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第9回

ひとりご飯修行のススメ

[ 更新 ] 2022.08.10
 前回で書いたように、私が長い間、ずっとひとりで過ごす旅をしてこなかったのは、食事の問題が大きかった。ひとりだときちんとしたレストランへ入りにくいのだ。だからひとり旅はしない、そうはっきり言う友人もいる。かつては私もそう思っていた。下戸で酒が飲めないことも、ひとり旅を躊躇させた。
 しかし今ではひとりきりで、レストランで食事をするのは決して憂鬱なことではない。むしろ楽しみとなっている。なぜなら「ひとりご飯修行」をするようになったからだ。
 某映画会社に勤務しつつ、映画ライターでもある友人、杉山亮一さんは、私が勝手に、ひとりご飯修行の師匠と思っている人物である。
 杉山さんとは香港時代に知り合ったので、もう20年以上のつきあいになる。彼はコロナ以前、出張も含めると毎月のように旅していた。プライベートでも香港の金像賞、台湾の金馬賞、香港電影節など、アジアの映画賞や映画祭には常に顔を出していたし、また彼は熱狂的な007ファン(私の007師匠でもある)でもあり、ロンドンで行われる007のロイヤルプレミアムにも参加しては涙する、といった人物でもある。
 仕事の都合上、ヨーロッパでも最長で1週間、大抵は3、4日しか滞在できないのが悲しい、とご本人はおっしゃるが、杉山さんは「ひとりご飯の達人」だ。弾丸旅でも必ず、一流ホテルや星つきレストランなどでひとり、優雅に食事をしている。
 ある時、私がなにげなく、「杉山さんは偉いですよねえ。私はひとり旅だったら、杉山さんみたいに、良いお店で食事するの、なかなか出来ないと思う」と言ったら、
「僕だって、ひとりでご飯食べるの、辛いですよ。淋しいですよ。でも以前、思ったんです。おいしいものがあるのに食べない人生と、ちょっと頑張って食べる人生があるとしたら、どっちをとるか? って。それで僕はちょっと頑張って、ひとりでおいしいご飯を食べる方がいいなって思ったんですよ」。
 なんと! 今日はプライム・リブステーキ、明日はホテルのアフタヌーンティーといった、絢爛豪華な食べ歩きの裏には、そんな決意があったとは! ちなみに彼も下戸である。その言葉を聞いて私は「そうか! ひとりご飯は修行なんだ! 決して楽ではないが修行だから仕方がないんだ!」と思ったのであった。
 それから私は旅でひとり、食事をするのが不思議なくらい嫌ではなくなった。そうして、その「気づき・・・」をくれた杉山さんは、私のひとりご飯修行の師匠となったのである。
 ということで今回、あらためて杉山さんに海外、特に英国における(彼は007ファンなので欧米への渡航は英国が圧倒的に多い)「ひとりご飯」について、話を聞いてみた。
 いろいろ話をしていくうちに、ひとりご飯修行には、いくつか攻略法があることが分かってきた。
 まずは、行きたいお店には事前に予約を入れること。予約を入れておけば、直前になり「やっぱり止めておこうかな……」と迷って結局、行かなかった、という事態を避けられる。もちろん体調が優れない時はキャンセルした方が良いけれど、なんとなく、ためらわれたり、面倒だなと思いはじめて(こんな時はだいたい、疲れているのだが)行くのを止めると、後になって「やっぱり行っておけば良かった……」という後悔が生じやすい。
 そんな時、予約が己への軽い縛りとして活きてくる。「水の低きに就くが如し(物事は自然のなりゆきに従うという意味。孟子の言葉)で、予約を入れていなくて、ああ、なんか疲れているなと思ったら、ロンドンでも蘭州牛肉麺を食べたりしてしまうので……」と杉山さん。いや、これがなかなかおいしいんですが……と言いつつ、やはり現地ではそこでしか食べられない、地元のものが食べたい(なるだけ地場のものが食べたいという気持ちは私たちに共通している)。これがひとりでなければ、「蘭州牛肉麺? ないでしょ」と言ってくれる友がいるが、ひとりだとついふらふらと蘭州牛肉麵へ……ということになってしまうと言う。
