが乏しかったのを暗に、いや、直截に指摘されたのだと思う。
 ちょうどこの頃に刊行された、スタイリストの堀井和子さんの、食卓にまつわる道具をA to Zで紹介していくという趣向の本『和のアルファベットスタイル 日本の器と北欧のデザイン』の「ご飯茶碗」の項には、鼠志野や染付の渋いご飯茶碗の写真があり、その隣に配置された文章の書き出しは、こうだった。
 「20代のころ、こんなにご飯がおいしいと思って食べていただろうか。年とともに変化していく食べ物の好みは、振り返って気づくものかもしれない。白いご飯に合うおかずのときなど、特に“おいしいなあ”とつくづく感じる。同じくらいの年齢の人と、つい、こういう話をしてしまう」
 まさに20代で、お米のおいしさに毎度感じ入っていた私は、その嗜好はやや枯れたものと堀井さんが捉えているとは、と、驚いた。ただ前述のように、周りの20代には度を越したごはん好きと思われていたわけで、世間一般では、白いごはんのおいしさを愛でるのにはまだ早い年頃だったのか。
 このとき使っていたご飯茶碗は、径が小さくて高さのある陶製、粉引の作家ものだった。骨董についての取材をしに行った食器店で買って帰ったはず、とは記憶していても、どなたがこしらえたものだったのかは思い出せません、すみません。というのも、たしか使いはじめて1年経つか経たないかなのに、うっかり割ってしまったからというのもある。割ったのは朝だったのはおぼえている。その眩しい光の下で、がっかりしていた。集めた破片は、手元にあった要らない紙に、その落ち込んだ気持ちごと包むようにして処分してしまった。当時は新聞をとっていなかったので、買い物の折にもらった紙袋の中からひしゃげたのを選って包んだはずだ。
 代わりに、磁器のご飯茶碗を買った。白山陶器の「平型めし茶碗」。
 薄手で、口がずいぶん大きく開いていて、その代わり、背は低い。それまで使っていたご飯茶碗とは正反対のフォルムだった。ひっくり返して高台を見ると、大きく平仮名で「も」の一文字がある。これもまた、取材先で知って、買ったものだった。


 「平型めし茶碗」の輪郭をえがいたのは、プロダクトデザイナーの、森正洋である。そう、高台にある「も」は、森の「も」。
 森正洋は1927(昭和2)年生まれ。ちなみにこの年は、中村屋が「純印度式カリー」を売り出したり、深川の名花堂(現・カトレア洋菓子店)がカレーパンの基となる「洋食パン」を売り出したりとなぜかカレー話に事欠かない。閑話休題。
 長崎は波佐見にある陶磁器メーカー、白山陶器に森正洋が入社したのは、29歳のとき。1960(昭和35)年、「G型しょうゆさし」で、第1回グッドデザイン賞を受賞する。私は、この醤油差しを手元に置いて使ったことはないのだけれど、写真で見てみると、どこかで目にしたことがたしかにある、と思えるようなかたちをしていた。世の人のイメージする醤油差し像をそのままえがき出したみたいな、素直さを内包したかたちということなのだろうか。森正洋は五十路を過ぎて退社するも、顧問デザイナーとして白山陶器の仕事も続けたという。それに、無印良品の食器のデザインも手がけていた、とも。
 「平型めし茶碗」は1992年に売り出され、それから今日まで、生産され、売られ続けている。私が買ったのは、発売から10年を過ぎたあたりということになる。いろいろあった色柄の中から選んだ、と記憶してはいるものの、200種類とされるとはずいぶん後から知った。うちにあるのは、白色の地に淡いグレーの花模様、青色の地に紺色の鱗のような模様、白色の地に焦茶色の松葉のような模様の、3つ。
 ふたり暮らしなのになぜ3つあるかというと、夫・サキさんが単身赴任しているあいだに、そちらを訪ねてごはんを食べるとき用にふたつ送り出し、私は私でひとりでも森さんのご飯茶碗を使いたくて、買い足したのだった。別のかたちのご飯茶碗を使ってみたい、というようなことは考えもしなかった。つくづく、森さんのご飯茶碗の使い勝手のよさ、口当たりのよさ、片手での持ちやすさに頼り切っていたのだった。
 ごはんは白色だから、それを盛るご飯茶碗も白色がいいと、かつての私はそう思って、選んでいた。使ってどれくらい経ったときだったか、同じ色が重なるのはどうも退屈というか、野暮だと感じられるようになってしまった。もし、選び直すとしたら、こってりと濃い色のを手に取るだろうな。だからといって、じゃあ買い替えようというのももったいない気がするので使い続けている。
 このご飯茶碗に、愛着というか共感を持って使い続けていた理由のひとつに、『Casa BRUTUS』に載っていた、2005年に没した森正洋を悼み、仕事ぶりを振り返る記事があった。
 「大小セットで売られている文字どおりの夫婦茶碗とは違い、『平型めし茶碗』はワンサイズ。男性も女性も同じ環境で働く現代の社会環境を見て、森さんはその差をなくして、同じ大きさでもいいのではないか、という発想でこの器をデザインしました」
 和食の器には、女物、とされるものがある。ご飯茶碗はもちろん、男物よりもひとまわり小ぶりの湯呑み、短めのお箸など。それに馴染めないのは物理的な問題で、私は身長が170㎝ある女だからだ。東京の地下鉄に乗り、吊革につかまって周りを見渡せば、私より背の高い男の人はそんなにいないのだなといつも思わされる。
 夫のサキさんよりも、私の背は高い。なので、サキさんのほうが長く、私が短いお箸を使うことは身体の寸法を前提にすれば無意味なことであるはずなのだけれど、世間一般でいう夫婦箸や夫婦茶碗の規格から外れていることを知らされる度に、もやもやした気持ちになっていた。今でもその気持ちは消えない。
 男女でサイズを分けず、定番の型はひとつだけ。森正洋がデザインしたご飯茶碗のフラットさを知ったときには勇気付けられたものだ。そんな、大袈裟な、と思われるかもしれないけれど。