 ということで、予約は旅に出る前に入れてしまおう。「旅先ではテンションが上がっているので、元気だと感じるけれど、実はけっこう疲れているんですよ。日本で出来ることは日本でやっておく方がいいです。特に短期の旅だと、現地へ行ってから調べたり、予約を取ったりするのは面倒ですから」。大抵、店のウェブサイトから予約できるし、今は予約アプリ「Open Table」が便利だ。杉山さんは旅の最後の夜、ちょっと良いレストランに予約を入れることが多いと言う。
 しかし、この攻略法、おそらく彼が一番よく訪れているだろう香港では使えない。アジアも地域によって事情はそれぞれだと思うが、香港は「Open Table」に登録されている店は少ないし、第一、きちんとした酒樓(レストラン)の食事は基本「みんなで食べること」を前提としているので、一皿の量が多すぎる……。
 まあ、香港では飲茶(は一皿が小さいので大丈夫)や麺やお粥も十分おいしいし、最近は日本でもその名が定着しつつある(のかな?)茶餐廳(喫茶店兼食堂)にはひとり用のぶっかけ飯(白いご飯の上におかずがのっている)が種類豊富にあるので、数日の滞在なら問題ないかなと思う。
 予約の次は、ひとりでテーブルに着き、料理を待つという試練が待っている。料理を待っている間は周りを眺めるくらいしか、本当にやることがない(下戸の悲しい性である)。そして良い店は、料理が出てくるまでに時間がかかる……。
 今なら、スマホを見て過ごすという手もあるかな、と思う。LINEやツイッターを使えば、ひとり旅の寂しさは簡単に払しょくされてしまう。しかし私は、店でスマホを握ったままというのはなんだか嫌なのだ。人はスマホに向かう時、心は「ここ」にないと思う。スマホの先の、電波の先の、遥か向こうのどこかにあると思う。せっかく「今」「ここ」にいるのにもったいない、そう思う。が、暇な時は、ちょっとくらいは見てもいいよね。
 しかし、グーグルマップの登場は旅の行動様式をまったく変えてしまった。グーグルマップさえあれば世界中、どこでも、何の下調べをしなくても自由に動き回れる、そんな錯覚に陥る(本当は、世界にはスマホの電波が届かない場所はいくらでもあるだろうから、どこでも、ではないと思うが)。グーグルマップの万能感は本当にすごくて、あれを使ったらもう、昔のようにちまちまと地図を見ながらの旅には戻れない(私は旅先で地図にマッピングするのが大好きだったのだが)。
 料理を待っている間の手持ち無沙汰に関しては「メニューは下げないでもらって、料理を待っている間、熟読しちゃいます」と杉山さん。あ、確かに。私もメニューは読みます。外国語のメニューは読むのに時間がかかるところもいい。解読しながら、「あ、この料理があったのか! こっちを頼めば良かった。次は必ず……」と軽い後悔をしたり、「デザートはこれにしようかな」などと思ったり、メニューを読むのはなかなか楽しい時間だ。
 本を読んで待つのもいいし、予定や日記など、書きものをして待つのもひとつの方法だ。
 以前、友人でイラストレーター・漫画家の門小雷(リトルサンダー)が遊びに来た時、二人で東京の街をあちこち歩いたことがある。彼女は喫茶店に入るとすぐに、小さな手帳を取り出して、周りをスケッチし始めた。その間、特に話もせず、彼女の筆さばきに見とれながら、絵が描けるということは、何と素晴らしいことなのだろう! と思った。紙とペンは彼女の友人だから。きっとどこへ行っても、紙とペンさえあれば、彼女は落ち着いていられるのだ。
 私も絵が描けたらなあ! と羨ましかったが、思えば紙とペンは私にとっても良き友ではないか。絵は描けないが字は書ける。ということで、ひとり旅の時には毎回、小さな旅ノートを用意し、スケジュールや、ちょっとしたメモ書き、その日にあったことなどを書くようになった。レストランでも落ち着かなくなったら、このノートに何かしら書いている。これもなかなか良いものである。

 実は「英国ひとり旅」の時も、ロンドンで「St. JOHN」という英国料理の店へひとりで行ったのだ。私は2018年に亡くなった元シェフ・作家のアンソニー・ボーデインの大ファンなので、よく彼が行った店をトレースしている。「St. JOHN」も『クックズ・ツアー』に出てくる店のひとつである。