 お米は2kgずつ買う。長いこと、近所のスーパーマーケットで、なるべく安価で、かつ精米日が近いものであれば銘柄にはこだわらず買い求めていた。ここ最近はやはり近所の米屋さんで買っている。というのも、サキさんはラジオ番組「風さやか 愛と夢 永遠のタカラジェンヌ」を愛聴するうちに、パーソナリティーと同じ名の付けられたお米が長野県で栽培されていることを知った。そのお米を扱う米屋さんがたまたま近所にあったのだ。「風さやか」の個性のひとつは、冷めてもおいしい、ということらしいけれど、もちろん、炊きたてもおいしい。あまりもちもちとはしていないものの、私はそのほうが好みかもしれない。
 そういや、お米の、ある品種の名が、昔好きだった男の子が好いていた私ではない女の子の渾名と同じで、そのお米は決して食べないと決めていた一時期があった。その品種は、もちもちとしていた。今となってはもうそこまでこだわりはないものの、わざわざ選びはしない。とはいえ、当店のお米は〇〇を使用しています、と但し書きのある食堂などでその名を見かけると、ふん、と、その文字を睨まずにはいられない。私はたいがい根に持つタイプだ。
 お米の品種名は、女の名と重ね合わせられるものばかりであるわけでもないはずなのだけれど。たとえば青森県の「青天の霹靂」、あるいは宮城県の「だて正夢」などは、それとはまた方向性が異なる名付けだし。


 お米はごく普通の炊飯器で炊いている。
 3合炊きの、6年前に買った時点ですでに新型ともいえず、かといって古めかしくもない炊飯器で、普通においしくお米を炊いてくれる。最短45分というところにやきもきするときもなきにしもあらずではある。すごいスピードでお米を炊き上げてくれる炊飯器があったらいいなあという欲が出るときがある。その度に、鍋で炊いたほうが早いのでは、と、いつかそんなこと聞いたなと思い出す。
 過去に2度、鍋でごはんを炊こうという機運が胸中で高まったときがあった。
 1度目は、火にかけている最中になにか他の作業にかまけていてごはんのことを忘れ、はっと気付けば、ごはん炊きのために新調した土鍋を焦がしてしまい、その一件ですっかりやる気を失くした。
 2度目は、普段は野菜などを茹でるのに使っているステンレスの片手鍋を使って、特段、問題なく炊き続けることができていたものの、二口コンロの台所で、そのうちのひとつが数十分ふさがってしまうのは、おかずをこしらえたり温め返したりするのとの順番をやりくりするのがどうもややこしい、という不満が高じて、やめにした。


 いつぞや、ひとり暮らしをはじめたばかりだった、7つ年下の女友達に、お漬物がないとごはんが食べられないって今更気付いた、と、小声で打ち明けられた。その子の実家では、自家製の漬物が食卓にあるのがあまりにも当たり前で、好きか嫌いか以前に、食べるか食べないかなんて、いちいち考えることもなく、お箸をのばしていたのだ。ひとりの部屋で、ひとり分のごはんを炊いて、ご飯茶碗に盛ってみてから、なにかが欠けていることに気付く。なにか、というのは、漬物という物体を超えて、無意識に享受していた、豊かさ。
 そういう、ごはんのおともとしての揺るがぬ定番は、うちでは、焼き海苔だ。
 味付け海苔ではなくて、プレーンな焼き海苔。分厚すぎず、色が薄すぎず、お値段が穏当な海苔は、かるたくらいの大きさに切って、いつもパリパリであるように、乾燥剤と一緒に円筒形の缶に入れてある。それで、白いごはんをただ巻いて食べている。たとえば、じゃことか、なにかしらあれば一緒に包んだりもするけれど、なければないで別にかまわない。塩気や油気を足さなくても、物足りなさを感じない。海苔は海苔で、ちゃんと味がする。
 ただしあくまでもそれは、ふたりでの食卓の定番であって、私ひとりだったら、焼き海苔よりも先に手をのばすものがある。
 削り節に醤油。いわゆる、少し昔のネコマンマ、今では猫の身体にはさわるとされている組み合わせ、茶色の世界である。かつおぶしで出汁はとらなくとも、削り節を常備しているのはこのために。炊きたての白いごはんの上に削り節を躍らせてみては、醤油をちゅっと垂らして、そのダンスを鎮める。

〈文中に登場する本など〉
『和のアルファベットスタイル 日本の器と北欧のデザイン』堀井和子 文化出版局 2001年
『Casa BRUTUS』別冊「にっぽん全国器の素敵なカフェ案内。」マガジンハウス 2010年
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