 初めての英国旅の時も「St. JOHN」へは行ったのだ。着いたその日の夜にしか予約が取れなかった。しかし昼過ぎに着くはずだった飛行機が台風により大幅に遅延し、ロンドンに着いたのは夜。疲れで意識が朦朧となっており、何を食べたかもよく覚えていないし、食べ終わったら、床がふわふわしてきてヤバかった(この状態で初めての街、初めてのレストランへ行けたのも、友人と一緒だったからこそ、だ)。
 しかし、そんなボロボロの状態(遅延だけでなく、荷物がロストバゲージでパリへ運ばれてしまったため、着替えもなく、時間もないのでシャワーを浴びることさえ出来なかった)にもかかわらず、店の人はとても丁寧で親切だった。だからひとりでも「St. JOHN」へは行こうと決めていた。前回の恩返し、というわけではないが、何か使命感のようなものがあった。
 店に入ると前回同様、満員で、最初はなかなか落ち着かなかった(ここは杉山さんもお気に入りの店だが、テーブルの間隔が狭く、周りはカップルやグループで賑わっているので、周りを気にせずに落ち着くまでちょっと時間がかかる、と言う)。
 この時は、St. JOHNのシグニチャー・ディッシュである牛の骨髄とパセリサラダ、メインは辛いソースのキドニーを頼んだ。すると注文を取りに来た女性スタッフに「だったらグリーンもどう?」と勧められ、素直にそれも頼んだ。
 背脂やラードなど、こってり味が好きなら、トーストに塗って食べる、骨ごと焼いて溶け出した牛の骨髄は、好ましく、また感動のおいしさだ(帰国してから、骨髄の入っているスープ用牛骨で真似して作ってみた。241円くらいで出来てしまった……)。口直しの酸っぱいパセリサラダともよく合う。
 グリーンはキャベツとケールを茹でただけのものだった。英国料理は、野菜を正体がなくなるまでくたくたになるまで煮る……と揶揄されてきたが、その、歯ごたえが残るくらいの茹で加減は、伝統的な英国料理を現代的に洗練させたSt. JOHNらしかった。スパイシーでこってりしたソースのキドニーにもよく合った。デザートは、ラズベリーパヴロヴァ。メレンゲと生クリームに、ラズベリーソースがかかっている。パヴロヴァはもともとオーストラリアのデザートで、ロシアのバレリーナ、アンナ・パヴロヴァが名前の由来という、儚さを感じる軽いデザートだ。杉山さんはSt. JOHNのイートン・メス(パブロヴァによく似ている英国のデザート。メレンゲを崩し、果物やクリームとよく混ぜて食べる。イートン・メスの発祥であるイートン校はジェームズ・ボンドの出身校という設定でもある)をとても気に入っていると言う。
 注文をとったスタッフは、料理を運んでくるたびに声をかけてくれ、そして何より、一皿一皿がどれもおいしく、最初の緊張はすっかり消えて、楽しい時間を過ごせた。
 だから会計の時、たくさんチップをはずめば良いのだが、こちらの懐の都合でなかなかそういうわけにもいかない。せめてもと思い、「あなたのおかげで楽しい食事でした。ありがとう」と言ったら、彼女も嬉しそうに笑ってくれ、二人でハグして店を出た。
 とても良い夜だった。

「旅先での食事を思い出す時は、料理だけでなく、旅そのものを思い出すんですよ」と杉山さんは言う。確かに、店の様子、人々とのやりとり、そんなものを料理の味と一緒に鮮明に思い出す。
 もちろん、期待して行った店があまり良くなかったということもあるし、ひとりご飯修行がいつもうまくいくとは限らない。店のスタッフや、隣の席の人とちょっとしたおしゃべりをしたり、お勧めの店を聞いたりすることもある一方で、最初から最後まで黙々と食事をして、店を出ることもある。「でも、どちらにせよ、やってみないと分からないです」と杉山さん。もしかしたら、行動を起こすこと、それがひとりご飯修行の意義のひとつなのかも知れない。
 もし、ひとりの食事が嫌という理由でひとり旅を躊躇している人がいたら、ぜひ「ひとりご飯修行」に挑戦することをお勧めしたい。
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